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ファイエルベルクの祈祷師《1》  作者: 小野田リス
21/21

終章〜お仕事、遂行いたしました

その夜、グロースフェルト辺境伯居城にて1日遅れの”冬入りの宴”が開かれることとなった。


翌日にはフェリスたちがファイエルベルクに帰国すると聞き、リリーがそれを城内に広めたところ、世話になった祈祷師のために皆でお別れの会をしようということになったのだ。あまり派手なものでなければ自由にして良いという城主の許可も得たと、フェリスに声がかかった。最初は、騒ぎの直後でもあり皆の負担になるのではないかと心配だったが、リリーたちの熱心な様子や、『こんな時だからこそ、気晴らしになって良いんじゃないか?』という師匠の言葉もあり、ありがたく皆の気持ちを受け取ることにした。


フェリスは、それなら故郷で冬の前の新月の夜に行われる宴のように、食事やお酒を立食形式で楽しむようなこぢんまりとしたものにしてはどうかという提案をしてみた。二重城壁リングを超えて城に忍び込んだ時に通りかかった、厨房の近くにある賄い用の食堂なら、皆で集まるのには広さも丁度良いし、何より片付けが楽だ。リリーもその提案に飛びつき、すぐに準備すると言って料理番に相談に行った。


兵士を除く城の者達には、この度の騒ぎは絹糸交易の不正取引で捕らえられた男爵一味の逆恨みによるものとして説明された。王都のガリエル邸の馬車を襲った者達は捕らえられた。伯爵の実家であるグロースフェルト城も狙われたが、祈祷師の協力を得て無事に解決した……呪術師の存在をつまびらかにすることで、無用な恐怖を煽ることのないようにという城主の配慮だ。


ちなみに、フェリスとラドル、ダンはホーエンドルフに戻り、ローレルはノルトハーフェンのガリエル伯爵を訪ねることになっている。ランチェスタや呪術師の動きについて話し合うためだ。


ハナはお茶の後すぐ、皆より一足先に出発した。フォレ・ブランシュに潜んでいるプリエール騎士隊の生き残りに、アランの息子であるシルヴィが生きていたことを伝えるためだ。その連絡が済んだ後ホーエンドルフに戻り、フェリスたちが帰宅するまでに家の片付けや食事の用意をしておくとのことだった。


そしてフルスで捕まった呪術師とグスターヴォは今のところ、体が回復次第、王都ノルトハーフェンに送還されることになっている……。


「あの……クリス、やはり元呪術師のお二人をホーエンベルク神殿に連れていきたいのですが……」


フェリスはまたクリスに、今日一日でもう何度目か分からない”お願い”をした。今は、腕の怪我に当てていた薬布の取り替えのため、執務室を訪ねているところだ。ソファでくつろぐクリスにブラウスを脱がせ、古い当て布を外しながら”お願い”している。


「フェリス、ダメだよ。二人ともデーネルラントで悪いことをしちゃったんだから、デーネルラントの法律で裁かれなくちゃ」


”お願い”に答えて説明するクリスの話をすっかり覚えたラドルは、言葉をそのまま借りてフェリスを諌めた。


宴会大好きなローレルとダンは早々と食堂に行っており、おそらくすでに飲み始めているだろう。酔っ払いのおじさん二人を頼るわけにはいかない見習い少年は、お目付役としてしっかり仕事を果たしている。


「ラドル、そういえば”冬入りの宴”はもう始まってるのか?」


クリスは少年に顔を向け、出し抜けに尋ねた。


「まだだよ。たぶんローレルもダンも先に飲み始めてるとは思うけどさ。クリスの包帯を替えたら、食堂に行くよ。廊下に蝋燭を飾るの。」


大玄関ホールの大階段の脇に小さな扉があり、そこから東翼の裏手側に細い廊下が伸びている。その先は従者たちの寝起きする宿舎になっており、厨房や賄い用の食堂は、東翼と宿舎の間くらいにある。ホーエンドルフでは、冬入りの宴の夜には宴の合図として戸口前に蝋燭を灯すので、細い路地に星が落ちたように見えるのだが、ラドルはそれを食堂までの廊下に再現しようと考えていた。そのことを伝えると、リリーも他のメイドたちも大喜びで賛成したとのことだが、どうやらメイドたちはラドルの言うことにはたいがい何でも賛成しているらしい。


