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八月一六日③

 午後八時。本橋が署の玄関を出ると、「本橋さん?」と男の声が背後からした。本橋が振り向くと、車道を行き交う車のヘッドライトの中に男のシルエットが浮かび上がっていた。本橋は、それが誰なのかすぐに分からなかったが、信号が赤に変わると、その顔が赤く照らされた。梶原だった。先日、新宿駅であったときはホームレス然とした風体だったのに、今日は一変、髪を短く刈り上げ、汚れていない作業服で身を包んでいた。本橋が「梶原さん?」と一歩近寄ると、梶原の汗ばんだ顔に思い詰めた表情が浮かんでいるのが分かった。

「この間……この間、来てもらってから、やっぱりジンさんの事故はおかしいんじゃないかって考えが頭から離れないんだ。あんたも……本橋さんもそう思ってるんだろ?」

「思っていないといえば嘘になるが、あくまで直感だ」

「ひとつだけ教えてほしいことがあるんだ」

「なんだ?」

「黒本組の事務所の住所を教えてほしい」

「どうして知りたい?」

「オレなりにジンさんが死んだ本当の原因を調べたいんだ」

本橋は躊躇った。それに気づいた梶原は、

「本橋さんに迷惑はかけねえから」

と懇願した。

「自分も守秘義務があるので、職務上知り得たことを教えることはできない」そんな固いことを言うなと口にしかけた梶原を制して、本橋は言葉を継いだ。「明日の午後、黒本組の事務所に行く予定だ。午後四時頃、あなたが偶然署の前にいれば、自分が出発するのを見かけるかも知れない」

「……ありがとう」

本橋の意図に気づいた梶原が握手をするように右手を差し出すと、本橋は両手で梶原の右手を覆った。手のひらに違和感を感じた梶原が、手を離し自分の手中を見ると折りたたまれた一万円札があった。驚いて顔を上げると、本橋はすでに背を向けた歩き出していた。

「お、おい」

梶原が本橋の背中に大声を上げると、本橋は振り向きもせず左手を上げた。そして、街の雑踏に混じって「情報料の前払い」という本橋の声が梶原の耳に届いた。


 梶原と別れ、いつもの駅から地下鉄に乗ろうと思ったが、ふと思い立ち、徒歩で帰ることにした。繰り返し脳裏に浮かぶ東郷の影を追い払いたかったのかもしれない。大して面白みもない街並みを眺めながら、ゆっくりと家路を辿っていると、本橋のスマートフォンがショートメールの着信音を奏でた。ポケットから取り出して確認すると、

「プレミアムバー カタルシス by HIROからスペシャルなお客様への特別招待のご案内」

という件名の本文なしのメールだった。本橋はそのメールを一瞥すると、「ふざけるなよ。疲れてるのに」と毒づきながら、歌舞伎町方面に足を向けた。

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