祈祷師の”拘束”生活
祈祷師一行が連行された後の城門付近には、クリスとシルヴィだけが残っていた。二人で話をしたいと、クリスが目で合図を送ったからだ。
シルヴィは、城壁に腰や背を預けて立っているクリスに近付いた。視線は、先ほどフェリスが差したあたり、青灰色の巨大な壁にも見える峻険な山並みに向けられている。
クリスはそこから視線を動かさずに、低い声で訊ねた。
「……どういうことだ、シルヴィ。」
「どういうことって、どういうことでしょうか。」
「とぼけるな。」
シルヴィのおうむ返しのような問いを素早く制し、同時に、厳しさを滲ませたアメジストの瞳を彼に向けた。
「俺が、気付かないとでも思ったのか。」
対するシルヴィは、静かな面持ちでその鋭い視線と言葉を受けるままだが、纏う空気は険しいものを感じさせている。
そしてしばらくの沈黙の後、やがて目を伏せ、嘆息まじりに言った。
「”あの子”は両親と共に殺されたと聞いています。」
「そうだ。でもあの時、俺たちは国境近くのフルスにいた。実際に見たわけではない。」
「あれからもう8年ですよ!これまであの子の存在について報告してくる者は誰もいませんでした」
当時を振り返るクリスの冷静な言葉を最後まで待たず、シルヴィは叫ぶように言った。湧き上がる感情を辛うじて押さえ込み、シルヴィは再びすぐに落ち着きを取り戻す。
クリスはそんな”部下”に訊ねた。
「……ではあの祈祷師は誰だ。」
「”フェイエルベルクから来た祈祷師のフェリス”だそうです、クリス様。」
「今は二人だけだ、敬語は止せよシルヴィ!大事な話だろ……。」
辺りに人目がないことを確認し、シルヴィは明らかに肩の力を抜いた。そしてクリスの隣に立ち、同じように壁にもたれ掛かる。
「クリス……君が気付いたくらいだ。俺が最初にあの子を見た時、どれほど驚いたことか……。」
大きな吐息とともにそう言葉を発したシルヴィには、先ほどとは打って変わり狼狽の色が見える。さらさらと風に吹かれる銀髪に指をかきいれ、掌でこめかみの辺りを押さえた。
「やはり、彼女で間違いないんだな……これは偶然なのか。」
「ああ、生きていたことすら知らなかった。もう訳が分からない……。」
長年ともに”秘密”を抱えて暮らしてきた仲だ。疑いたくはないが、シルヴィの”本当の出自”を考えると、この状況に彼が無関係だと即断できない。しかし、その狼狽ぶりは普段のシルヴィから考えると彼らしいことではない。やはり”偶然”として片付けるほか、なさそうだ。
クリスは切れ長の目をますます険しくさせ、腕を組んだ。
それぞれにしばし沈思するも、彼らの混乱は深まるばかりだった。
クリスはさらに訊ねた。
「兄上は……お前に何も言わなかったのか。」
「手紙で知らせてきた内容と同じ指示だったよ。あの3人をここに連れて行けと。君にも、『予定通りに』という伝言だけだ。」
「いや、あの祈祷師が何者なのかを知っていたかどうかだ……兄上は2年前の避暑旅行より以前には、会ったことがないはずだ。」
「それについては何もおっしゃらなかったな。それよりも俺は……。」
シルヴィは苦しげにつぶやいた。
「あの子が俺を見ても無反応だったのが解せないんだ。」
道中、何度となく彼女に”本当の自分”を明かそうとした。だがギリギリのところでそれを押しとどめたのは、彼女がまったくの初対面のような接し方で話し、親しくなってからもシルヴィのことを”馭者”としか見ていないことが不可解だったからだ。それに、いまの彼女は”拘束”対象だ。むやみにお互いのことを明らかにする時ではないと考えた……そう、シルヴィは語った。
クリスも、フェリスの反応を不思議に感じていた。
”彼女”と初めて会ったのは、クリスが13歳の時だ。いくら8年も経ったとはいえ、気付かれないほど自分の外見が変わったとも思えない。しかし、シルヴィが語ったのと同じようにフェリスは、多少、人懐っこさを感じさせるものではあったが、クリスに対して確かに初対面の人間に接しているような態度だった。
「ともかく……あの様子だと、彼女が演技をしているようにも見えないし、本当に俺たちのことが分からないのだろう。あの”護衛”の女とは何か話をしたか。」
「ハナか。大事な話という意味では、特に何も。ホーエンドルフで一緒に暮らしているそうだ。」
