悪逆非道!!ゆえに鯨面夫婦が爆誕!!戦(いくさ)の気配が近づく
女の子が暴力を振るわれる場面が出てきます。
それを復讐する場面も出てきます。
苦手な方は、すみません。
お揃いの入れ墨を入れる夫婦の話に欠かせない挿話になります。
祭りが終わろうとしている。かがり火が小さくなってきた。女たちも酔っている。が酔いつぶれている者は少ない。互いに支え合って家路につきはじめている。男たちは夜天で寝ても平気だと言わんばかりに泥酔する者がちらほらと現れていた。
キョウたち竪穴の者たちは、祭りが始まる時に人手として加われなかった分、祭りの終わりの後片付けを手伝いはじめた。食べ残しの骨、皮、残飯を拾い、麻袋に詰めていく。こぼした酒だまりは土をかけていった。まだそこかしこに男たちが座り込んでいるので、片付けは中々進まない。管を巻いている連中に絡まれる事も多かった。
「まだ飲んでるのに、何を、片付け始めてやがる……目ざわりだぞッ」
「すみません、すみません……」
「ああ、その辺は後で良いぞ。キョウ」
「尚父さま」
「尚父さま、だって?! ああ、のきます。のきます。後片付け、ご苦労さんで……」
酔った男は「のきます」と言ったものの腰が立たない。
「おい、鼎。手を貸してくれ。そこの木の根元まで連れて行ってくれ……」
「はい」
とキョウは言ったが杖を持っているので片手しか貸せない。子どもが片手で大の大人を引っ張り上げることは叶わず、男は這うように木の根元へ行った。
「おい鼎、鼎。酒だ。最後の一杯にするから、持ってきてくれ。頼むよ、いつもはこんなに飲めねえんだ。頼む……」
「はい」
とキョウは言われた通り酒を碗に注いで男へ渡した。
「へへ、ありがてえ。……ちっ、酒かすが多いなぁ。仕方がねえ。歯で濾して飲むか」
「家の人を呼んで来ましょうか?」
キョウは酔った男がそのまま寝てしまいそうだと思って、そう声をかけた。
「いいんだよッ、うちの口うるさいババアが何て言うか、知れたもんじゃねえ。酔いが醒めたら自分で帰ってやらあ」
と男は呂律の回らない口で喧しく言った。
「ちくしょう、尚父さまがなんでえ……ペコペコして情けねえったら、ありゃしねえ。……おい、鼎、鼎ったらよ、聞いてるか?! あの尚父さまも、かみさんの祝さまにはペコペコしてるんだ。大の男がみっともねえ。男って云うのは、偉いんだ。命張ってるんだ。女の前では、胸を張ってえばってなきゃなんねえんだ。でなきゃ男の値打ちが無くなっちまう」
「はい……」
としかキョウは答えられなかった。酔人に逆らうと、とんでもない目に遭ってしまう。
「おい、良い話をしてやる。尚父さまと祝さまの馴れ初めの話だ。これがまたおっかねえ話よ」
男の話によると、この邑はできて間がない。祝が若い頃は祭祀が居らず、彼女が祭祀の代わりをつとめるように祈りや占いを邑で行っていたという。
数年経つと、泰山からやって来たという祭祀が現れ、彼が祝を娶った。余所者の祭祀では邑人も怪しむだろうし懐かないと思っての事だろう。その祭祀の男は「女が祈りを捧げ、占うと良くないことが起こる」と祝から祭祀の仕事を奪ってしまった。不漁と不猟が重なり、戦に巻き込まれて邑が踏みにじられた年の出来事だった。
祝は不満げな顔をしていたが、それでもその夫は彼女から全てを奪った訳ではなかった。怪我や病を治すこと、出産の手伝い、産後の手当てはまだ彼女の仕事であったし、それに伴う祈りや占いは隠れてしていても咎められることは無かった。また、その技を学ぼうと邑の女たちも集まって来ていた。
その祭祀の夫は、ある日突然死んだ。理由はよく分からない。祝によると朝起こしに行くと事切れていたということだった。
