八月二七日⑨
信用金庫を出ると二人は車に乗り込んだ。桐生はイグニッションを回すと、車を発進させた。
「今日中に説得して、本人をここに連れてこれるかな」
「出来る限りのことをしよう」
本橋はスマートフォンを取り出し、南陽労働基準監督署に電話をかけた。
「杉並署の本橋です。御子柴課長お願いします」
電話口の向こうで「御子柴課長、電話です」という声が聞こえた。
「御子柴です」
「本橋だ。実は今、鶴岡市に来ている」
「なんだって?」
当然ながら御子柴は驚いた様子だった。
「毎度で悪いが、頼みごとがあるんだ」
「おお、分かった。何をすればいい?」
「今日、偽の陣内範子が労災保険金を引き出したんだ。その出金先を突き止めたくて刑事と来ているんだが、本人を連れて行かないと教えてもらえないんだ。しかし、これから陣内範子さんの家まで行く時間がない。何とか本人を途中まで連れ出してきてくれないか?」
「随分、無理難題だな」御子柴は苦笑した。「しかし、分かった。やってみるよ」
「どこで待っていればいい?」
「そうだな。月山湖で落ち合おう。そこから一時間位のところだ」
「分かった。恩に切る」
本橋は電話を切った。
月山湖に到着すると、盛大な噴水が打ち上げられていた。桐生は、その噴水の前で上司に電話をかけていた。上司からの指示をメモするのに忙しく、噴水を見る余裕はなさそうな桐生を気の毒に思いながら、本橋は夕焼けに染まる噴水を眺めていた。四方から蝉しぐれが降り注ぐ一方で、山の頂上では紅葉が始まっていた。まだまだ続きそうな東京の酷暑を思い出しながら、秋の気配が近づくこの地を羨ましく感じた。
「まいったまいった」桐生は電話を切ると、髪を後ろになでつけた。そして湖の方を見て噴水が終わっているのに気づき、「終わっちゃったのかよ」と舌打ちした。
平日で閑散としていた駐車場から一台また一台と車が去って行った。最後の車のブレーキランプを眩しく感じて、日が暮れつつあるのに気づいた。車が一台もない駐車場で二人は湖に背を向けて柵に寄りかかり、無言のまま国道の方を見ていた。御子柴は来るのだろうか。本橋のスマートフォンを握りしめる手は、いつの間にか汗ばんでいた。