「ファイエルベルクの軍人ではないのか?」
「俺もそう思ったよ。でも違うそうだ。あの服は貰い物らしい。」
お下がりの軍服を仕事着にしている人など、聞いたことがない。ファイエルベルク国がいかに大らかな気風であるかを思わせる一面だ。旅の途中、そんなファイエルベルクでの彼女たちの愉快な暮らしぶりを聞いて思わず吹き出しそうになったことをシルヴィは思い出し、ふっと表情を緩めた。だがすぐにまた険しい眼差しに戻る。
「そんなにゆっくり話す機会はなかったが、フェリスの幼い頃の話に及ぶような時には……ハナもラドルも、話題を変えていたような気がするよ。」
「気になるな。なぜだろう。」
「分からない。でもいずれにせよ、彼女の幼い頃のことなら、俺が一番よく知っている。」
シルヴィは腕を組み直し、呟いた。
「知りたいのは、8年前の”あの日”の真実だ。」
「ああ。俺たちがフルスの町で聞かされたこと以外にも、何かあったらしいな。現に、”彼女”が生きていたのだから……。」
そう相槌を打ちながら、クリスは何かに気づいたかのようにふと眉根を寄せ、目をすがめながらつぶやいた。
「分からないことだらけだが、ひとつはっきりしたことがある。」
それに応えるように、シルヴィは頷いた。
「そうだ。”呪術師”が狙っているのは”祈祷師”なんかじゃない。”あの子”だ……」
クリスは、もたれていた壁から腰を浮かせ、真っ直ぐに立った。
「早めに呪術師の正体に近づけるかも知れん。それに8年前の真実も……少しシナリオを変えるぞ、シルヴィ。」
そう言って、その瞳に戸惑いの色を残したままの”部下”を伴い、鉛色の城に向かって歩き出した。
***
下弦の月がますます痩せて、細くなっていく。
窓辺に組んだ両腕置き、その上に小さな顎を乗せて、フェリスは月を見上げていた。
寝室の、大きな張り出し窓ににはベンチが据え付けられており、そこに座って外を眺めることができるのだ。暖炉にはまだ十分に火が残っているが、夜も更けてくるとさすがに冷えてきた。フェリスは、グロースフェルト家で用意された白いフランネルの寝衣を身につけ、その上からいつもの頭巾付きの外套を羽織っている。
「お月さまとは逆に、わたくしはどんどん太っているんじゃないかしら。」
“拘束”の割に、意外と居心地の良い一室に入れられて5日が経った。
食事は問題なく与えられ、しかも美味しいときている。普段から少食のハナはさて置き、フェリスもラドルも”拘束”されている割には旺盛な食欲をみせている。あまり動き回ることのない生活にくわえ、1日3食、午後のお茶に添えられるお菓子まで全てきれいに平らげているため、フェリスが太ったかもと思うのは仕方のないことだ。
当初は『なんとかして、ここから逃げなくちゃ!』と息巻いていたラドルも、この数日はすっかり大人しくなった。扉の前には、屈強な兵士が昼夜を問わず交替で立っており、どうやってもその見張りをかいくぐって外に出ることは出来ない。
かといって部屋にずっと閉じこめられているというわけでもない。
フェリスたちが使っている部屋の近くには、古いが立派な図書室があり、見張り付きではあるがそこで過ごすこともできる。ラドルは、そこで本を読むのが気に入っているようだ。
フェリスはフェリスで、ここでも祈祷師としての仕事が忙しくなってきている。拘束中ということもあり移動の自由はないが、部屋を出ずとも、祈祷師に用事がある人たちの方から次々と訪ねてくるのだ。
それは、見張りの兵士たちが訓練で足を傷めたとか何とか話しているのを、扉越しに聞いたのがきっかけだった。手元の薬草を使い、膏薬を作ってプレゼントしたのだ。それを貼ったら一晩で痛みが引いたとのことで、それを知った他の兵士たちも休憩時間になると相談にやってくるようになったのだ。
その話は、瞬く間に城中へと伝わった。
料理人が火傷をしたと聞けば炎症を抑える塗り薬を、母親の咳が長く続いていて心配しているというメイドには鎮静効果のある薬草茶を、最近よく眠れないという侍従頭には心身をリラックスさせる効果のある香油を作って渡した。
ファイエルベルクから持ってきていた材料を使い切った後も、怪我や病気に関する相談を受けている。祈祷師が行うのは、いわゆる民間療法だ。デーネルラントでは当たり前となっている”医術”のように、高度な学問や技術、値の張る薬などは必要ない。身近なもの、手軽に入手できるものを使って行える癒しの知識は、この国でも、『医術師に頼るまでもないが、ちょっと辛くて困っている』という人に重宝されるようだ。
