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八月一七日⑪

「それで、本橋さんは何が気に入らないの?」

「何もかも。第一に、手すりがきちんと取り付けられた場所から人が墜落するはずがない。第二に、事故が起きた直後から労災請求に必要な書類を準備し、遺族である娘を山形から呼び寄せる会社の用意周到ぶり。第三に、被災者は八月一日から働き始めたことになっているけど、実際には七月二三日から黒本組の寮に入り、それから約一週間毎日酒浸りだった。彼は、長らく音信不通だった娘への罪滅ぼしのためにお金を作ろうと働き始めたのにね。その娘を白岩が山形で偶然にも発見し、それをわざわざ新宿でホームレスをしていた被災者を探し出して知らせたというのが気に入らないところの第四」

「白岩って男はどんなやつなんだ?」

「黒本組を事実上牛耳っている。自分のところで雇っている作業員のことは、金を集めるための道具ぐらいにしか思っていない」

「辛辣だな」

桐生は苦笑いした。

「個人的な感想だよ。白岩は被災者と面識があったようだけど、わざわざお前の娘をたまたま見つけたぞ、なんて知らせに行くようなお人好しじゃない」

「二人の関係はよくわからないのか」

「今日、それを探ろうと思ったんだけど、取りつく島もなかった。越権行為だろうって、門前払いだった」

「実際そうだしな。頭の回転は良さそうだな」

本橋の憮然とした表情を、桐生は茶化すように見た。

「しかし、」桐生は真面目な顔でグラスを置いた。「確かに不自然だな。白岩の一連の行動が単なる親切心や献身じゃないとすれば、動機はなんだ?」

「それが解らない。利己主義な奴だから、絶対自分に利害があることに違いない」

「ありきたりなところで言えば、金かな? 今回の事故で労災から幾らくらい補償金が支払われるんだ?」

「ざっと、見積もって二千万円くらいからな」

「結構出るんだな」

「言い忘れていたけど、被災者の日給が二万円と異常に高額で契約していたことも気に入らないところなんだ。労災の補償額は、被災者の賃金をベースに決まるからな」

「気に入らないところが、どんどん増えるな。タバコ吸わないのか?」

「五年前に止めた。気にせずやってくれ」

桐生は胸ポケットから、ソフトパッケージのラッキーストライクを取り出すと口にくわえ、手慣れた手つきでジッポーライターで火をつけた。懐かしいナフサの匂いが漂った。

「ラッキーにジッポーか。懐かしいな」本橋は、仲間内で競うようにアメリカ文化に傾倒していた二十代を思い出した。

「これだけが学生時代から使い続けている相棒さ。こいつと別れることがあったらタバコをやめようと思ってるんだが」桐生は、右手で慈しむようにジッポーライターを持ち、親指でボディを撫でた。「ところで、労災の保険金は誰が受け取るんだ?」

「遺族の口座に振り込むことになっている」

「じゃあ白岩には何のメリットもないな。被害者の娘と共謀でもして、被害者を事故死に見せかけて殺していれば話は別だが」

「その可能性はあると思わないか?」

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