異海の歌姫(3)
真っ直ぐに赤茶色の瞳を見据えた。あたしと同じ黒目だったはずなのに、今では色素が抜けてしまった赤っぽい目だ。
その中に動揺が見える。
「あの日……あたしが化石調査から帰ってきた日、何があったの? あの男の人と話してないなんて、嘘なんでしょう?」
静かに問いかけると、弟は目をそらした。
「……りー姉、怒ってる」
「怒ってないよ。ただ、知りたいだけ。クーちゃんに何があったのか、どうしてそんなにも……悲しそうなの?」
クーちゃんの眉が下がる。
大きくなったのに、変わらないな。
「あたしには話せない事なの?」
そう問うと、クーちゃんは首を横に振った。
「話さなくていいと思ってたんだ。姉さんは何も知らなくていい。知らないで、元の世界に帰って、何の遺恨も残さずに母さんと暮らして欲しかった」
「じゃあ、やっぱり」
クーちゃんは悲しそうに頷いた。
「20年前、隣国の戦争をやめさせようと尽力した先代の歌姫、イルタ・ペルホネン。〈黄昏の歌姫〉と呼ばれた女性は……たぶん、オレと姉さんの、母親だよ」
「向こうの世界で最後の日、りー姉が帰ってくるより少し先に、男の人が訪ねてきたんだ。『歌姫を探しに来た』って。あの時は、まさかそれが母さんの事だなんて思わなかった」
弟はぽつり、ぽつりと話し出した。
「おそらくだけど、姉さんの帰ってきた声を聞いて喜んでたから、結局のところ、あの人は姉さんと母さんを間違えたんじゃないかな。そのあたりはオレにもよく分かんないんだ。オレは近くにいたせいで、ついでに引っかかっちゃっただけだと思うけど」
「じゃあ、あたしたちをこの世界に連れてきたのはその人なんだね。こっちに来てから、その人とは会ってないの?」
「うん。オレもこの世界に落ちた時は、一人だった。結局あの男がオレたちをどうしたかったのか、わからずじまいなんだ。でも、もし姉さんがあの男に捕まって酷い目に遭わされてたら、って思ったら気が気じゃなかった」
昔を思い出すように、クーちゃんは静かに目を閉じた。
「でも、何もかも分からない世界で、知り合いもいなかったしさ。オレは生きるだけでも必死で、元の世界に帰る事なんて考えられなかった。でもある時、母さんの……先代歌姫の噂は聞いたんだ。その時、何となくわかった。あの男は、オレたちじゃなく母さんを迎えに来たんだろうなって」
あたしたちがここにいるのは、20年前にこの世界で歌姫と呼ばれた母さんを迎えに来た、誰かのせい。
クーちゃんはずっと、その事実を隠していたんだ。
「ルースから聞いた話を総合すると、おそらく〈遊戯人〉のボスと同一人物だと思う。何者かはわかんないけど、あの人は異海を渡って、歌姫だった母さんを探しに来たんだ」
弟は赤茶になってしまった目を伏せた。
「だから、どれだけ元の世界の手がかりが大きくても、オレ、姉さんがあの組織に関わって欲しくないんだ。危険な目には遭って欲しくない。それだけは、分かって?」
「うん、知ってるよ。クーちゃんがあたしの事を一生懸命守ろうとしてくれてるのはよく分かってる」
ほんとに分かってるの、と言いながら、クーちゃんはあたしの前髪を摘まんで、弄んだ。
「姉さん。オレ、きっともう、元の世界には戻らないよ」
うん、知ってる。
そう答えようとしたけれど、声が出なかった。
とうとう言葉にされてしまった。もう戻れない、別離があたしと弟の間には大きく横たわってしまったのだ。
「この間、りー姉が落ちてきたのは、すぐ分かったよ。オレの事、呼んでくれてたでしょ? 5年たっててもすぐに姉さんの声だって分かったんだよ?」
「逆だよ。クーちゃんが呼んでたから、あたしはここに来たんだよ」
あたしたちは、くすくすと笑いあった。
ひとしきり笑った後、クーちゃんは穏やかに笑った。
「来てくれてありがとう。姉さんが無事だって分かっただけで、オレは一人でも生きていけるよ。ルースも一緒だし、他にもたくさん、知り合いが出来たんだ。師匠もいるよ。王都にいるから、もしかしたら会わせてあげられないかもしれないけど」
あたしの知らない5年間が、どれだけ弟にとって大きなものだったのか聞かなくても分かっている。
「だからお願い、りー姉。帰るまでは一緒にいて。りー姉を傷つけるヤツから、オレが守ってあげるから」
「うん、お願いね。でも、クーちゃんも怪我しないって約束して」
「分かった」
あたしが小指を差し出すと、クーちゃんも同じように小指を差し出した。
絡めた小指は、燃えるように熱かったルースの手と正反対、とても冷たかった。
「姉さんは歌っちゃダメだよ。光素が集まっちゃうからね」
そう言って、クーちゃんは静かに歌いだす。
「〈ゆびきりげんまん うそついたらはりせんぼんのーます ゆびきった〉!」
約束を交わし、笑いあう。
「姉さん、実はね、この小指を絡めるって、こっちの世界では別の意味があるんだよ?」
