第二話 『登校』
結局、昨日の夜、わたしが人工樹林で見たあの惨状は何だったのだろう。
あの殺人現場特有の嫌な雰囲気も、鼻を刺激する匂いも、目蓋を閉じれば思い出されるあの光景も、そのどれもがまるで現実味がなかった。
でも、それと同時にそれらの感覚は今でも鮮明に思い出すことができることが、それらにどれほど現実味がなかったとしても、わたしが信じたくなかったとしても、あの惨状は現実のものであったことを意味している。
ということはつまり、赴稀ちゃんは人工樹林で誰かに殺された後、その人によって四肢をバラバラに切断されて、何かの理由で人工樹林に行っていた冥加くんはそれを見てしまったから、あんな風に恐怖の表情をしながら逃げるように人工樹林の中から出てきたということになる。
でも、そうなると、いくつか気になることが出てくる。
わたしに送られてきた、赴稀ちゃんからの二通の謎のメールの文面の意味や送信の意図は? 冥加くんが着ていた服に付着していた、血のような赤い痕は? わたしが人工樹林の中で聞いた、あの狂気じみた笑い声と奇妙な物音は?
一応、あの後わたしは家に帰ってからも数分間だけそれらのことについて考えてみた。しかし、その答えが出ることはなかった。というか、そもそも夜遅くで暗くて視界が悪かったこともあり、どれが真実でどれが真実ではないのかの区別がついていない以上、考えようがないような気もする。
今のところ、わたしは昨日見聞きしたことを誰かに話してはいない。もちろん、家族をはじめとして仲の良い友だちや警察にも、一言だって話していない。
もしかすると、そのうち何人かは気づくかもしれないけど、わたしが昨晩あの場所にいたことが知られれば、『海鉾矩玖璃が冥加對を尾行していた』という事実が冥加くんの耳に入ってしまうかもしれない。
そんなことになれば、冥加くんに嫌われてしまうかもしれないし、赴稀ちゃんの事件に関わっているのではないかと疑われてしまうかもしれない。わたしだって状況がよく分かっていないのに、色々と聞かれたり疑われたりするのは嫌だ。それ以上に、冥加くんに嫌われるなんて耐えられない。
だから、わたしは昨日のことを誰にも話していない。そして、それ以上何かを考えたりもせず、布団の中に入って寝た。それから八時間くらいが経過したとき、わたしは今日もみんなの前で『海鉾矩玖璃』という一人の女の子を演じるために、学校へと向かっていた。
普段、わたしはバスを利用して学校へ行く。いわゆる、バス通学というやつだ。現代では、運転手の運転ミスや歩行者の不注意などの、偶発的に発生する防ぎようのない交通事故を根本的な部分から回避するために、全ての車(バスや乗用車も含む)はあらかじめ設定されているコンピュータのプログラムに従って自動的に走行するようになっている。
これによって、交通事故はなくなり、車道の渋滞はなくなり、より多くの人がより短時間でより広範囲に移動することが可能となった。それに加えて、バスは自分の好きな行き先を設定できない代わりに、特定のいくつかの場所へと留まるという、乗用車とは異なる若干の不便さを持ち合わせながらも、一応公共のものなので利用料はタダだ。お金の余裕がない家庭にとっては嬉しい限りである。
ただ、『公共のもの』の範囲に収まるものが増えて、それらの利用料がタダであることに関しては嬉しいけど、売り物を買ったりするときに発生する消費税が五十パーセントというのはさすがに高過ぎるような気もする。
戦争前は五パーセントだったり、八パーセントだったり、十パーセントだったり、今では想像もつかないほどの低率だったらしいから羨ましいけど、その分だけ公共のサービスが充実していなかったのかもしれないと考えると、どっちもどっちのような気もする。