その話が泰山に届いたのか、またその山から祭祀が来た。彼もまた祝を娶った。二番目の夫となった祭祀は、前の夫を殺したのは祝ではないか、毒を盛ったのか呪いをかけたのかと妻に迫った。祝は毅然とした態度で違うと言った。
「女は嘘が上手い。恐ろしいことをして平然としている」
そう言って、二番目の夫となった祭祀は邑人を味方につけて(邑の女たちはいい顔をしなかったが)祝から怪我や病の治療、出産と産後の手助けの仕事を奪うように、全ての場に立ち合いはじめた。神の加護を邑人に授けているのは自分だけだと言わんばかりであった。
この頃は祝の鯨面は彫りが極く少なく、今と変わらずふくよかで、邑人たちから美しい女と見られていた。
ある日のこと、二番目の祭祀が広場で祈りを捧げている時だった。祝が猪のように真っ直ぐに夫の元へ向かい、体当たりを食らわせた。見ると祝の顔と身体は隈無く入れ墨が施され、それが間もないのか、血だらけだった。
真っ赤になった祝は祭壇をめちゃくちゃにし、自身の胸元の衣を掴んで引き裂いた。
「昏君(愚か者)!!!!」
そして体当たりを食らって腰を抜かしている二番目の夫に馬乗りになり、太い腕と大きな拳を振るい顔面を叩きつけ始めた。
「悪逆非道!! 悪逆非道……!!! ご先祖様!! 全ての神様!! この男をお許しになるのですか?! 私は絶対に、絶対に許さない!!!」
邑人たちは遂に祝が『切れた』のだと思った。二番目の夫は、彼女の頭を押さえつけるように彼女の仕事を全て否定し、奪ったのだから。
「何を……言ってるんだ、お前は……ッ!!」
二番目の夫は鼻から血を噴き出しながら言った。祝を押さえつけようにも、彼女の身体が血で滑っているために掴めない。
「あの子を手籠めにしたでしょう?!! 邑から預かっている大事な娘を!! 一番大人しくて幼い、あの子を!!!」
二番目の祭祀は、はじめこそ、しらを切ってきたが、話すたびに殴られるので遂に白状しだした。
「向こうが『うん』と言ったんだ……嘘じゃない。向こうが……」
「たとえそうだったとしても、子どもに手を出すなんて、どうかしてるよ!!!」
「お前が夜、相手をしないからだろう」
「たとえそうだったとしても、子どもに手を出すなんて、どうかしてるよ!!! あんたは頭がおかしいよ、イカれてるよ!! どれだけ血反吐を出したって、あたしは許さない」
邑の男たちは、血の雨が降るやり取りを見て『女の嫉妬は恐ろしい』と思った。だが邑の女たちは祝と同じ気持ちになった。女は男に踏みにじられたことを、たとえ昔のことであっても、今、我が事のように思える生き物である。
「女は子どもを産むのに命がけだ!!! 沢山沢山死んでいった。これからも死んでいく。どれだけ痛い思いをして子どもを産むのか、男に分かってたまるか。女は死に目に遭うくらいの痛い思いをし続けて生きなきゃならないのに、好きでもない男から股裂きになる痛みを無理やり押しつけられるなんて!!! それを、一生背負って生きなきゃならないなんて、あんまりだ。酷すぎる。これが本当の悪逆非道だよ!!! あんたは人じゃない。この場で腹を掻っ捌いて、神様に腸の色がどれだけ黒いのか見てもらう。生贄だ、人柱じゃない、獣の贄だッ」
血だらけになった祝が半狂乱になって喚き続け、石包丁を二番目の夫の腹に突き刺した。が、傷は浅く、二番目の夫は悲鳴を上げて四つん這いになって逃げて行く。
「ひいいいいいい、助けてくれえッ!!! お前たち、何を見てる、祝は悪霊に取り憑かれた。殺せ、殺せ!! 今すぐ殺してしまえ」
「あの……おらが邑の娘っ子に手を出したってえのは、ほんとですか?」