「そうなの?」
意味って何、って聞いたけれど、クーちゃんは教えてくれなかった。
今度、ルースにやってみるといいよ、って。
「クーちゃん、リーダーと仲がいいよね。この世界に来てから、ずっと一緒だったの?」
「うーん、そうでもないよ。最初の一年半くらいは森にこもって、師匠とゲリラ活動してたしね」
「ゲリラ活動?!」
戦争に行ったり。国に追われたり。ゲリラ活動したり。
クーちゃんはいったい、どんな5年間を過ごしてたんだろう。
「クーちゃん、本当に大変だったんだねえ……」
「だから言ってるじゃん。もっとオレの事、頼ってよ」
「歌姫の話、黙ってたくせに」
「……りー姉のいじわる」
すねたクーちゃんの頭を撫でてあげる。
でも、いつか聞かせて欲しい。クーちゃんがこの世界で出会った人たちの事を。
しばらくして、リーダーが帰ってきた。
「話は終わったのか?」
「うん、大丈夫だよ」
リーダーは再びあたしの胸に手を当てて、治癒光術をかけ始めた。
彼の手が当てられている間だけ、すぅっと痛みが引く気がする。
息を吸うたびに痛む胸の傷。今見たら、蹄の跡のような形をしたピンク色の痣になっていた。表面的には治っていても、治り切ってはいないんだろう。
少し離れて座ったクーちゃんが、その様子を見ながらにこにこと笑った。
「そうやってるとさ、まるでルースがりー姉にセクハラしてるみたいだよねえ」
「何言ってやがんですか」
呆れた顔をしたリーダーだったが、溜息をつきながらもクーちゃんをちらりと見た。
「……落ち着いたみたいだな。3年前の二の舞になるかと思った。お前が怒ると、気が気じゃねーんですよ」
「ごめんごめん、もう平気だよ。姉さんも無事だったしね。ありがとう、ルース。ルースじゃなかったら間に合わなかったかも」
「ったく……しばらくしたらララアルノが来るから、出来ればそれまでに治したいんだよ。邪魔すんな、クォント」
やっぱり二人は仲良しだ。
きっとあたしがいなくなった後も大丈夫。
あたしは、胸の上のリーダーの手を握った。
「ねえ、リーダー」
「何だ?」
「あたしにも、光術の使い方を教えて。もしリーダーが怪我したら、今度はあたしが治してあげたい」
リーダーはちらりとクーちゃんを見た。
「うーん、治癒光術くらいならいいかなあ。戦闘に関するのは、守りの光術以外、ダメ」
どうやらクーちゃんの許可がないと、リーダーはあたしに光術を教えることもできないらしい。
クーちゃんはあたしの保護者ですか! クーちゃんの方が弟なのに!
唇を尖らせてクーちゃんを睨んだけれど、通じなかった。
「ルースとりー姉も、けっこう仲良しだよね」
にこにこと笑いながら。
「ん? ああ、別に仲が悪くはねーよ」
リーダーは当たり前のように答えたけれど、あたしはかぁっと頬が熱くなるのを感じた。
思わず、握っていた手をぱっと離した。
「一緒にいる時間が限られてるなら、楽しい方がいいもんね」
クーちゃんはそう言って笑う。
うん、そうだね。あたしもそう思うよ。
と思っていたら、部屋の扉がものすごい勢いで開いた。
「りーちゃん、大丈夫?! 怪我したって聞いてんけど」
ララさんだ。
その後ろにはミルッカさんとアイリさんもいる。さらに青年団長のスオラさんも一緒のようだ。
それだけじゃなく、走駒に参加していた自警団の人もいた。
「うるせーですよ。怪我人の前なんだから静かにしろ」
「うわあー! ルース兄さんがりーちゃんにセクハラしとるー!」
ララさんが悲鳴を上げた。
反射的に自警団の人ははっと構える。
「馬鹿か。治療中だっつの!」
さすがにリーダーも声を荒げた。
「え、そうなん? りーちゃん、ちっちゃくて可愛いし、胸大きいし、可愛いし、ルース兄さんがなんかしてきたら、すぐ言うんやで!」
「うるせーですよ、もう……」
治してくれているリーダーにこの仕打ち。
あたしは思わずくすりと笑った。
クーちゃんも楽しそうに笑っている。
うん、それだけで十分だ。
もしかしたらもうすぐあたしは弟と別れてしまうかもしれない。
優しいリーダーとも、楽しいララさんやグーリュネンの人たちとも別れるかもしれない。
でも今、楽しく笑ってるのは、事実だ。消えてしまうわけじゃない。思い出として残るのだ。
だとしたらあたしは、臆病にならず、思い出をもっと作るべきかもしれない。
せっかく、あたしの手元には〈カメラ〉があるのだ。思い出を閉じ込めるための光術製品。
いつかの別離を思うと悲しくなるけど、大丈夫。
だからこそ、思い出を残していこう。
そして、その思いを込めて〈鷲印〉の最初の製品は、一枚限りのカメラだ。
みんなとの思い出を残しておきたいと、思うたくさんの人たちのために。
第1章 異海の歌姫 はここでおしまいです。
閑話を挟んで、第二章に入ります。