どちらにせよ、公共のサービスの面でも税率の面でも、わたしは今の時代の状態しか知らないから、戦争前のことをとやかく言っても仕方がない。たぶん、戦後処理だとか都市開発だとか人口激減だとか、そういう大きな問題がいくつもあるから日本政府も大変なのだろう。いや、このことは日本に限ったことではなく、世界各国が抱えている問題かな。
「……ん? 海鉾?」
日本政府も大変なんだなー、みたいなテキトウなことを考えながら通学に利用するバスが来るのを待っていると、不意に一人の男の子がわたしに声をかけてきた。わたしはその声がした方向を見て、すぐに返事をする。
「あ、木全くん。おはよー」
そこには、木全遷杜くんという男の子が立っていた。木全くんは深い緑色の髪をしていて、長身で力強い外見で、例の友だちグループの内の一人だ。わたしが木全くんの声に返答すると、木全くんは少し驚いたような表情でわたしのほうを見ながら続けて言った。
「登校中に俺たちが会うとは珍しいな。普段は、海鉾は一つ前のバスに乗っているんじゃなかったか? 何かあったのか?」
「あー、うん。普段はそうだね。でも、今日はちょっと寝坊しちゃって」
「そうか」
そう。学校の一時間目は八時半から始まるけど、わたしはどちらかといえば何事にも時間に余裕をもって行動したいタイプの人間だ。だから、遅くてもその十分くらい前には学校に着けるようにバスを選んで登校している。
でも、今日は違う。昨晩、まるで現実味がないあんな惨状を見てしまったからなのか、それとも余計なことを考えていたから精神的に疲れていたのか、今朝わたしは寝坊した。
とはいっても、普段よりも五分くらい起きるのが遅くなっただけだけど。まあ、五分遅れるだけでもバスはわたしを置いて出発してしまうから、こうして普段乗っているバスよりも一つ後のバスを待っていたわけだけど。
一方の木全くんは通学に利用しているバス停はわたしと同じだけど、普段は今わたしが待っているバスを利用しているらしく、基本的には通学のときは会わない。それぞれの家の場所が遠いわけではないけど、特に話すこともないし、そこまで仲が良いわけでもないから、待ち合わせをしたことはない。
そんなわけで、わたしは普段よりも十分くらい遅い通学に利用するバスを待っており、普段ならばまず会わないわたしにあったことで、木全くんは少し驚いていたということだ。確か、こんなことは高校生になってからのことを思い出してみても、そんなになかったような気がする。
「お、丁度バスが来たな」
『寝坊した』というわたしの台詞をそれ以上追求してこなかった木全くんは、車道の少し遠くのほうを見ながら、わたしたちが待っているバスがもうすぐ到着することを教えてくれた。
木全くんがバス停に来てからおよそ三十秒。間に合っているからまだいいとして、いくらなんでもさすがにバス停に来るのが時間ギリギリすぎやしませんかね。もう少し遅れていたら、学校に遅刻するかもしれないのに。
自動運行バスがバス停に停まる。歩道と車道を遮っていた透明な強化ガラスの一部分が四角く開かれ、それと同時にバスの乗降ドアも開いた。前のドアから数人のバス利用者が降りるのを確認しつつ、わたしと木全くんは後ろのドアからバスに乗り込み、そのドアの近くにあった空いている椅子にテキトウに座った。
幸いなことにも、わたしが住んでいる街の人口が少ないということと、バス以外にも便利で無料の移動手段があることから、わたしと木全くんが乗ったバスの中はあまり混んではいなかった。一応、通学通勤の時間帯だからそれなりに人はいるけど、好き好んで椅子に座っていない人を除けば、乗客全員が椅子に座れるくらいしか人はいなかった。
バスが発進してしばらく経ったとき、不意にわたしはわたしの隣に座る木全くんに話しかけた。
