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八月一七日⑯

「もう少し墜落する場所がずれていたら死んでいたよ」

どうでもいいような口調でそう言う主治医の能面のような顔を思い出した。そして、「邪魔だ!」と言い、本橋を押しのけた男の憎悪に満ちた目が鮮明にフラッシュバックした。あれは事故では無かった。本橋は、見ず知らずの職人に足場ですれ違いざま不意に突き落とされたのだ。

 あの時、なぜか救急車も呼んでもらえず、腹に鉄筋が刺さったまま、現場入り口の休憩所で汚いタオルを当てたままでしばらく待つよう言われた。目の前を通り過ぎる作業員が好奇の目で本橋の方をちらりと見て、声を潜めて話していた。怪我した上に、何故このように晒されなければならないのか分からなかった。しばらくして現場に車がバックして入ってきたが、それは救急車ではなく乗用車だった。本橋がよろめきながら車に乗り込もうとすると、元請の係員が「ちょっと待て」と制止し、「血がついたら汚れるからな」と愚痴りながら後部座席にビニールシートを敷き始めた。誰も自分のことを心配してくれないどころか、厄介者のように邪険に扱われる理不尽さに腹立たしさと悔しさが同時に胸にこみ上げてきた。

 驚いたことに元請の係員は、救急外来で待機していた医師に対して、「うちが施工している建設現場付近の道路上で、倒れていたところを発見したんです」と平然と嘘を吐いた。本橋は違うと否定したかったが、変に話を拗らせて治療が遅くなっては困ると思い、脂汗をかきながら歯を食いしばり、沈黙を守った。治療後、麻酔が覚めると、枕元に元請の現場責任者と社長の姿があり、元請が治療費や休業補償を全部面倒見るから、休憩中に見知らぬ暴漢に言いがかりをつけられ鉄筋で刺されたと説明しろと説得された。見え透いた嘘を吐くのは本意では無かったが、このままでは治療費を自分で負担しなければならないと脅され、労災保険のことを知らなかった本橋は、言われたとおりにするしかないと思い込まされた。

 入院中、面倒をよく見てくれた少し年上の職人が一度だけ見舞いに来た。本橋が事実を語ると、

「死ななかったんだから、それだけでも運が良かったと思った方がいいぜ」

と嗜められた。古傷は、今でも時々思い出したように疼き出す。その度に本橋は、理不尽な憎悪をぶつけてきた男の凶暴な目つき、患者の容態など他人事のような主治医の顔、そして自分が虫けら同然に扱われたことへの悔しさを繰り返し思い出し、強い怒りがこみ上げてくるのだった。気づけば、今もまた痛みも忘れる程、怒りの感情に支配されていた。「あいつも同じだ」本橋は白岩の顔を思い浮かべ、つぶやいた。「覚えてろよ」

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