「行ってこいよ。包帯はフェリスに替えてもらう。その間に二人の元呪術師のことは諦めてもらうよう説得するさ。」


フェリスは新しい当て布に薬を塗り、傷口を確かめてからそこに貼った。白い外套の呪術師が振り下ろした切っ先は、わずかにかすっただけのようだ。さほど出血もなく、明日には薬もいらなくなるだろう。ラドルはフェリスに包帯を渡し、『後でね』と言い残して部屋を出た。


「クリスは宴に出ませんの?」


「城主の俺が出て行ったら、せっかくの宴なのに羽目をはずせないだろう?」


当て布の上から包帯を巻きつけながら、そんなものかしらとフェリスは首を傾げた。ホーエンドルフでは、協会長のダンが宴にやってくると祈祷師たちは皆大喜びで酒を勧めるのだが。


「じゃあ、あとでここにお食事とお酒をお持ちしますわ。冬入りの宴では、町の人たちはお互いのお家を行き来するんです。ちょうどそんな感じですわね。」


「行き来して、何をするんだ?」


「一緒に食事したりお酒を飲んだりしながらお話しするのよ。それと、冬を過ごすためにたくさん準備したものを交換したり……うちはローレル先生がいつもスグリ酒を仕込むので、それを出すことが多いわ。」


今年は”拘束中”に作ったハンカチを一緒に配ろうと思っていたのだが、故郷の冬入りの宴は終わってしまったので、今夜、ここで仲良くなったメイドたちに配ろうと思うのだと話した。


「そうだ、クリス様にはこれを。」


フェリスは胸元の”お守り”を外し、膝に置いていたクリスのブラウスに付けた。


それは、縫い針と鳥の羽で作った飾りピンだった。


その飾りピンは、呪術師と遭遇した時に封印ジーゲルで使おうと思って備えておいたものだった。しかしピエル=プリエールの血を受け継ぐフェリスには、どうやら少し”不思議の力”があるらしく、ローレルや他の祈祷師のように自分の血を使わずとも呪術師の力を封印できるようだ。フェリスは、額への口づけだけでグスターヴォの力を封印できた。そのため、飾りピンを指に刺して血を出す……という必要はなくなったのだ。


「以前、これを欲しいとおっしゃってたでしょう?」


「そうなんだが……」


ふと目を合わせると、クリスが怪訝な表情でフェリスを見つめていた。しかも、近い。フェリスは、フルスの兵舎の食堂で頬に口づけされたことを急に思い出し、その時と同じように顔が熱くなり胸がつまるような息苦しい気持ちになった。目を合わせているのが恥ずかしくなり、アメジスト色に光る瞳から視線を下に逸らすと、今度は引き締まった胸板が目に入る。腕の包帯を替えるために自分がブラウスを脱がせたのだ。


「あ、あの……上着を……」


フェリスは目のやり場をなくし、顔を隠すように膝の上に置いていたブラウスをクリスに向けて広げた。


そのブラウスを取り上げ、なおもクリスは顔を近づけてきた。


こんどは、フェリスは視線を窓の外へと向けたが、宵闇はいつもの牧草地や村を覆い隠し、ソファで身を寄せる二人を鏡のように映していた。


まじまじと見られている……


「ど、どうかしました?」


明後日の方向を見ながらクリスに尋ねると、大きな掌が頬に添えられ、そのまま顔を正面に向かされた。


「おまえ、なんかおかしいぞ。クリス様とか、クリスとか……言葉遣いにもムラがあるし。俺には気を使わなくてもいいんだ。クリスでかまわないって言っただろう?」


「いえ、気を使うとか使わないとか……そういうことでもなくて……」


わたくしはどうも”秘密”が苦手みたいだわ……


尋ねるように顔を覗き込まれ、フェリスは観念したように話し始めた。


「……思い出したみたいですの。」


「は?!」


「わたくし、クリスのことを思い出したの。」


大聖堂カテドラル解呪ハイレンの祈祷をした後、ふと見上げた天井の六芒星から降る光を浴びながら思い出したのは……真っ白な城にふわふわと舞い落ちる雪……そして、とある冬の日の記憶。


