八月二二日④
「何の打ち合わせ?」
本橋は再び吉岡に尋ねた。
「この間の死亡災害の遺族補償、東原さんが口座番号間違えたために今日支払予定だったのに、振込不能になっちゃったらしいんです。あそこの担当者が随分うるさい人なんで、事前に対応策を検討しているんですよ」吉岡も同情するように会議室の方を見た。「東原さんがそんなミスするなんて考えられないですよ」
本橋は会議室のドアをノックし、体を半分のぞかせた。杉田副署長がイラついた様子で「打ち合わせ中だ」と本橋を怒鳴った。
「すみません。それは承知しているんですが、東原に急ぎで連絡したい事項があったので」
本橋は杉田副署長に対して丁重に申し開きすると、東原に首を振って室外に来るよう促した。
「すみません。少し失礼します」
東原は同席している上司の許可を待つことなく、さっと席を立つと本橋と一緒に会議室から出た。
「どうしたの?」
東原は声を落とした。
「山形の同期から連絡があった。陣内範子は、住民票上の現住所ではなく、転居前の住所に住んでいることが判明した。そして東原が会った女性は陣内範子ではなかったことも分かった」
「訳がわからないわ」
「そうだな。オレも完全には整理できていない。だが、現時点で一つだけ言えることは、支払を遅らせたという東原の判断は正しかったということだ」
「手段は褒められたものじゃなかったけどね」
東原は自嘲気味に微笑んだ。
「とにかく状況が百八十度変わった。お前の判断は正しかったという確信を持て。副署長はお前をスケープゴートにするつもりだろうが、決して屈するな。ただし陣内範子が別人だったことは、今はまだ伏せた方がいいと思う」
「どうして?」
「直感だな。副署長にそんな事実を知らせたらパニクって何をしだすかわからない。予測不能な要素はなるべく排除した方が得策だ」
「ひらすら私が、あの杉田に頭を下げなければならないってことね。不本意だけど、頑張るわ」
東原の目に自信が戻った。会議室に戻っていく東原を見送ると、本橋は自席に戻り、桐生に電話をかけた。
「本橋だ。陣内範子は別人だった」
「どういうことだ?」
「オレもまだ整理できていない。今夜時間とれるか? 昨日のバーで会おう」
「分かった」
本橋は受話器を置くと、何か思いついたように、書類をめくり再び電話をかけた。
「黒本組です」
「杉並労働基準監督署の本橋です」
「ああ、先日はどうも。大和田です」
「あれ? 社長、会社に出てきてるんですか? 白岩さんは?」
大和田は、かなり狼狽しているようだった。
「それが、昨晩から連絡が取れないんですわ。私も今朝厨房のパートから呼び出されてね。仕事の段取りもしていないらしくって、苦情対応でてんてこ舞いですよ」
「そうですか、お忙しいところすみませんでした」
受話器を置くと、頭上からアナウンスが流れた。
「本橋監督官、お客様がお見えです。受付までお願いします」
時計を見ると午後三時だった。今日はこれから二件申告事案の来客がある予定になっていた。本橋は机から関係書類を挟んだフォルダを取り出すと立ち上がった。もどかしいが、一つの事案だけに専心するわけにはいかない。毎日新しい事案が割り振られ、常時十件以上の手持ちの事案を並行して進行させ続けなければならないのだ。




