八月八日㉒
午後八時二〇分。「どっちでもいいけど」と本橋は言っておいたが、結局東原は本橋達が呑んでいた居酒屋にやってきた。時任が「よう、東原。待ってたぞ!」と陽気に声を掛けた。東原は「時任さん、今日も絶好調ですね」と愛想よく答え、空いていた本橋の隣の席に座った。「じゃあ、あれだ、もう一度乾杯しよう」と時任が言い出し、東原の頼んだ生ビールが来ると皆で改めてジョッキを鳴らした。東原は豪快にビールを半分飲み干すと、「やっぱり夏はビールね」と歓喜の声をあげた。
「最近、労災の方はどうなの?」
本橋が尋ねた。
「まあまあね。ところで、今日のどんな事故だったの?」
「簡単にいえば足場からの墜落なんだけど……」本橋は、ジョッキを傾けながら言った。「墜落しようがないところから墜落したんだ」
「どういうこと?」
「墜落したと思われるところには、墜落防止措置がきちんとられていたんだ」
「不思議な話ね」
「そうだな……。それに、墜落したと思われるところに、被害者が行く必要性もなかったんだ」
「どういうこと?」
「作業していた階の一つ下の層から墜落したらしいんだ」
「わざわざそこに行ったということ?」
東原は、本橋の方を見て言った。
「そう考えざるをえないということさ。消去法でね」
「消去法か……釈然としないわね。ところで、ご遺族はいらっしゃるの?」
「離婚していたらしいけど、前妻との間に娘がいるらしい」
「そうか、ご遺族から労災補償請求出てくるわね」
東原はジョッキのビールを飲み干し、テーブルに置いた。
釈然としない、確かにそうだ。おそらくこの件は、事件性無しで調査復命書が取りまとめられたファイルに綴られるだろう。しかし本橋の脳裏にずっと浮かんでいたのは、かつて先輩監督官の冴島から教えられた「人間のすることには全て動機がある」という言葉だった。