「酔った弾みだ、入り口しか入れてない。奥なんて狭くて狭くて、いくら突っ込んでも入りゃしない。これくらいでメソメソ泣いてたら、子どもを産むときは何倍も痛いって教えてやったのに、ちくしょう、あの、あまっ子め」
それを聞いた邑の女の一人は棍棒を持ってきた。
「うちの子になんてえ、ことを!!! あんた、よくも!!!!」
「………ッ、やめろ!!!!」
と女の夫は、妻を羽交い締めにして止めた。
「なんで止めるんだい?! うちの子が可哀想じゃあないってのか?!! この人でなし!」
「お前に人殺しをさせてたまるかよ。俺がぶん殴る。棍棒を貸しやがれ……ッ!!!!」
娘を手籠めにされた父親の目は血走っていた。
ぼこぼこに殴られ放逐された祝の二番目の夫は半死半生ながら辛うじて生きていたらしい。
その後、間もなく泰山から三番目の祭祀がやって来た。それが呂尚だった。
彼は先ず初めに、手籠めにされた娘の家に行き、
「この度は、わが同胞が誠に申し訳ないことをした」
と膝をつき頭を下げて詫びた。
「これは我ら一同から、お詫びの気持ちです」
そう言って、金色に輝く青銅の爵を木箱から出し、さらに練絹三反を麻布を敷いて横に積んだ。
「おっかさん、こわい」
それを見た娘は泣き出した。
「こんなことは、よく分からないんだ。祝さまのところへ行って来て!! そのお宝も祝さまに預けてきて!!」
と母親は困惑しながら叫んだ。
「これはこれは、申し訳ないことを。何ぶん突然の事で、さぞ驚かれたことでしょう」
と言って呂尚は金色の爵と練絹を、付き人に言って箱へ納めさせた。
「重ね重ね申し訳ないのですが、祝さまの家まで案内してもらえないでしょうか」
「あんた! この人を祝さまの処へ!!」
「分かったよ。そう、怒鳴るなよ」
娘の父親は、呂尚を頭のてっぺんから足の先まで、まじまじと見た。
(こりゃあ、いい男だ)
長身で偉丈夫である。鷹のような鋭い目をしており、髪は黒ぐろとして肩に下げていた。祭祀の長い衣を身にまとっている。矛を持てば、ひと睨みで逃げたくなってしまいそうだ。そんな身分の高そうな男が、邑の小娘に膝を付いて頭を下げていたなどと、他の者に言えば夢でも見ていたのかと信じてくれないだろう。
その頃、祝の住む屋敷は今ほど大きくなかった。海岸沿いの岩礁の洞穴に、隠れ住むように暮らしていた。彼女は全身の彫物を一気に施したために顔から足の先まで腫れ上がり、二目と見られない姿になっていた。
「誰にも会わないよ。体中が痛くってしようがないんだから……」
と洞窟の奥から弱々しい声が響いてくる。
「医者を呼びましょうか」
と呂尚は遠くから尋ねた。
「呪医でもなんでも良いけど、女の医者が居たら、あの女の子の身体の具合を診てやってよ。股から血が出続けてないか、心配だよ。おしっこもうんちも痛みなく出てるんだろうか。子どもができてやしないか、悪い夢を見続けてないだろうか、心配だよ、診てやっておくれよ」
祝は寝たきりの自分よりも手籠めにされた娘の身を案じて泣いた。自分がもっとしっかりしていれば、守れたかもしれない。悔やんでも悔やみきれない。その罪を刻するため全身に隈無く入れ墨を施したのだった。
(ああ、この人は)
と呂尚は、祝の身を削る優しさに心打たれた。それから彼は女の呪医を二人呼んだ。一人は手籠めにされた娘を診るために。もう一人は祝の手当てをさせるためだった。
「あたしは医者なんていらないって言っただろう。本業なんだ。自分で治せるって……」
祝はそう言って呪医を追い払おうとしたが、まだ幼さの残る舟(宗)が、
「お母さんを治してください、お願いします」
と足元にすがって泣いた。女の呪医は舟の頭を撫で、祝へ向かって静かに諭した。
「薬草は邑の女たちが摘んでくれたようですね。ですがそれを煎じて合わせることは難しいでしょう。私のほかにもう一人の女の医師が邑の娘さんを診ています。安心して手当てを受けてください」