「おそらく、白い外套の呪術師に”父”の顔を見せられたことも影響していると思うのです。白いお城で、クリスとたくさんスノーマンを作ったわ。その後、”父”のところに知らせに行こうとあなたが言ったのよ……」


言い終わらないうちに、フェリスは強く抱きしめられていた。


**


この例えようもない喜びをいかにしよう。


フェリスが辿々しく語る記憶の断片が、自分がもっているそれとひとつひとつ符合していくごとに、クリスの胸は高鳴った。その記憶は、まさに自分のものでもあるのだ。大切なものを胸に閉じ込めるように、思わず抱き寄せていた。


「ク、クリス……苦しい……」


胸の中で、濃紺色の外套をまとった暖かくて小さな体が、もぞもぞと身をよじっている。かまわずそのまま閉じ込めておいた。


「全部……思い出せたのか?」


動きがピタッと止まる。


「ごめんなさい、クリスとスノーマンより他のことは……相変わらず何も思い出せないの。」


シルヴィのことも、そしてあの後に見たはずの”父”のことも……。ただ、白い城に降る雪と、クリスという仲の良い少年とスノーマンを作った場面だけが鮮やかに思い出された。ほんの少ししか思い出せなかったから、このままずっと秘密にしておこうと思ったのだと話した。


フェリスにとっては残念なことかも知れないが、自分のことだけを思い出したということは、不謹慎にもクリスの心をますます浮き立たせる事実だった。


「フェリス、その日に俺やアラン様に言ったことも覚えてるか?」


腕の中の祈祷師は、ふるふると首を横に振った。そして、拘束から逃れるようにやんわりと胸を押し返して顔を上げ、上気させた頬を緩めるように柔らかく微笑んだ。


「でも、クリスとスノーマンを思い出せたのだもの。わたくしの記憶は、全部どこかへ消えてしまったわけではないということです。嬉しいわ!」


スノーマンと並べるな、と言いたいところをぐっとこらえて、クリスは瑠璃色の瞳を覗き込んだ。昔と変わらず、心をまるごと吸い込まれそうな、不思議な色だ。


「……たとえ”ほんの少し”でも、俺のことを思い出してもらえて嬉しいよ。嬉しすぎて、羽飾りの代わりにおまえがくれた”お守り”がまた欲しい。」


何か差し上げたかしらと首をかしげるフェリスの頬に、触れるような口づけをひとつ落とした。驚いて見上げた小さな鼻先にはついばむようにひとつ、身を引いた拍子に頭巾が外れたので、こめかみに押し付けるようにひとつ……


「な、なにをなさるの?!」


真っ赤になって訴えるフェリスに、クリスはいたずらっぽく笑みを見せた。


「これは、俺の”おまじない”だ。」


もっとたくさん思い出せるようにと。そういう口実にしておこう。


フェリスは大きな目をさらに大きく見開いて『そういうことですの!』と納得した。なぜ納得してしまったのか分からないが、しきりに頷いている様子が可愛いので放っておく。自分にも”お守り”のキスをしてくれないかと期待しながら待っていたが、ふっと見上げた表情は真面目なものだった。


「ところで、二人の元呪術師のことですが……」


この国の法律では呪術師はどうなるのかと尋ねる目は、すっかりファイエルベルクの祈祷師としてのものだ。


「国境を襲ったのだから、大罪にはなるだろうな。」


しかしまだ、公にすることはできない。この国にも強硬派はいるのだ。彼らに今回の騒ぎを不用意に知られてはならない。今は収まっているが、デーネルラント国内で戦の機運が再び高まるだろうし、隣国ランチェスタとの関係は決定的に悪くなる。


