#20 ノルバート様は可愛さまで持っているなんて
ノルバート様はスコーンにしっかりとブルーベリージャムをつけ、その3分の1ほどを齧る。途端、満足気に口角がわずかに吊り上がった。可愛いですね、ノルバート様。
――違う! そうじゃない! ギリッ……と拳を握りしめた。間抜けな姿を見たかったのに、あろうことかノルバート様は可愛さまで持っているなんて!
「今日もおいしいが、いつもと少し違うな?」
「あ、はい、今回はヨーグルトを入れてみました」
「ヨーグルトでこんなに柔らかくなるものなのか」
「そうですね、原理は存じ上げませんが、そのほうがうまく膨らむといいますか、少しふんわりします」
「本当に君はなんでもできるんだな」
いつもの無表情が小さな微笑に変わり、少し粉のついた指先をぺろりと舐めた。思わず目を疑ったし、耽美なその仕草を凝視した。
「辺境伯の保険契約のことも聞いたばかりだっただろうに、すぐに理解してこうして助けてもらっている。日々の生活は充実しているし、仕事も楽になった。君にとっては不運だっただろうが、私にとっては君がここに来てくれたのは僥倖だったな」
「な……」
なんだコイツ! 内心そう叫んでしまった。お陰でうっかり“コイツ”なんて言ってしまった。でもそのくらい気が動転していた。スコーンを食べている姿が可愛いどころかちょっとしたお行儀の悪さは官能的で、挙句の果てに私が来てくれて運がよかったと言い始める?
「なにを……もう本当になんなんですか、ノルバート様……」
「……レディ・エレーナ? 何か気に障ったか?」
「私はノルバート様を陥れるべくスコーンをお出ししたんですけど!?」
「……毒でも盛ったのか?」
「ノルバート様なんてジャムたっぷりのスコーンを食べてオイシイオイシイと間抜けに破顔していればいいと思ったのに、欠片も間抜けに見えてくれないどころか私を褒めるなんて!」
こんなはずじゃなかったのに……! ダンッと机に拳を振り下ろしていると「よく分からないが、意に沿えなかったようですまない」ととんちんかんなフォローをされた。そうじゃない。でもじゃあ何を言われたかったのかと言われるとそれは分からなかった。
「……いえ。お世話になっている人を陥れようとした罰なのでしょう。悪女にはしっぺ返しがあるものです」
「君は悪女だったのか。初耳だ」
「実はノルバート様がインゲンとエングリッシュピーをお好きでないと知ったうえで食事に出しています、かなり腹黒です」
あしらわれているのかなんなのか分からず、半分やけくそ半分やつあたりをした。それでもノルバート様は笑っているので、つられて頬を緩めてしまわないように余計にムムムと唇を引き結んだ。
「……冗談はさておき、紅茶も準備しますね」
「いつもありがとう、よろしく頼む」
負けた……! 紅茶を用意しながら、言い知れぬ敗北感を味わう羽目になった。しかし、一体何の敗北感なのかは自分でも分からなかった。
「ところで、確認していなかったのだが」
紅茶を片手に休憩しながら、ノルバート様はふと口にした。
「ベルント・ゲイラーはドナート伯爵令息夫人の親類か?」
「あ、そうですね。親類というか、おそらくお兄様です。でもヒルデのラストネームをなぜご存知なのですか?」
ヒルデの話をしたのは、ヒルデが我が家に押しかけられた日だけのはずだが、そのときに家の話までしただろうか。したような気もするが……と悩んでいると「O派の令嬢だというのは聞いていたから、辺境伯に確認したのだ」としれっと付け加えられた。そうか、お兄様に聞いたのか。……何のために? 疑問はあったが、好奇心といわれればそこまでなので黙っておいた。
「……そうか。ということは、いよいよ怪しく思えてきたな」
「なぜですか? 確かにヒルデは珍獣ですが、他人の金を泥棒してやろうという性根の持ち主かと言われると――」
いや金を盗むも婚約者を盗むも同じことか? そう考えてしまったせいで、一瞬否定しかねた。
「……言われると、怪しいところはあるかもしれませんが、そうだとしてもその兄君の性根を推測するのは憶測でしょう。別にロード・ベルントを庇う気は微塵も湧いてきませんし、単体として小悪党感があるとは思いますが」
「君は本当に純粋だな」
ははは、と笑い飛ばされて面食らったし、しかもその笑みがあまりにもおかしそうというか、そんなにも大きく口を開けて笑うノルバート様を見たことがなかったので、つい見入ってしまった。本当にここ数日間のノルバート様は美貌が増しているから、ノルバート様が美貌増し薬を飲んだのでなければ私が妙な薬を飲んだに違いない。
「……ええ、と……純粋とは……?」
なんなら一度しか出会ってないロード・ベルントを「小悪党」なんて罵っているので、不純物が混ざりまくりだと思う、我ながら。
「いや、すまない、ドナート伯爵令息夫人の非常識な行動を見てなお悪口は言わず、兄と妹は別人格なので切り離して考えるべきというその理性的な面がな……。いやそうだな、もちろん純粋だとは思うが、理性的というべきか」
「……褒めてます?」
「無論だ。それに、もちろん君の言っていることは至極正しい。私も、ドナート伯爵令息夫人の非常識さゆえにその一家をすべて非常識と考えているわけではない。もちろん、ゲイラー伯爵は令嬢の非を認めなかった点で非常識だろうが、それは措くとして」
ノルバート様は、いくつかの書簡を探して持ってきた。見れば、どれもこれもオーム海商からの請求書で、支払い済みと留保中が混ざっている。
「……これがどうかなさったのですか?」
「私が怪しいと話したのは、ドナート伯爵令息夫人がO派であり、一年ほど前にオーム伯爵に目をかけられて帝都に戻ってきたばかりだと聞いていたからだ。ゲイラー伯爵は元反王国派なのだろう? それが今になってなぜ親王国派となって帝都に戻ってきたのだろうと、辺境伯と首をひねっていたのだ」
ヒルデが急に帝都に戻ってきたことは、確かに不思議ではあった。理由を訊くのは野暮だし、というかずっと帝都にいた私が訊くとただの嫌味だろうと黙っているうちに忘れてしまっていた。
「こちらの請求書、いずれもオーム海商のものなのだが、一部署名の筆跡が異なる」
「ええと……。……あ、確かに。途中から筆跡が異なりますね」
請求書の署名はもちろん海商の責任者が行っている。ロード・ベルントからのお手紙を引っ張り出して見比べると、後半の署名はすべてロード・ベルントのものだ。
「しかし、これがなにか……?」
「視察の前にも話したが、オーム海商はオーム伯爵令息が仕切っていたものでな。シレナ海峡の交易を手広く扱っている筆頭海商であるし、あえて他の令息にその地位を譲る必要はなかった。なぜそれをわざわざ他者に、しかも反王国派の伯爵を呼び寄せてまで交代したのだろう。……ヒントを出そう」
私が首を傾げていたからか、ノルバート様はそう付け加えた。
「この筆跡が変わった日付、これは辺境伯が保険金の支払いを渋るようになってしばらく後からだ」
請求したとおりの保険金がうまい具合に支払われなくなってしばらく経ち、海商の責任者を変えた。
ああ、そういうことか。納得すると同時に、脳裏にはヒルデが過った。幸せな結婚をしたはずだったのに──と嘆いていたヒルデ。
ヒルデの結婚生活は、これからどうなってしまうのだろう。