八月一七日⑤
事務所の引き戸をガラガラと音を立てて開けると、白岩は、入り口に立っている本橋と向き合うように、ドサリと黒いソファーに座った。そして胸ポケットから取り出したタバコをヒゲに囲まれた口にくわえ、使い捨てライターで火をつけた。それから、本橋を見上げると、先程とは一転して威圧的な口調で「どうした。座りなよ」と、ソファーを指差した。本橋は白岩と向かい合うように合成皮革の匂いがするソファーに腰を下ろした。「名刺。くれよ」白岩が右手を伸ばしてきた。本橋は内ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を一枚白岩の方に差し出した。白岩は左手に持ったタバコをふかしながら、わざとらしく時間をかけて本橋の名刺を眺めた。そして、おもむろにテーブルの上のガラス製の灰皿に吸い殻を押し付けると名刺をテーブルの上に放り出し、「杉並の監督署がこの辺を管轄してんの? 千葉にも監督署あるんじゃないの?」と黒いティーシャツで覆われた恰幅のいい腹を見せつけるようにソファーに背を預けた。本橋が口を開きかけると、白岩は、「昨日も杉並の監督署の何とかっていう女の職員から電話が来たけどさ。何か文句があるの? 事故の件は、ちゃんとうちの社長が出向いただろ?」と大声で畳み掛けた。「因縁つけてくるんだったら、こっちのも考えがあるからな!」会話を打ち切るように、白岩は右肘を膝の上に置いて顔を本橋の方に近づけると、本橋を見上げて凄んだ。
「わかりました。帰ります」
本橋は白岩の脅しに臆した様子もなく、あっさりとソファーから腰を上げた。白岩の顔に意外そうな表情がかすかに浮かんだのを本橋は見逃さなかった。そのまま本橋が一礼して事務所を立ち去ろうと開き戸を開けると、背後から白岩の「用があってきたんじゃないのか?」という声が聞こえた。本橋は振り返ると、「ええ、用は済みました。お忙しいところ、お邪魔しました」と軽く会釈し、まだ異臭を放つ黒煙をくぐり抜け、黒本組の寮を立ち去った。