「そういえば、わたし、今朝はニュースを見てないんだけど、何か変わったことあった?」
「……? PICを見れば確認できるんじゃないか?」
「まあ、確かにそうだけど、そうじゃなくて。木全くんが誰かから……たとえば『昨日の夜に起きた事件』の話を聞いたとか、そういうことがあれば教えてくれる? 何でもいいんだけど」
「うーん……ないな。昨日の夜は大したことはしていないし、そもそも、今どき事件なんてそうそう起きないだろう」
「……そう。ありがと」
「ああ」
なるべく直接的ではなく間接的に、わたしは昨日の夜に表立って何か異常事態が起きたか否かを木全くんに尋ねた。しかし、木全くんはわたしが求めていた答えとは異なる答えを言った。いや、これはこれでわたしが求めていた答えだったのかもしれない。
わたしは木全くんの台詞の後、自分のPICを操作して、昨日から今朝にかけて何か事件が発生していないかを確認した。PICにあらかじめ推奨されて毎日更新されている記事や、それ以外のいくつかの情報提供サイトを見てみたけど、どうやら何も事件は起きていないということが分かった。
どのサイトの記事を見てみても、世界情勢や軽犯罪情報などのどうでもいいようなことが乗っているばかりで、わたしが調べたいことを明確に表示している記事はなかった。また、ある記事には『昨日もこれまでに引き続き、事件も事故も何も起きていない平和な一日でしたー』と書かれているものもあった。
つまり、昨日は何も事件は起きていない。ただし、それは社会の表向きな事実に限っての話に他ならない。
「だが……」
「……? 何か思い出したの?」
わたしがPICで調べ物をし終わり、PICの上部の空中に表示されていた立体映像を閉じると、不意に遷杜くんが一言だけ呟いた。遷杜くんはやけに深刻そうに、心配そうに、少し怒りの表情も含めつつ、続けて言った。
「ああ、水科だ。あいつ、昨日も『今日は沙祈の家に行くから~』みたいなことを言っていただろ? 火狭があいつに何か良からぬことをされていなければいいが……まあ、俺のこの心配は無駄かもな」
「あはは……まあ、あの二人は恋人同士だからね。仕方ないよ」
「……チッ、水科め。火狭を独り占めして羨ましいぞ。俺だって――」
「……う、うん……」
何だろう。今、普段はクールな雰囲気の木全くんから聞いてはならない一言が聞こえた気がする。とりあえず、本人も独り言のつもりだと思うから、聞こえなかったふりをしておこう。
それはさておき、木全くん同様に友だちグループのメンバー……というかそのグループを作った張本人である水科逸弛くんと火狭沙祈ちゃんは、わたしたちが高校生一年生になってすぐの頃に、わたしや冥加くんや木全くんを含んだ五人を友だちに誘い、それ以外にも二人が加わり、合計九人の友だちグループを結成した。
二人のお陰で、友だちがあまりいなかったわたしにも沢山の友だちができて、冥加くんの心の病気も改善されたらしいから、二人には本当に感謝している。
そして、そんな二人は幼い頃から仲が良い、いわゆる幼馴染みという関係であり、今では恋人同士にもなっている。二人とも両親がいないから自由奔放に生きているようにも思えるけど、その期間もだいぶ長いみたいなので、二人で助け合って日々を生きているらしい。
また、水科くんはその性格のよさから女の子の間でも人気があり、沙祈ちゃんはかなりスタイルががいいことから男の子の間で人気がある。女のわたしからしても、沙祈ちゃんのスタイルは羨ましい限りだ。
かなり胸が大きいのに、体はほっそりしているという。それなのに、なぜかアンバランスではなく、計算されたように整っている。それに加えて、女のわたしから見ても顔が普通に可愛い。もしわたしが女ではなく男の子なら、断られても告白の一度や二度はしているかもしれない。まあ、わたしは女で、冥加くんのことが他の誰よりも好きだから、そんなことはしないけど。