「彼らは……しばらくはここの石牢で過ごすことになるだろう。その間は、丁重に扱うことを約束する。」


「時々、お二人にお手紙を差し上げてもよろしいですか?」


「それくらいは、かまわない。俺にも書いてくれるなら。」


クリスはフェリスから受け取ったブラウスを羽織り、胸元の飾りピンの羽に指を触れさせた。……力を失った呪術師についての当面の処遇も含めて、兄と話し合わねばならないことが多くある。自分も明日、ローレルと共に王都へ向かおうかと思案していた、その時。



「クリス~。いけないよ~、無垢な女の子相手にそんなふしだらなコトしちゃ。」


「兄上!」


「ルッツ様!」


扉に手をついて立ち、二人に含み笑いを見せている男は、波打つブロンドの髪に、クリスと同じ薄紫の瞳……ルードヴィヒ=ガリエル伯爵だった。


「ふしだら?!」


その後ろから緋色の外套の大男がルッツを押しのけるようにして飛び込んできた。


「テ、テメー……うちの子をどうにかしたんじゃねぇだろうな?!」


どうにかする前に入ってきたんじゃないか、と不機嫌に見返していたが、よく考えるとひとつのソファに向かい合うように座り、片足はフェリスの両膝を固定するように伸ばされている。なおかつ、包帯を巻き直した際に脱いだ上衣は軽く羽織っているだけだ。


「傷の手当てをしてもらっていただけだ。」


一応、言い訳しておこう。


「クリス様は”おまじない”をしてくださってただけですの!」


余計なことを言うな、祈祷師よ。


「”おまじない”だと……?」


何だそれはと尋ねるローレルに、正直に答えようとするフェリスの言葉を遮ってクリスはルッツに話しかけた。


「兄上、ご相談しなければならないことがあったので、明日、そちらの派手な祈祷師殿と一緒に伺おうと思っていました。」


「そうだろうねぇ。とりあえず、いくらそんな風にひっついてても部屋の扉が開けっ放しでは、フェリスだってその気になれないと思うよ。」


「……その手の話については、またいずれ兄上の手管をゆっくりご教示いただくとして、まずは隣国の宰相と呪術師の動きについて今後の対策を……」


「オメーら、真面目な顔してロクでもない話すんじゃねぇ。それと、とりあえずフェリスはそいつから離れろ。」


業を煮やしたローレルが、ソファまでずかずかと部屋を突っ切り、さっと取り上げるように愛弟子を抱き上げた。


「フェリス。”おまじない”だか何だか知らないが、この男と二人きりになっちゃいかんぞ。だいたい、こいつに限らず男はみんなケダモノだから気をつけろって、いつも言ってるだろ?」


フェリスはふふと柔らかく微笑んで、師匠の首に腕を回した。


「ローレル先生、ケダモノは自分で退治できますわ!それよりも、わたくし思い出せたことがあるんです。幼い頃の冬の日、どこか白いお城のような建物の中庭で、クリスとスノーマンを4つも作ったこと……辺境伯の口づけが記憶を呼び戻す”おまじない”になるだなんて、旅の”お守り”となる祈祷師の口づけと同じですわね!」


……ああ、それで”納得”してたのか。


しかし親代わりの祈祷師殿には”おまじない”のことを言わずにおいて欲しかった。記憶の一部が戻ったという告白に感無量といった面持ちだったローレルだが、後半部分の余計な告白で顔色が変わり、最後には表情が凍った。


「……そうかフェリス!記憶がひとつでも戻ったのは喜ばしいことなんだが……テメー、あとでブチ殺すッ」


腕から降ろしたフェリスの小さな頭を撫でながら、ローレルがクリスに向けて放った最後の言葉……聞こえるか聞こえないかほどの、怒気を含んだ低くい声は耳に入らなかったことにする。