「そうかい……そんなら、まあ……お願いしようかね」
祝は腫れ上がった顔を歪ませることも出来ず、そう言った。
呪医の腕が良かったのか祝の身体の腫れは日増しに引いていった。
「ずいぶん、無茶をなさいましたね。祝さまお一人で彫ったように見えませんが……」
と女の呪医は、薬を塗布しながら、それとなく聞いた。
「あたしの師匠がいるんだ。もうだいぶ年だと思ったけどねえ。目も達者で驚いたよ。こんなに細かく彫ってくれるなんてね……」
「その方はどちらに? 私も会いとうございます」
「この時分じゃあ海辺をうろうろしていると思うんだが、どうだかね。気まぐれな人だから」
「そうですか」
女の呪医は、祝の手当てを終えると、海の洞窟を出て、呂尚にそっと耳打ちをした。
「ほほう、師がいるとは初耳だ」
それから、一月ほど経って祝はようやく寝起き出来るようになった。そして、三月経つころには、すっかり歩けるようになり、腫れも赤みも引いて細かな鯨面が彼女の身に蛇のように巻き付いて黒ぐろと輝きだした。
邑の男たちは、以前の祝のほうが美しく、今回のことは残念でならないとため息ばかりついた。入れ墨紋様はたしかに鮮やかだが、それが全身隈無くとなれば余りに人らしくない。今となっては鯨面の土偶そのものである。
なので呂尚が三番目の夫になりたいと申し出た時は誰もが驚いた。あの全身入れ墨で真っ黒な女を! さては財産目当てか、と思う者もいた。祝の家には預かった金色の爵と練絹三反が眠っている。
一番驚いたのは祝だった。
「何の冗談だ。石包丁でぶっ刺すよ。女をからかって笑おうって云うんだろ。あんたのその年じゃ嫁も子どもも居るに決まってる」
「あいにく、妻は産後の肥立ちが悪く身罷ってしまいましてな。一男一女と二人、子が居ます。継室を探していたところで……」
「探してこんな化け物を連れて行ったら、あんたの子たちがひっくり返っちまうよ。うちの子だって、うんうん悪夢にうなされてるんだから」
「それは母さんが死にかけたからだよ」
と舟(宗)は言った。
「余計なことを言うんじゃない。早くおっ払っとくれ。継父にいじめられる子どもは沢山居るんだ」
舟は渋々、箒を持って呂尚へ向かって行った。
「お母さんが困ってるから、帰ってください」
「いい顔だ。お前の父は、さぞいい男だったんだろう。ところでちょいと相談がある。ここではなんだから海でも見て話そうじゃないか」
「ちょっと、舟を何処に連れて行く気?」
「あなたの好物を教えてもらいますよ。聞いたら、直ぐに送り届けます」
そう言って呂尚は舟を連れて海辺へやって来た。
「急にこんなこと聞いて申し訳ないが、こんな父親が出来たら、君は困るかな」
困らない、と舟は思ったが母親の味方なので黙っていた。この時代、父親が居ないと肩身が狭く、世間上、息をするので精いっぱいである。家も建てられず商売もできず兵役にもつけなかった。一人前の男と見なされないのである。無論、妻を娶ろうにも婚家から許されなかった。
呂尚は質問を変えた。
「一番目の親父と、二番目の親父と、俺じゃあ、どれが一番ましだ?」
舟は恐る恐る、呂尚へ向けてそっと指を差した。直ぐに手を下げると俯く。
「弟や妹ができたら嬉しいか?」
嬉しい、と舟は思ったが母親の味方なので黙っていた。呂尚は腰を下ろして、じっと舟の目を見た。祝に似て光ある良い目だと彼は思う。
「実はな、心底惚れちまったんだ、お前の母さんに。どうしたら、嫁になってくれるか教えてくれ。好きなものは何だ?」
「…………、母さんは、何でも好きだよ」
食べ物の好き嫌いは無いと舟は言いたかった。
