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八月三一日③

 進められるところからということで、金井は一旦中席し、安全管理に関する事項から始めることにした。近藤が我が意を得たりといった様子で、災害件数の推移や日頃の安全衛生活動について得意気に説明した。特に目新しさは無かったが、近藤の自分の仕事に対する愛情がよく伝わってきた。それ故に、先日の墜落事故は残念だったようだった。

「これだけやっても、先日のような事故が起きてしまうのですから、やり切れませんよ」

「あの事故では足場の手すりもきちんとついていたとか」

斎城が相槌を打つと、近藤は頷いた。

「未だに原因は分かりません。鉄筋工事を任せていた長滝鉄筋の社長も真面目な人で、迷惑をかけてすみませんって随分恐縮していましたよ」近藤は、茶を啜った。「でも、監督署さんの方で迅速に労災補償支給していただいたんで、うちもご遺族に補償金お渡しすることができて一件落着ですよ」

「補償金?」

本橋が思わず言葉を挟んだ。

「ええ。労災の上乗せ補償ですよ。うちも入っているんですが、今回は長滝鉄筋の社長から迷惑かけたからうちの保険使って欲しいって申し出があったので、長滝鉄筋の保険を使わせてもらいました。その保険、労災保険で支給決定されないと出ないもんですから、ここだけの話、監督署さんの決定が遅いと遺族から突き上げられることもあるんですよ」

「あの事故では、どれ位保険金が支払われたのですか」

「ちょっと待って下さい」近藤は、手元のファイルを開き、書類をめくった。そして一枚の書類を、眼鏡をずらしてじっと見た。「これだ。四千万円です」

「四千万円も出るんですか?」

本橋は驚きを禁じえなかった。

「長滝鉄筋がそれだけ補償内容が充実した保険を掛けていたってことですね。あそこの社長は責任感が強くて面倒見がいいですから、万一のときにも迷惑をかけたくないって思いが強いんでしょうね」

その時扉が開き、金井が会議室へ入ってきた。その後ろから、段ボールを持った若い男性社員二人が続いて入ってきた。

「ご苦労さん。そこに置いて」

金井の指示で、男性社員は会議室のテーブルの上に段ボールを置いた。

「お待たせしました。ちょっと量が多いので、ご覧になるのが大変かと存じますが、全部ご覧になりますか」

圧倒的な量の書類を目の当たりにさせて、見る気を失わせるつもりだ。斎城は、席から立ち上がると、段ボールのところへ行き、プリンタの熱がまだ残るコピー用紙を一掴みすると、パラパラ漫画でも見るかのように書類をめくった。そして、またそれを段ボールに戻すと本橋の隣の椅子へ戻ってきて、ドスンと座ると、金井に向かって微笑んだ。

「本橋さん、せっかく印刷してもらったのだから、お預かりして署でゆっくりと拝見しましょう。全数」

金井は、機密情報か何かと言いた気なそぶりを見せたが、これ以上斎城と遣り合っても勝ち目が無いと悟ったのか、「好きにしてください」と捨て台詞を吐いて、斎城から目線をそらした。

 斎城は、その気になれば段ボールを軽々と持ち上げることができそうなのに、自分で持とうとはせず、本橋と若い男性社員に階下の駐車場まで運ばせた。体育会系の体格の良い男性社員は、段ボールをトランクに置くと「お疲れ様でした」と清々しく頭を下げた。本橋は一礼すると運転席に乗り込んだ。

「金井さんって、怖い人だったわね」

後部座席は自分には狭いと、助手席に座った斎城がハンカチで顔を扇ぎながら笑った。

「そうですね」

本橋は相槌を打った。そして心の中で「お母さんには負けますけど」と付け加えた。

「だけど、勤怠記録や賃金台帳を入手できて良かったわね。棚ぼただわ」

「確かに。五百人分の書類を現場で確認するのは不可能ですからね。それにそもそも何を探すべきなのかも見当が付いていないのに、あのプレッシャーの中で全数目を皿のようにしてチェックする精神力は自分にはありませんよ」

「本橋さん、見掛けによらずナイーブなのね」

斎城は可笑しそうに笑った。

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