八月一七日⑩
二人は、カタルシスのドアをくぐった。ヒロが、「いらっしゃいませ本橋様。いつもの席をご用意しています」と澄ましたバリトンボイスで迎えた。店内には、アームストロングが流れていた。本橋はそれが滑稽な演技に思えて、にやけそうになったが、折角の演出を台無しにしないよう、片手を上げると桐生を従えてカウンターの奥の席まで進んだ。
ヒロは、手慣れた手つきでコースターをセットし、「お客様は、初めてお見えですね。ありがとうございます。ご注文お決まりでしたら、申しつけください」と愛想よく桐生に挨拶した。
「自分は、本橋さんと同じものでいいです」
「ヘンリーマッケンナというバーボンのロックになりますが」
桐生は、それでいいという風に頷いた。「かしこまりました」と一礼してヒロがボトルを取りに行った。
「洒落た、いい店じゃないですか」
桐生は店を見渡しながら、感心したようにつぶやいた。
「友人の店なんです。もしよかったら、使ってやってください」
ヒロが手慣れた手つきでアイスピックを使って氷を球状に削っているのを見ながら、本橋は答えた。
「本橋さん、歳はいくつですか」
「三二です」
「自分と同じ歳なんですね」
何故か桐生は少し嬉しそうだった。
ヒロが、ロックグラスを二人の前に置き、マッケンナのボトルを傾けた。そして、「ごゆっくりお過ごしください」と一礼して去って行った。
「じゃあ、タメ口でいいね」
本橋がグラスを持ち上げると、桐生も同じようにして、カチリとグラスを鳴らした。
「千葉まで何人で行ったの?」
桐生は、ずっと前からそうしていたようにくだけた口調になった。
「一人で」
本橋は、グラスを傾け、喉でバーボンの強い刺激を味わった。
「労基の人は単独で動くの?」
桐生は、驚いたように尋ねた。
「そう。警察と違って人もいないから」
「この間の現場でも四人で来てたよな」
「少ない時は一人で見分することもあるよ」
「すごいな。考えられない」桐生は、ナッツを口に放り込んだ。「でも、あの件は労基がやってる労安法の違反はないんでしょ。上司が千葉まで聞き込みに行くのよく許してくれるね」
「あまり細かいことは話してない」
桐生は、本橋の横顔を呆れたように見た。
「ばれたら問題になるんじゃないの?」
「この事故の真相を明らかにするためには、他に選択肢がなかった」
本橋は平然と答えた。
「呆れるな」
「よく言われる」
桐生は愉快そうに笑みを浮かべながら、グラスを傾けた。




