八月一七日⑮
普段は一五分しかかからない道のりだったが、暴行を受けた時間やその後の蹣跚のせいで、家に着いたときには日付が変わっていた。本橋は電気もつけぬまま靴を脱ぐと、乱暴にスーツを脱ぎ捨て、その無残な状態を見たくないという様にそのまま全部ゴミ袋に突っ込んだ。このままベッドに身を投げ出して横になりたいと思ったが、やはり身体検査をしなければと考え直し、シャワーのバルブをひねった。冷たい水に傷口を刺激され、思わず顔をしかめユニットバスの壁を拳で叩いた。徐々に湯が出てきたので、シャワージェルを手に取り、体に塗ろうと思ったが、腕一つ動かすだけで身体中に痛みが走った。結局諦め、手の平のジェルをシャワーで洗い流し、突っ立ったまま頭からシャワーの湯を浴び続けた。そしてドアのフックに掛けてあったバスローブを羽織り、何とかユニットバスから脱出すると、そのままベッドに仰向けに倒れた。胸から脇腹を手でなぞると、右側の下の方の肋骨がひどく傷んだ。何本かは判らないが折れているようだ。何年か前に折ったのは左側だったっけ、と思い返してみた。口の中が乾いていたが、舌で口の中をぐるりとなぞっても血の味はしなかった。「顔はやらないってか」白岩からの警告、当然そう考えるべきだと思ったが、相手の術中に嵌るような気がしたので、敢えて通りがかりのチンピラに絡まれたことにしようと、真っ暗な空間を見ながら無理やり自分にそう思い込ませようとした。「そして、一番厄介なのはここだな」シャワーを浴びて全身の痛覚をリセットしてから、身体の奥から感じ始めた腹部の鈍痛。「経験上は、内臓のどこかがやられたな」本橋はスマートフォンを手に取ると、少しの間逡巡してから、電話をかけ、そのままベッドの上に投げ捨てた。
「カタルシスです。お客様、あいにく当店はすでに閉店しておりますの」
スピーカーから、ヒロの芝居がかった甲高い声が聞こえ、周りの客がドッと笑う声が聞こえた。
「ヒロ、仕事中悪いがボコられた」
「何、大丈夫か⁉」
ヒロの声が突然バリトンになった。本橋は、おかしくなって思わず笑った。肋骨が痛んだ。
「笑わせるな、肋骨が痛えよ。骨だけだったら我慢するんだが、どうやら腹の中のどこかもやられたらしい」
「よしわかった。今どこだ? すぐに行く」
「自分の部屋だよ。仕事終わってからでいいから、ちとヤブ医者のとこまで連れってくれないか」
「頼むぜ」と言う前に、電話は切れていた。目を閉じると、身体中から上がってくる悲鳴がことさら気になるので、再び目を開け、真っ暗な空間を見つめた。仮に今日の襲撃が白岩の差し金だったとしよう。今日、自分が白岩のところまで訪問したこと自体が癇に障ったのだろうか。いや奴の性格からして、むやみに騒ぎたてて、いたずらに事を荒立てるようなことはしないだろう。帰り際、来訪の意図を探ろうとした白岩に対して、本橋は敢えて「用は済んだ」とだけ答えた。白岩の胸中に不安のさざ波を立てさせるためだった。思惑どおり一石を投じることができた。が、ここまで直接的に警告してくるとは思わなかった。思えば久しく肉体的痛みを感じたことがなかった。前にこれと同じ苦痛を感じたのはいつのことだったろうか、高校を卒業してからしばらくやっていたボクシングの試合で、カウンターをもらった時もこんなに痛かっただろうか。そのとき、ふと本橋の右手が脇腹の古傷に触れた。ちょうどその頃、雑役工として働いていた建設現場で足場から墜落し、鉄筋が突き刺さったときの傷だ。間違い無く、あれが生涯で一番痛かった出来事だった。