そういった祈祷師としての仕事以外の、手が空いた時間には、ラドルと一緒に図書室で本を借りて読んだり、仲良くなったメイドから手芸道具を借りて刺繍をしたりして過ごした。
そのメイドは、『最近、新しく取り替えたので不要になった』というシーツをきれいに洗濯して、分けてくれたのだ。フェリスはそれをさらに小さく裁断し、ファイエルベルクの国花であるスミレの刺繍を施したハンカチをたくさん作ることにした。帰ったら山のみんなにお土産として渡すつもりだ。
そんな時は、ハナも一緒に刺繍をした。彼女の刺繍はいつも、フェリスの大好きな瑠璃雛菊のモチーフだ。フェリスの母だった人は、その花が大好きで、庭でたくさん育てていたと聞く。侍女としてその母に仕えていたハナは、主である彼女から刺繍を教わったそうだ。そのハナから、フェリスは刺繍を教えてもらった。あまり器用な方ではないが、刺繍だけは得意といえるようになった。お下がりのファイエルベルク自警団の制服を手直しし、瑠璃雛菊の刺繍を施したくるみボタンに付け替えてハナに贈ったのは、昨年の冬のことだ。
その萌黄色の制服に身を包み、本を読みながら眠ってしまったラドルの夜着を整えているハナに、フェリスは小声で話しかけた。
「ねぇ、ハナ。そろそろ帰らないと、あと少しで新月よ。」
のんきなフェリスも、さすがに次の新月のことを思うと、気持ちに焦りが出てくる。
「そうですね……そろそろ帰らないと、雪が舞う季節になってしまいますね。」
ハナも、フェリスと同じように小声で返した。
「毎晩、城内を探ってはいるのですが……3人でこっそりと抜け出せるような場所はありませんでした。」
「そう……困ったわねぇ。」
フェリスは再び窓の外に目をやった。
フェリスたち祈祷師にとって、月の満ち欠けは、暦を読む以外にも重要な意味を持つ。
新月は”再生”を意味する。
新たな治療法を試したり、季節に合わせて生活習慣を改めるのにちょうど良い日なのだ。
フェリスが留守にする間、代理をしてくれることになった祈祷師に、いろいろとお願いしていたことがある。そのうちの一つに、夏の間に体力が落ちたというリリス村のエノルお婆さんのことがある。エノルお婆さんには2種類の薬草茶を用意しており、それを一種類ずつ新月になったらに渡してほしいと頼んでおいたのだ。次の新月は、フェリスが山を降りて3度目になる。処方したお茶のどちらかが効いていれば良いのだけど……と、フェリスは心配していた。
それに、次の新月はファイエルベルク国民にとっても重要で特別なのだ。
ファイエルベルクでは、短い秋の間に各家庭で長い冬の季節を迎えるための準備を整え、冬に入る前の新月の夜、小さな宴の席を持つ。
通称”冬入りの宴”と呼ばれる夜の小宴を催す家は、戸口にそれぞれ手作りのキャンドルを灯す。その灯りには『うちにお寄りください』という意味があり、近所の人々は夜遅くまで互いの家を行き来し、自家製の酒や菓子、キャンドル、干した肉や果物など、長い冬に備えて作り蓄えた自慢の一品を少しずつ交換するのだ。もちろん宴なのでお酒も飲む。ホーエンドルフの町はその夜、星空の下で昔ながらの暖かな交流を楽しむ人の声でさざめき、狭い路地には慎ましげに灯る小さな火が、控えめながらも華やぎを添えるのだ。
あの美しい夜を過ごせないかも知れないなんて……フェリスは少し残念に感じながら、これまでに作って畳んでおいた、枕元の十数枚のハンカチに目をやった。
そして何よりも大事なこと……ローレル先生はいま頃どうしてるかしらと思う。
「今年の冬の準備は、ローレル先生に任せっきりになってしまったわね。それにこのままだと、今年の”冬入りの宴”は先生とダン会長の二人だけになってしまうのかしら。」
フェリスは去年の新月の宴のことを思い浮かべた。あの時はハナがローレルのスグリ酒と自分の葡萄水を間違って飲んでしまい、酔っ払ってしまって……おかげで大いに盛り上がったのだ。