兄は何やら意味ありげな目でこちらを見ている。どうせ後で死ぬほど揶揄からかわれるのだろう。そういう人だ。


フェリスは、いつもと変わらず、にこにこと無邪気な笑顔を見せている。あの瑠璃色の瞳をもう一度間近で見たいが、殺気立つ師匠の側に立つ今は、それも叶わないだろう。


ともかく今宵、あの愛らしい祈祷師にはグロースフェルトで初めて行われる、一日遅れの”冬入りの宴”を心から楽しんでもらいたいものだ。


揺らぐ隣国との関係や呪術師の存在、”賢者”の本がもたらした新たな事業の可能性の模索……辺境伯の目の前には、考え、乗り越えなければならない困難な問題が山積みだ。しかし、ほんの一時でも全てを忘れてたった一人のための幸せを願う時間ができた。それがクリスにとってどういう意味があるのかは、まだはっきりとは自覚できないが……どこか面映く、でも何か温かいものが心に宿ったことは確かだった。クリスは、思いがけずそんなものを与えてくれた神にひっそりと感謝した。



***



青く突き抜ける空を背に、輝きを放ちながら聳え立つホーエンベルク山……覆われた雪と氷で陽の光を弾く冬の聖峰は、しばしば天を突き刺す鋭利な槍の穂先にもなぞらえられる。


この時期には珍しく、雲ひとつなく晴れ渡った、とある冬の日のこと。


フェリスは新調した冬用の外套に身を包み、上気して赤く染まった頬を、白いミトンに包まれた手で覆いながら聖峰を見上げた。ミトンは、薬草茶のお礼にとリリス村のエノルおばあさんが秋の間に編んでくれたものだ。柔らかくて暖かい、そして心のこもった贈り物だ。


今朝は、ひどく冷えた。といっても山の冬は厳しく、飲み水に使う湧水以外は滝までも凍ってしまうほどだ。この日、ハナとラドルを伴って訪れたホーエンベルク神殿の木製の大扉も、冬場は凍りついて動かなくなるため、例年通り閉ざされたままになっていた。この時期は、大扉の一部を切り取るように設えられた小さな木戸から出入りすることになっている。


その木戸を出て、フェリスはすぐそばに聳え立つ聖峰を見上げながら後から出て来た”連れ”に声を掛けた。


「サク、すごいわ!空も山も、どこもかしこもキラキラと輝いてるわね!」


『サク』と呼ばれた青年は、目をすがめながらあたりを見渡した。神殿の中は比較的暗いため、その光は肌に痛く感じるほどだ。


目を、肌に受ける感覚を慣らすように、しばらく光の中に立ちすくむ。ローレルのお下がりである緋色の外套をまとい、目深にかぶった頭巾からは亜麻色の髪が覗いていた。


動かない青年を心配して、先に表に出ていた見習いの少年が声を掛けた。


「サク、大丈夫?ここからうちまで、だいぶ歩くよ。」


「ゆっくり歩いても、夕刻までには帰れます。疲れたら途中で休んでもかまいませんよ。」


ラドルと一緒に励ますように話しかけたのは、真っ白な厚手のフロックコートに身を包んだ兵士……ではなく、フェリスの護衛ハナだ。やはりファイエルベルク自警団の兵士からもらったものだが、ハナの清廉な顔立ちもあってか、元の持ち主よりもよく似合っている。


「大丈夫だよラドル、ハナ。……少し、山を見ててもいいかな。」


そう言って、いつもの濃紺色の外套をまとった祈祷師の傍に立ち、同じように聖峰ホーエンベルクを見上げた。


その青年は、数ヶ月前に”名”を捨てた元呪術師だ。かつて、グスタフまたはグスターヴォと呼ばれていたその青年は、今はフェリスたちに『サク』と呼ばれている。全てを捨てたとはいえ、名前がなくては何かと不便だということで新たに付けられた呼び名だが、青年は特にこだわりもなく受け入れた。最初は少し気恥ずかしさもあっただろうが、今では呼ばれると口元に穏やかな笑みを浮かべながら返事をするようになっていた。