あと、木全くんはそんな沙祈ちゃんのことを友だちとしてではなく、女の子として好いているみたい。直接そういう話を聞いたわけではないけど、普段の沙祈ちゃんに対する木全くんの態度を見れば一目瞭然だ。それくらい、わたしでも分かるし、たぶん友だちグループの何人かはすでに気づいていると思う。
そんなこんなで、わたしが余計なことを聞いたからなのか木全くんの機嫌が少し悪くなった状態で、わたしと木全くんの間に特に会話がないまま、バスが学校前のバス停に停まった。そして、バスから降りたわたしたちは自分たちがいるクラスの教室へと向かった。
「やあ、遷杜君、矩玖璃ちゃん」
「ああ」
「おはよー」
教室に入ると、お馴染みの光景かもしれないけど、沙祈ちゃんと水科くんが抱き合ったりキスしたりしながら、登校してきたわたしと木全くんに声をかけてくる。それに続いて、教室にいた何人かがわたしと遷杜くんにテキトウに声をかける。
わたしは何気なくそれらの声に返答したけど、さっきバスの中であんな会話をしたからなのか、木全くんは少し不機嫌そうな様子で水科くんの声に返答していた。でも、どうやらそのことに気づいていたのはわたしだけだったらしい。
教室の中には、そんな水科くんとその水科くんに抱き付いている沙祈ちゃんの他に、あの冥加くんと、金泉霰華ちゃん、そして土館誓許ちゃんの姿もあった。でも、昨日の夜、わたしが目撃した殺人現場でバラバラの状態で殺されていた赴稀ちゃんと天王野葵聖ちゃんの姿はなかった。
見たところ、冥加くんはいつも通りで特に変わった様子はなく、他のみんなも赴稀ちゃんや葵聖ちゃんがまだ登校してきていないことを除けば、何か違和感を感じている様子はなかった。また、まだ二人が登校していないことについて疑問を抱いている子もいないように思える。
わたしが気づいた中で、唯一普段とは違うと思ったのは、さっきあんな会話をしたからなのか木全くんの機嫌が少し悪かったことくらいのものだ。思い当たる限りで、わたしが感じたことはたぶんそれくらい。昨日の夜に見た惨状については少しずつ調べればいいだろうと考えていた。
「そういえば、赴稀ちゃんと葵聖ちゃんは?」
「言われてみれば、確かにまだ来てないですわね。何かあったのかしら」
教室に入ってから自分のバッグを自分の席に置いたわたしはまるで今思い出したかのように、みんなに対して赴稀ちゃんと葵聖ちゃんの行方について聞いた。すると、机に体重をかけながら手の中で知恵の輪を遊ばせていた霰華ちゃんがわたしのその疑問に答えた。
そんなとき、不意に浮かない表情をしている葵聖ちゃんとわたしのクラスの担任である仮暮先生が教室に入ってきた。葵聖ちゃんが登校してきたことを確認したみんなの内で、一番最初に声を発したのは霰華ちゃんだった。
「あら、天王野さん。おはようございます」
「……っ」
「……天王野さん?」
霰華ちゃんが知恵の輪を机に置き、教室に入ってきた葵聖ちゃんに声をかける。しかし、葵聖ちゃんは顔を俯けたまま、黙っていた。何か様子がおかしい。わたしたちと仮暮先生を含めた九人の間を沈黙が支配し、わたしがそんな風に思っていると葵聖ちゃんがわたしたちがいるほうへと歩いてきた。
そして、葵聖ちゃんは、まるで耳に入ってこないような小さな声で一言だけ呟く。
「……た」
「え?」
誰かが『今、葵聖ちゃんは何と言った?』とかいうことを聞くよりも前に、葵聖ちゃんがもう一度だけ言い直した。そのときの葵聖ちゃんは、何かに怯えているような雰囲気がしていたと同時に、その何かに対してやけに楽しんでいるようにも思えた。
「……『ジビキが殺害された』」
葵聖ちゃんが最初に発した台詞はそんな唐突なものだった。