祈祷師、入城する
黒塗りの馬車は、鉛色にくすんだ石造りの城門をくぐったところで止まった。
「あぁ、着いたのね!」
フェリスは濃紺色の外套の裾をひらめかせながら、”馭者”の差し出す手を支えにひょいと軽やかに馬車を降りた。
「ありがとう、シルヴィ!」
馭者のシルヴィとはこの数日の馬車旅ですっかり親しくなった。世話になった彼に笑顔で礼を述べ、フェリスは辺りを見回しながら尋ねた。
「……ここがガリエル伯爵様のご実家なのね。」
「ええ、そうですよ祈祷師殿。ここの城主でいらっしゃるグロースフェルト辺境伯は、ガリエル伯爵様の弟君でいらっしゃいます。間もなくこちらにお出迎えに来られると思いますので、あまりここから離れずにお待ちくださいね。」
シルヴィは、フェリスと同じような濃紺の外套を纏った少年を降ろしながら答えた。
「ありがとう、シルヴィ……」
祈祷師見習いとしてフェリスの助手を務めるラドルは、少し顔を赤くして言った。本当は抱きあげられるように降ろされるのは不本意なのだが、背が小さいため、地面までの高さを考えれば仕方のないこと。普段は、琥珀色の瞳がくりくりと光る丸い大きな目が愛らしいのだが、いまは気恥ずかしさで少し伏せ気味になっている。
そして大きな馭者の手は、最後に降りてくる女性に向かって差し出された。
「……あの、大丈夫ですかハナ?」
フェリスの”護衛役”(自称)であるハナの顔色は、いつもの健康的な淡い小麦色が青白くなっている。しかし、絹のように艶のある編み込んだ黒髪を少し乱しながらも、しっかりとした足取りで地面に降り立った。
彼女が仕事着として愛用し、今も着用しているファイエルベルク自警団の制服は、近所に住む自警団の兵士が「新調するから要らなくなった」と言って譲ってくれたものだ。山の春を思わせる落ち着いた萌黄色のそれは、黒い瞳に黒い髪、ともすれば冷ややかな印象を与える凜とした顔立ちに柔らかさを添えるようで、案外よく似合っている。
ハナは、服のシワをパンパンと叩いてのばし、気合を入れ直すようにしっかりとした口調で答えた。
「大丈夫です、シルヴィ様。フェリス様もラドルも平気なのです。二人が何ともないのなら、私がいま気持ち悪いのはおそらく気のせいです。」
そうですかと苦笑しながら、シルヴィは馬車を片付けるためその場を離れた。
「やせ我慢しないでよ、ハナ。どう見ても顔色悪いし。」
ラドルはハナを半眼で見やった。
そして、目の前の鉛色の石の城を同じく半眼で見やり、つぶやいた。
「それにしても……なんでこんな気味の悪いところに寄り道しなくちゃならないのさ。」
「それについては同感ですが……ラドル、口の悪い子ですね。いけませんよ。」
ハナは、背もたれに擦れて絡まったラドルの柔らかい茶色の髪を片手で梳きながら、彼の遠慮のない言葉を諌めた。
「フェリス様がお断りになれなかったのは、あのやたらと押しが強いガリエル伯爵様のせいです。私とあなたの”丁重なお断り”も、あの方のゴリ押しには無力でしたね……。」
ガリエル伯爵夫人のお産も無事に済み、身の回りのお世話もひと段落ついて、さあ帰ろうとなった時のことだ。
突然、伯爵が『今回とてもお世話になったから、帰国前に私の実家でしばらく静養していきなさい』と言い出した。
伯爵の実家、グロースフェルト家の領地は、ファイエルベルク国やランチェスタ王国と国境を接している。帰国の途中に寄り道できる範囲ではあるが……。
『お世話になった』と言われても、お産自体は、『デーネルラント王国宮廷専属医』という立派な肩書きと、豊富な経験を持つ医術師がついていたので、フェリスに苦労という苦労はなかった。静養せねばならないのは、むしろ二人目の男の子を出産した伯爵夫人の方だろう。しかし伯爵は、その提案をした時にはすでに、伯爵邸からグロースフェルト家の居城までの馬車を用意していた。さらには、フェリスが所属しているファイエルベルク国の祈祷師協会だけでなく、彼女たちの保護者ともいえる祈祷師ローレルにも、彼らが”寄り道”する旨を連絡済みだったのだ。
「なんか変だよね、あんな親切の押し売りみたいなこと。そんなことするタイプの人には見えないけど……。」
あまりの用意周到さで、断る隙を与えてくれなかったガリエル伯爵をいぶかしむラドルに、ハナはフンと鼻を鳴らして答えた。
「余計なお世話を回避できず無念です。お子様達が、あのような押し付けがましい性格を受け継がないようにと祈るばかりです。」
「……ハナこそ口が悪いよ。」
ラドルは小さくため息をついた。
少なくとも、この寄り道を心から楽しんでいるのはフェリスひとりだけであることは間違いない。ふたりがひそひそと会話を交わしながら長旅の馬車で縮こまった身体を伸ばしたり、首や腕を回したりしている間も、フェリスは見晴らしの良い場所を求めてあたりを楽しげに歩き回っている。