”サク”というのは、ハナが考えた名だった。彼女の故郷の言葉で、”新月”を意味するらしい。新月の夜に生まれ変わった青年にとって、これ以上なく相応しい名であり、何よりその響きが美しくしかも呼びやすいというので、本人がどう感じているかは差し置いて、誰よりもフェリスは気にっていた。



初冬の新月の翌日、グロースフェルト城で行われた”冬入りの宴”は、大いに盛り上がった。『せっかく皆が羽目を外せる宴だから』と遠慮気味だった城主のクリスや元城主のルッツも、慕わしげに酒や食事を勧める従者や兵士らの熱心な声かけもあり、一緒に参加することになった。あまりの盛り上がりに、ルッツは『呪術師がひと暴れした後とは思えんな』と笑っていた。リリーをはじめとしたメイドたちはラドルを囲み、その中に混じろうとしたローレルは酒豪の兵士たちに捕まって飲み比べを挑まれていた。ダンは同年代の料理番とのんびり酒を酌み交わしおしゃべりを楽しんでいたようだ。


フェリスは、宴の終わる夜更けまでずっと皆、食堂にいたように思っていたが、クリスとルッツ、そしてローレルとダンの祈祷師たちは、酔いがまわる前にひっそりと中座して、再び城主の執務室に戻ったそうだ。この度の呪術師の絡む騒動と、今後のことについて話し合うために……


ルッツは、絹糸交易の不正で拘束された男爵を取り調べた後、国権の最高機関ともいえる王宮枢機院の面々との会談を急ぎ申し入れた。グロースフェルトで捉えられたと報告のあった呪術師の処遇について、彼らの指示を仰ぐためだ。


ノルトハーフェンに送還し王宮内で勾留するということは、懐に不穏な火種を抱えるようなものだ。また裁判によってこの度のことが公になれば、ようやく下火になった強硬派の好戦機運に油を注ぐことになりかねないので、それも憚られる。しかし、ガリエル家やグロースフェルト家を襲ったのも事実であり、今後隣国との取引に使える情報も持っているだろうから、手放すことはもちろん葬ることもできない……枢機院の判断としては、ファイエルベルクの祈祷師たちがそうしているように、ホーエンベルク神殿に送るのが妥当ではないかということだった。神殿に預け身元を把握しておき、必要に応じて聴取できるようにすべきだと話しがまとまったとのことだった。


ローレルとダンも『それがいいだろう』と言って、国王の署名が入った枢機院からの書状を預かり、帰国したら神殿に届けると約束した。二人の呪術師は体が回復次第、ファイエルベルクへ送還されることとなったのだ。


二人の元呪術師のうち、フルスで捉えられた男は、神殿を出ずに他の元呪術師たちと共に司祭たちの側で暮らすことを選んだ。彼の本当の名は『ヨシュア』という。呪術師たちは互いのことを『仲間』と呼び合うため、真名が使われることがほとんどなかったそうだ。


そしてもう一人の元呪術師……新たに『サク』と呼ばれている青年は、神殿を出て、ホーエンドルフのフェリスたちの傍で暮らしたいと願った。ランチェスタの隠密として働き、フェリスたちを襲ったことは消せない過去ではあるが、それを背負いつつサクは一歩ずつ前に向かって歩き始めている。


最初は渋っていたローレルも、結局、彼を受け入れることにした。


サクがもし家の管理をしてくれるようになれば、自分は遠方まで仕事に出かけることができる……これから先、ローレル自身も山を降りてランチェスタやデーネルラントに向かわねばならないことも多くなるだろう。なおかつ彼は、薬師としての知識も持っている。ローレルが家でしていることを、彼なら代わりに全てできるのだ。それに、エメロニア傍系という血筋で考えるなら、サクとローレルは遠い親戚みたいなものだ。数多あまたの働き口がある観光都市ホーエンドルフで、大した給料も払えない祈祷師の家でわざわざ働きたいと言う人など、ほとんどいない。この稀な人材を放棄することは、現実的に考えて惜しいことでもある。


