八月一五日①
「本橋さんとかいう監督官はおられますか!」
突然、受付から大声が聞こえ、無数の声が入り混じってざわめいていた事務室が一瞬静まった。本橋が振り向くと、四十代とおぼしき、髪を七三に無造作に分けて眼鏡をかけた、ポロシャツにジャケット、スラックスといった黒ずくめの出で立ちの男が立っていた。本橋が立ち上がって近づくと、男は「あんたが本橋さんですか。私は、NPO法人魂の共同体ネットワークの東郷という者ですが、ちょっと依元さんのことでお話がありましてね」と、一方的に話を切り出した。依元……本橋が担当している申告事案の申告者で、確か何度電話しても繋がらなかった……。
「失礼ですが、あなたと依元さんのご関係は?」
安易に話を進めては守秘義務に違反する、本橋は相手の素性を確かめようと尋ねた。
「ああ、ひょっとして守秘義務ですか……。まあ、あなたの方から話せないということだったら、自分の方が勝手に話しますよ。それならいいでしょ?」大声を出して強引にコトを進めようとする相手に、話の入口でもめても仕方がないと判断した本橋は、受付の遠野に面接ブースの空きを確認し、東郷と名乗る男を案内した。
「実は依元さんね。今、ちょっと困ったことになっちゃってるんですよ」東郷は、椅子に座るやいなや喋り始めた。
「といいますと」自分の眼を意識的に直視する男の目線を感じながら、本橋は答えた。
「依元さん、本橋さんに杉並能登運送サービスっていう会社から給料支払ってもらっていない件で、お世話になっていますよね。だけど、なかなか本橋さんが会社に給料払わせないものだから、切羽詰まってね……」男は、肘を机について身を乗り出し、顔を本橋に近づけ、粘っこい口調で言った。「万引きしちゃったんですよ」
「万引き……?」
「そう。それでね、今勾留中なんですよ」
男は、本橋と視線を合わせたまま間を置き、本橋が口を開くのを待った。しかし、本橋は敢えて口を閉ざしたまま沈黙を守った。本橋から何も引き出せないと思った男の口調は突然挑発的になり、
「本橋さん、自分の責任自覚してるの? あんた労働基準監督官だよね。弱者である労働者の味方なんじゃないの? あんたの怠慢で依元さんは今大変な目にあってるんだよ。労働基準監督署の責任問題だよ」
と捲し立てた。しかし依然として全くひるむ気配を見せず、ただ沈黙を続ける本橋を攻めあぐねた様子の東郷は、荒々しく椅子を後ろに押しやると勢い良く立ち上がり、
「あんたみたいなのがいるから、役人はダメなんだよ。いいか、今日中にこの口座に依元さんの給料を振り込ませろ」
と、内ポケットからメモを取り出し荒々しく音を立てて机に置いた。メモには「ダイト信用組合 杉並支店 普通 〇五三五一二三七 名義人 特定非営利活動法人魂の共同体ネットワーク」と崩れた筆跡で書かれていた。本橋はそれを一瞥して、
「給料は現金手渡しです。仮に会社が振込を了解しても、振込先は本人名義の口座でなければなりません」
と冷静な口調で告げた。
「何をそんな杓子定規なことを言っているんだよ。本当にダメな人だな、あんたは。依元さんがどうなってもいいんだな。今回の件は全部うちのブログで公開するからな。とにかく、言われたとおり動けばいいんだよ」
男は捨て台詞を吐き、くるりと背を向けると「あーあ、やっぱり役所はダメだな」とわざとらしく大声で言いながら去っていった。