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城壁は、アーチ型の城門周辺を除いてはほとんど原型を留めておらず、丘を見下ろせる場所はすぐに見つけることができた。フェリスは、肩ほどの高さしかない石積みの壁に両手を掛け、眼前の景色を堪能した。
先ほど馬車で通ってきた一本道を、逆に辿って視線を移していく。
道はここ、丘の上の城から牧草地へと下る途中、少し離れたところに巡らされたもうひとつの城壁……いまフェリスが手をかけている城壁よりもさらに崩れてしまっているが……と交差して伸びていく。つまり、この城を守る壁は二重になっているのだ。外側の壁を出た道は、草を食む羊や牛の群れが点在する牧草地を、右へ左へと大きく蛇行し、小さな村を抜け、やがて森の中へと隠れてしまう。曇り空のため、森と空の境目は薄靄がかって曖昧になり、森に隠れてしまった道が、まるで空まで続いているかのようで、とても幻想的だ。
手前の緑の絨毯に視線を戻せば、厚い雲の切れ間から差し込む陽光が、その部分だけを金色に照り返している。
その美しい眺めの左手に見える丘陵や森林の奥に、斜めに差しこむ幾筋もの光の柱を通して見えるのは、急峻に聳え立つ巨大な壁のような山並み……ファイエルベルク国だ。
ガリエル伯爵にこの”寄り道”を勧められた時は、一考することもなくお断りしたフェリスだった。二月ほど留守にしている山のこと……ローレル先生や集落のみんなのことが気になって、そろそろ戻りたいと思っていたからだ。しかし、いまは来て良かったと思う。この美しい風景に、ファイエルベルクの山々は確実に荘厳さを添えている。
「よその土地からは、ファイエルベルクってこういう風に見えるのね……ローレル先生へのお土産話がまた増えたわ。」
あの威厳のある巨大な山並みの中に、フェリスのよく知る陽気な人々が住んでいるのだと思うと、不思議な気分だ。
そうして、懐かしい人たちの顔をいくつも思い浮かべていると、胸が痛いような、熱くなるような焦燥感に気づく。初めて味わう感情に少し戸惑いながらも、きっとこれが『郷愁』という気持ちなのだろうと思った。
今は靄がかかり影のようにしか見えない山の中に、聖峰ホーエンベルク山があるのだ。
城壁に掛けていた手を胸元に結び、フェリスは目を伏せた。
ガリエル夫人のお産が無事に済んだこと、まもなく国に帰れること、その途中で素晴らしい景色に出会えたこと、この土地に招いてもらえたこと……この二月の旅の出来事を思い浮かべながら、山の神に感謝を捧げていた。
「何か珍しいものでも見えたのか?」
訊ねる声と、フェリスの目深にかぶっていた頭巾が強い風に煽られ小さな頭があらわになったのは、ほぼ同時だった。
声の方へ振り向くと、いつの間にかすぐ近くにひとりの青年が立っていた。
青年の黒紫色の髪は平原から吹き上げてくる風に煽られ、フェリスの項の下の方で結わえた金糸と同じ方向へと流れている。
黒いのは髪だけでなく、身につけていた上衣にマント、長靴まで黒かった。
フェリスは「すごい!全身真っ黒だわ!」という思ったままの感想を、辛うじて飲み込んだ。
切れ長の目の中に宿る薄紫の虹彩は何の感情も見せず、ただフェリスを見つめていた。
その色には見覚えがあった。
「あなたはガリエル伯爵様のご親戚の方ね!」
「弟だ」
大きな発見をしたように喜ぶフェリスに、その青年は短く答えた。
「……ようこそ、祈祷師殿。俺はクリスチアン=グロースフェルト辺境伯。ここの当主だ。」
フェリスは瑠璃色の瞳をきらめかせた。青年は、話し声までガリエル伯爵にそっくりだ。初めて会った見慣れない容貌の青年に、一月以上ともに過ごした雇い主との共通点をいくつか発見し、湧き上がる親しみを抑えられない。
グロースフェルト辺境伯。長兄が他所の家を継ぎ、なぜか弟が辺境伯の称号を受け継いだという変わり者だが美形の兄弟……ガリエル伯爵家で働いていた間に何度か耳にした言葉だ。甘いお菓子よりも噂話が大好きといったメイドたちの間で、そのように囁かれていたのを、フェリスは思い出す。
グロースフェルト辺境伯はガリエル伯爵よりも少し大柄だが、髪の色と服の色を見なければほぼ瓜ふたつと言っていいほどよく似ていた。
「はじめまして、グロースフェルト卿。わたくしはファイエルベルクの祈祷師で、フェリスと申します」
フェリスは改めて姿勢を正して、体をまっすぐ彼に向けた。そして外套の裾を少し持ち上げて膝を軽く折り挨拶をした。
「それでグロースフェルト卿、先ほどお訊ねの件ですが……ほら、ここからファイエルベルク国が見えますのよ。」
フェリスは、再び城壁の外へと体を向けて、その視界の左手を差した。
その手に誘われるように近づいた辺境伯は、城壁に片肘を掛けてフェリスの指差す青灰色の山並みを見やった。
それからゆっくりと、その視点を壁のすぐ外側の地面に移し、独り言のように言った。
「俺は……そこに幽霊でも見えたから祈っているのかと思った。」