また、自称”ファイエルベルクのパパ”であるローレルが最も懸念していたこと……『年頃の女の子がいる家にケダモノが住み込むのはどうなんだ』という問題については、ローレルたちと同じ通りに住むザーシャ夫妻が解決してくれた。二人には子供がおらず、長らく夫婦二人だけで暮らしていたが、空き部屋があるので使ってほしいとの申し出があったのだ。


「元呪術師だって言ったって、あの赤マントと一緒じゃないの。怖いことあるもんかい」


そう言って高く結った豊かな髪をふさふさと揺らしながら笑顔で言い放ったザーシャと、その隣でいつものように静かに微笑んでいたザーシャの夫マッケイは、今や二人とも新しい同居人を心待ちにしている。


ハナは、なぜか殊の外サクに気遣いを見せている。年齢も近く、背丈もサクの方がずっと高いのだが、まるで母か姉のように接しているのだ。


普段から割と粗雑な扱いを受けているローレルが『不公平じゃねえか?』と訴えたが、ハナは取り合わないどころか『あなたのが方がよっぽどケダモノです』とバッサリ言い捨てていた。サクによると『幼い頃から日陰の身だったところに共感されているのかも』ということだった。


**


しばらくは神殿と町とを往復し、移り住む準備を進めていたが、ようやくこの日、全てが整ったということで神殿を出るのことになった。こんな自分の旅立ちにはもったいような、明るく輝く空と山が目の前にある。


「わざわざ迎えにきてくれて、ありがとうフェリス。」


緋色の外套の裾を、冷たい風があおった。踏み固められた雪もすっかり凍てついて、とても寒かっただろう。サクは曖昧な笑みを口元に浮かべた。


ちょうどお薬を届ける用事を済ますことができたから気にしないように、とフェリスは微笑んだ。


「それに、お手紙も出したかったから……」


頭巾に半分隠されてはいるが、上気した頬がさらに赤く染まったのが見えた。


「クリスに、だね。」


「クリスだけじゃないわ。サリダ様にも書いたわ」


この秋に二人目の男子を出産したサリダ=ガリエル伯爵夫人は、夫からグロースフェルト城で起きた事件を聞いて激怒したらしい。『わたくしのフェリスに何かあったら離婚ぐらいでは済みませんことよ!』と火かき棒を振り上げて、ルードヴィヒ=ガリエル伯爵に迫ったそうだ。伯爵家の娘とはいえ、サリダは、覆面で参加した王宮騎士隊主催の武術大会では最後まで勝ち残ったことのある槍使いだ。あのたおやかなご婦人が槍や火かき棒を振り回すところなど、サクには想像できないが、クリスがフェリスに宛てた手紙の中にそう書いてあったのだ。


「……どうして笑うの?」


クスッともらした声を聞き逃さず、フェリスは尋ねた。


サクだけではなく、ラドルやハナそしてローレルにまで、フェリスはクリスからの手紙をいつも皆に読ませる。隠さず見せるということは、フェリス自身はさほど感じていないのかも知れないが、文面には溢れんばかりの思慕が見て取れる。それがどういう種類の想いなのかは、ローレルを除いて今や誰もが認めるところだ。クリスは、まさかフェリス以外の人が読んでいるなど思ってもないのだろう。そう思うと、サクはこらえきれずつい笑いをもらしてしまう。と同時に、彼のことが気の毒でならない。これからはさらに近くで暮らすことになり、今まで以上に手紙を見せられることも多いだろうが……そのうち、やんわりと『君宛ての手紙なのだから、君だけで読んであげたほうが良い』と教えてやらねば。