普段から『護衛のため』といってお酒など一切口にせず、いつもきちんとしているハナが、顔を真っ赤にさせて故郷の歌をたくさん聴かせてくれた。情緒豊かな旋律に、意味はわからないがハナの故郷言葉がやわらかく響き、心から感動したのを覚えている。一番好きな曲はハナに何度も歌ってもらい、フェリスも覚えて鼻歌で歌うことができるようになった。美しい旋律で、ちょうど今日のような星の美しい静かな夜にぴったりの曲なのだが、その意味は『花の舞散る下で、大きな杯に注がれた酒を飲み干す』とかどうとか、そういう内容だった。
「フェリス様、冬入りの宴よりも、まずはここから抜け出す方法なのですが……。」
ハナはさらに声を落とした。
「私ひとりでしたら、誰にも気づかれずに外へ出る場所と方法があります。私の足なら、二日あればファイエルベルクまで往復できます。今夜のうちに出て、ひとまず今の状況をローレル様にお伝えし、明後日の夜にまたここに戻ってくるというのはいかがでしょうか」
「そうねぇ。ハナならきっと出来るのでしょうけど、心配だわ。それにせっかくここを抜け出せるのに、また戻って来るなんて……。」
ハナの特殊な能力については、フェリスはよく理解している。彼女は母の侍女だったという経歴以前に、故郷では子供のころから特殊な訓練を受け、兵隊たちに混じって戦場に出て、間諜のような働きをしていたと聞く。実際にそうしているところを見たことはないが、誰にも気づかれずどんな部屋にでも忍び込めたり、そうかと思えば一晩でフェリスの想像をはるかに超えた距離を走ることができるらしい。
ベッドの枕元に置いてあった灯りを持って近付いたハナの手に、フェリスは自分の手を重ねて言った。
「わたくしのことはいいから、ラドルだけでも連れて帰ることはできない?」
「そんなことをしたら、私がラドルに叱られますよ。」
ハナは蝋燭の小さな灯りに片頬を照らされながら、困ったような、しかし優しい笑みを返した。
ラドルは、起きてくる様子はない。寝室の真ん中に据えられた大きなベッドからは、小さな寝息が規則正しく聞こえている。
ハナは、灯りを窓枠に置いて、こんどは暖炉のそばの低いテーブルから、ホットミルクの入った陶器のカップを持ってきた。夕飯の後、シルヴィが届けてくれたものだ。暖炉の火が近かったためか、まだ手に温かい。
フェリスはそれを受け取り、一口、こくりと飲んでほっと息をついた。
去年の宴の思い出はひとまず頭の外に追いやり、フェリスはこの現状について考える準備をした。
「ハナがお昼間でもこの寝室から全然出なかったのは……お城をこっそり抜け出しても、怪しまれないようにするためだったのね。」
「はい。」
フェリスたちに当てがわれた部屋は、廊下につながる広々とした居間と、その続き部屋を寝室とした二間の居室だった。4人で暮らしているファイエルベルクの家が、すっぽり入ってしまうのではないかと思われるほど、とても大きなものだ。ハナはここに来てからはずっと寝室で過ごしていた。見張りの兵士も、もちろん祈祷師に会いに来る城の勤め人たちも、寝室には入らない。おそらく、これからハナが数日いなくなっても、気に留める人はいないだろう。
しかし……と、ハナは続けた。
「問題は、シルヴィ様です。」
そうなのだ。シルヴィとハナはすっかり顔見知りになっている。
もし「ハナはどこにいるのか」と訊ねる者がいるとすれば、それはシルヴィだろう。
フェリスは右頬に手を当てて考え込んだ。もしハナの不在に彼が気付いてしまったら、うまく誤魔化すとことができるかしら……。いざとなったらこの張り出し窓のカーテンを閉めてしまって、ハナがカーテンの内側にいるように細工ができるかもしれない……かくれんぼ中だとか何とか言って……。
「フェリス様、私はあの方を、以前にどこかでお見かけしたことがあるように思います。」
ハナのその言葉に、フェリスの考えは、一時、中断された。
「あら、そうなの?シルヴィは、ホーエンドルフに来たことがあるのかしら?」
「いえ、そういうわけではないのですが……。」
馬車の旅の間、シルヴィとは何度か親しく話をしたが、ファイエルベルクに来たことがあるという話をフェリスは聞いたことがなかった。
「……それにしても、シルヴィが軍人さんだったなんて、未だに信じられないわ。あの方、本当に馭者じゃなかったのねぇ。」
シルヴィはフェリスたちに、本当によくしてくれた。
