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八月一六日④

 歌舞伎町の一角にあるずらりと飲食店の看板が並ぶ細い路地の一番奥に「Premium Bar Catharsis」の灯りが見えた。本橋が重厚な木製のドアを開くと、「いらっしゃいませ」という落ち着いたバリトンボイスが聞こえた。店には、入口から奥に向かって六人座れるカウンターが伸びており、その背後に四人がけのボックス席が二セットあった。バーテンの背後のボトルラックと壁面に間接照明が仕込まれている他は、キャンドルが点々と灯されているだけの薄暗い店内は、強く効かせた冷房で凛とした冷気で包まれていた。天井に取り付けられたスピーカーからはコルトレーンの音色が静かに、それでいて生々しく流れていた。カウンターの一番奥の席に東原が座っていた。その向かいでは、長い髪をポニーテールに束ね目鼻立ちがはっきりとした顔の長身のバーテンが、哲学者のような面持ちでシェイカーを振っていた。本橋の姿を認めると、バーテンの表情は変わらぬまま声だけが突然テノールになった。

「あらー、エイジ。お疲れ様ー」

「ヒロ、疲れてるんだから、暇つぶしに気軽に呼び出すなよ」

本橋が、東原の隣のスツールに座ると、手際よくオリーブが入ったカクテルグラスが乗せられたコースターが目の前に差し出された。

「つれないこと言わないでよ。スペシャルなお客様だけの特別ご招待なんだから」

「よく言うよ。あのメール使い回しじゃないか。毎週一回は届くぞ」

「使い回しじゃないわよ。お店の名前変わってたでしょう?」

バーテン――ヒロ――は、シェイカーからマティーニをカクテルグラスに注ぎ、ライムを振った。

「変わっていたじゃなくて、また変えたのかよ」

本橋は、グラスを手に取り酒を舐めた。

「やっぱり人間、常に変化していかないとダメじゃない。A rolling stone gathers no Moss.(転がる石に苔むさず)よ」

「それ、アメリカじゃポジティブな意味だけど、イギリスじゃダメ人間の例えよね」

東原が笑いながら指摘した。

「カエデちゃんも、意地悪言わないでよ」ヒロは不貞腐れたふりをして、笑った。「お疲れ様」東原が本橋の方にロックグラスを差し上げたので、本橋もそれに応じてグラスを鳴らした。スコッチのロック、相変わらず女らしくない酒を飲んでいた。

「今ね、ヒロ君からあなたの昔話を聞いていたのよ。そしたら、本人呼んじゃえってことになってね」

「お前ら、オレの話がそんなに面白いかよ」

本橋がグラスを傾けると、東原とヒロは顔を見合わせて「面白いわよねー」と首を横に傾けた。東原は本橋の肘の上に手を置き、本橋の顔を覗き込んだ。

「ねえ、本橋って東大わざと落ちたって本当?」

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