八月一八日⑦
本橋の電話が鳴った。受話器を取ると受付の遠野の声がした。
「本橋君に、例の依元さんの関係。杉並能登運送サービスから外線三番よ」
遠野が杉並署で抱えている全ての事案の関係者をいつも正確に把握していることに、本橋はいつも感心させられた。東原に至っては遠野を崇拝していた。本橋は、右手に持ったペンで外線ボタンを押した。
「杉並能登運送サービスの能登です」社長だ。「うちの社員から聞いたんですが、随分おおごとになっているようですな」
「社長のところにも話がいってるんですか?」
「いやいや、本人からも何とかネットワークとかいうところからも、うちには全然話は来てません。来たら、さっさと給料取りに来るよう説明しようと思ってるんですけどね。うちで働いていたときの依元の携帯番号に電話しても、解約したらしくて繋がらないし、困ったもんです」
「私も社長から話を聞いた後、本人に電話をしているんですが、こちらで本人からもらっている番号は呼び出し音が鳴るだけで出てもらえない状態なんです」
「そうなんですか?あいつ、一体何考えているのか。うちも悪いことしていないのに風評流されるのも面白くないし、本橋さんに迷惑かけるのも申し訳ないと思って電話しました。本人と連絡が取れたら、すぐに払うって言っていたと伝えて下さい」
「わかりました」
東郷は、依元の給料の支払元である杉並能登運送サービスに接触していない。この電話で、本橋の東郷に対して抱いていた疑念は確信に変わった。労働者の権利救済を標榜しながら、本心では自らの権力との闘争の道具としか思っていない東郷のエゴイズム。本橋は密かに奥歯を強く噛み締めた。
「斎城三主任と本橋君、ちょっと来てくれないか」
ヒステリックな声とともに杉田副署長がやってきた。斎城はやれやれといった様に、本橋に一瞬目配せして席を立った。副署長席の前に二人が並ぶと、杉田は席に座って背もたれに体を預けた。
「例の団体、月曜日に署に来るっていう話は本当かね?」
「ブログにはそう書かれています」本橋が答えた。
「何時に来るんだ? 人数は?」
「分かりません」
「分からない? それじゃあ庁舎管理上困るじゃないか」
「しかし、こちらへは通告がないので確かめようがありません」
「確かめようがないって、もし大人数で押しかけてきて騒ぎ出したらどうするんだ?」
「お言葉ですが」斎城が冷静な声で割って入った。「こちらから、わざわざ相手に電話をして確認しろとおっしゃるのですか? それでは、先方の行動を容認したと受け取られかねませんよ」
「そんなことは分かっている」杉田は思わず声を荒げ、不機嫌そうに言った。「しかし、これ以上あることないことを喧伝されては困るじゃないか」
「何が困るのですか? 今回の件に本橋さんの落ち度も当署の落ち度もないはずです。そうである以上、相手がどう騒ぎ立てようと、毅然とした態度で臨まなければならないと私は思います」
斎城は静かな口調で、しかしはっきりと主張した。
「私だってそうすべきだと思っている。しかし、彼らを下手に刺激して言動をエスカレートさせるのは得策ではない。斎城主任も管理職として現実的な判断をしてほしい」
杉田の言葉の一つ一つに括弧書きで「自分は面倒な事態に巻き込まれたくない」という本音が見え隠れしていた。
「では副署長、この件は本橋さんの上司である私に一任していただけませんか」
斎城は副署長の本心を見透かしながら、あくまで部下として副署長の杉田を立てるように申し出た。
「きちんと収束できるのかね。穏便に」
「ええ。副署長にご迷惑をおかけするようなことは致しません」
斎城は悠然と答えた。
杉田は、自分独りが気後れしていたことをごまかすように眼鏡を外して、憮然とした顔つきで「わかった」と吐き捨てた。