疲れてはいないかと、度々馬車を止めて様子を尋ねてくれたり、紅葉のきれいなところや珍しい野生の馬の群れなどを見つけると、馭者台からコンコンと壁を叩いて合図してくれたり……その合図で、フェリスたちはグロースフェルト領の美しい風景を、余すところなく堪能できたのだ。
「あの方を馭者だと思い込んでいたのは、フェリス様だけですよ。」
すかさず指摘したハナに、あらそうだったのとフェリスは軽く目を見開いた。ガリエル伯爵とのやり取りや宿との交渉など、彼の言動をよく見ていたラドルも、何らかの違和感を感じていたらしい。
そういえばシルヴィは時々、何か思いつめたようにフェリスを見ることがあった。その都度、『何か困っていることがあるの?』と尋ねるも、シルヴィは曖昧に笑みを返すだけだった。もしかすると、拘束されるフェリスたちのことを、ずっと気の毒に思っていたのかも知れない。
「シルヴィは兵士として、わたくしたちをここまで連れてくるという任務を、立派に果たしたというわけなのね。」
ハナは、フェリスのその呟きには応えず、話を軌道修正すべく続けた。
「私が探ったところ、シルヴィ様はここ数日、夜遅くまでグロースフェルト卿と話し込んでおられます。あの方は、他の兵士たちも知らないような、何か特別な職務に就いておいでのようです。時々、この城を離れて、長い時間どこかへ出かけていらっしゃいます。」
「まぁ、忙しいのね……ということは、シルヴィがあなたのことを探しに、わざわざこの部屋へやってくることはなさそうね。」
「確実にそうだとは申せませんが……。」
ハナはすでに、現状を伝えにファイエルベルクへ向かうと決めているようだが、それでもここに残して行くことになるフェリスとラドルを心配しているのか、言葉を詰まらせた。
そんなハナを胸の内を察して、フェリスは気丈に笑顔を向けた。
「ラドルもわたくしも、うまくやっていけると思うの。わたくしたち、あなたが先生を呼んできてくれるまでちゃんと元気でいるわ。」
そして、また窓の外の月に視線を戻してつぶやいた。
「せめて、どうしてわたくしたちが”拘束”されているのか、それだけでもグロースフェルト卿が教えてくださればいいのだけど……。」
その理由が分かれば、何かしら自分で解決できる方法を思いつくかも知れない。それに、せっかくハナが危険を冒してまで先生に会いに行ってくれるというのだから、伝える情報はひとつでも多い方がいい。
「そのことなのですが。」
拘束される理由が思い当たらず、表情を曇らせるフェリスに、ハナはさらに声を落として続けた。
「……我々は、”拘束”されているのではないのかも知れません。」
そのハナの言葉に虚をつかれたフェリスは、目を丸くした。
「あら、でもグロースフェルト卿は『おまえを拘束する』って、確かにおっしゃったわ。」
瞳だけはすみれ色だが黒衣に黒髪、全身真っ黒だった青年の、端正な顔つきを思い出しながらフェリスは言った。あの人が、冗談を言っているようには見えなかった。それに、その言葉通り、扉の前には見張りの兵士も立っている。
「フェリス様、いまの状態は”拘束”とは言えません。」
こんなに快適で人の出入りが激しい”牢獄”など聞いたことがない、とハナは笑った。
「拘束というより……」
そこまで言って、ハナは言葉を止める。
「どうしたの?」
「……いえ、安易に判断してはいけないことでした。もっと探らなくてはならないことはありますが、あまり時間が経ちすぎてもローレル様が心配なさいます。」
「そうね……。」
ハナにひとっ走りしてもらい、まずはローレル先生に連絡を取ってもらおう。フェリスも心を決め、ハナの提案を受け入れた。
「もう寝るわ、ハナ。本当に、気をつけて行ってきてね。」
フェリスは立ち上がり、ハナの両手を自身の両手で包み込み、背伸びをしてその頬に口付けた。
「山の神様のご加護を、ハナ。」
山の神様の祝福が、いつもあなたの行く道にありますように……そう願いをこめた祈祷師のキスは、旅人の一番のお守りとなるのだ。
**
ラドルの隣で、静かに寝息を立てるフェリスの顔を、ハナはしばらくの間、見つめていた。
「近頃、ますますよく似てこられましたね。」
顔だけではない。話し声や仕草まで、フェリスは彼女の母親そっくりになってきた。
「お約束は必ず守ります、アナベル様……」
フェリスとラドルの安らかな寝顔をもう一度確認し、ハナは音もなく闇の中へと溶けていった。