「なんでもないよ。クリスはよく手紙をくれるんだね」


「ええ、毎週。週に2通、送ってくれることもあるのよ。」


わたくしは、そんなにたくさんお返事を書くことができないのだけど……とフェリスは眉尻を下げた。冬でも祈祷師の仕事は忙しい。冬は雪深いため、他の季節のように一度に多くの集落を巡回することは叶わないが、遠方であれば1日かけて訪ねて行くのだ。


「それにしても週に2回って……もし僕がこれからフェリスたちのそばで暮らすってクリスが知ったら、手紙、もっと増えるかも知れないね」


「あら、どうして?」


「サクにも来てるよ、手紙!」


尋ねるフェリスの言葉にかぶさって、ラドルが一枚の封筒をサクに手渡した。クリスからだ。


「ねえ、なんて書いてあるの?金鉱のこと、書いてない?フェリスのところに来た手紙には、そのことはあんまり詳しく書いてないんだもの。」


ラブレターだからしょうがないけどねとラドルは小さく肩をすくめ、サクに早く読むように急かした。


「金鉱というのは、ラドルの愛読書の”賢者の冒険物語”に書いてあったとかで、つい先ごろ見つかったものですね。」


めずらしくハナも、クリスからの手紙に興味津々だ。フェリス宛てのものは胸焼けがするとか何とかで、テーブルに置きっ放しでも近頃は触れもしないらしい。


フェリスに無用に近づくなとでも書いているかも知れないが……二人に急かされ、その場で封を開けた。


”出所おめでとう、サク”


……嫌味な書き出しである。


内容は、体調を気遣う文から始まり、以前グスタフと名乗っていた時に身を寄せていた男爵が身分を剥奪され王都から出て行ったこと、呪詛にかけられたルッツの義父や城の兵も皆すっかり回復していること、最後にホーエンドルフに落ち着いたら返事を書くようにという簡単なものだった。


「金鉱のことは、残念ながら書いてないよ。」


「ねえサク。クリスに返事を書く時は、僕が金鉱の話を聞きたがっているってことも書いておいてね!」


ラドルは、今から待ちきれないと興奮気味につぶやき、フェリスと同じように山を仰いで琥珀色の瞳を輝かせた。


春が過ぎ夏至の祭りが開かれる初夏の頃には、グロースフェルト辺境伯の方からホーエンドルフを訪れることになっている。その間、ガリエル伯爵が妻と2人の子供を伴って城に入り、クリスの代わりを務めるらしい。そして、先ごろ新たにピエル=プリエール家当主として無事にランチェスタ聖教会によって承認され、その場でブラン城の再興を宣言したシルヴィことシルヴァン=ピエル=プリエールも、クリスのファイエルベルク来訪の頃合いを見計らって、ここを訪れたいと手紙で知らせてきている。


「詳しい話は、夏にゆっくり聞けるだろう……それ以外にも、いろいろと楽しくなりそうだね。」


サクは意味ありげな笑みをラドルとハナに向けた。


フェリスとのあらゆる距離を縮めたいであろうクリスと、”そうはさせまい”と躍起になるローレル。ランチェスタに連れて帰りたいシルヴィ。そうなれば、ローレルは『だったら俺も行く』と言いだしかねない。クリスにしてみれば、ファイエルベルクでさえ遠いと思っているのに、現時点ではまだ”敵国”の域を出ないランチェスタへ連れて行かれては、かなり辛いだろう……


「……鬱陶しいことになりそうですね。」


「想像するだけで、騒々しいよ。」


ハナとラドルが、うんざり顏で吐き出すように言ったので、サクは思わず吹いてしまった。


聞いていたのかいなかったのか、フェリスは、この冬の空と同じように晴れやかな笑顔を3人に向けた。


「さあ、おうちに帰りましょう。わたくし、ザーシャおばさんのお店にハーブティーを届ける約束をしているのよ!」


鈴を鳴らしたような声が、白く光る聖峰の先から輝く青空へと抜けるように明るく響いた。




〜Fin〜

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