「母さんは、びっくりするのが苦手なんだ」
と舟は続けて言った。
「この前、僕が母さんの持ってる玉が欲しいって言ったら『子どもの持つもんじゃない、駄目だ』って言われたんだ。海に潜って大きな貝を拾ったら一人前だって認めてくれるかも、って思って、それで海に長いこと潜ったけど大きな貝は見つからなかった。家に帰ったら母さんが泣いてて『良かった帰ってきて! 溺れて死んだのかと思ったよ』って。それで僕に玉をくれたんだ。『二度と海に長く潜らないでおくれよ』って」
「ははあ、つまりお前の母さんは大事な人の『命がけ』に弱いんだな。これは俺がしても駄目だなぁ。しかし良い話を聞いたぞ。ありがとう。助かった」
「僕、母さんを脅したみたいって思ったから玉は返したよ」
「偉いなあ。今どき感心な子だ。流石だな」
呂尚は流石、祝の子だと思った。義の血である。彼は舟を岩礁の洞穴にある祝の家まで送り届けて泰山へと帰って行った。
それから程なくして、祝の師である老婆が暇乞いに来た。
「旅に出る。探すんじゃあないよ」
祝は急だと思ったが、年も年なので死期を悟ったのかと思った。
三月後、呂尚が、再び祝の海の洞窟の家を訪れた。
「ぎゃああああああああ」
祝は腰を抜かした。呂尚が自分と同じ鯨面文身になっていたからである。
「これで私が本気だと分かってくれましたか?」
「夢……夢……、これは悪い夢だよお…………」
卒倒する勢いである。
「いやはや、それにしても一気に彫るとは、相当な痛みでした。子どもが心配して……」
「するに決まってんだろお!!」
「父上がどっか行っちゃったと泣いて泣いて」
「泣くに決まってんだろお!!」
「前の父上が良い、前の父上を返してと殴られました」
「殴られて当然だ!!! 一体いくつなんだよ、その子たちは!!」
「八つと三つです」
「ぎいいい、父親を殺したも同然だ!!!」
「という訳で私にはもう後がありません。どうぞ婿にしてください」
「脅迫……ッ、脅迫だよ!! どこの世に全身入れ墨彫って子ども泣かして女男の契りを請う奴が居るんだよ」
「居ます、ここに」
「あああああ、狂人だ、狂人だよ!! 嫌だよ、こんな奴と……こんな奴と……」
「母さん」
と舟が発狂しそうな母親の衣の裾を掴んだ。
「ごめんなさい。僕が変なこと教えちゃった……」
「ひぃ……、舟!! あんたが吹き込んだのかい?!」
「うん、母さんはびっくりするのが苦手だって教えちゃった」
「うううう……ってえことは、あんた父親が欲しかったんだね。こんな奴で良いのかい?」
「いいよ。母さんのこと心底惚れちゃったって言ってたし」
「な、な、な、んてこと子どもに………」
祝は真っ赤になったが鯨面でそれは殆ど分からなかった。
祝は気狂いの男と共に住むのが嫌でたまらなかった。
「生まれた時からここで暮らしている舟は兎も角、あんたの子どもが此処にきたら、ひっくり返っちまう。邑で一番大きな、邑長の家よりでかい屋敷を建てとくれ」
と彼女は無理難題をふっかけた。ところが呂尚はそれだけの財力があったらしく、工人を連れてきて、あれよあれよと言う間に、邑で一番大きな家屋を建てた。邑の東側、海に近い草原地を刈り取って。
「あんたの子たちはこんな顔の黒い母親は嫌だと言うだろうね。何と言う気なんだい。帰りたいと言うに決まってる」
と祝は言った。
「それは子どもたちによく聞かせています。この父と同じ彫り物をした女がお前たちの母になると」
「怪しいもんだ」
彼女の言った通り、呂尚の幼い子たちは祝の顔を見るなり、
「真っ黒だあ!」
と泣き出した。それを見て舟も貰い泣きしてしまい、子連れ同士の両家の顔合わせの場は騒然となった。
「何が『よく聞かせています』だ。諭したら、頷くしか知らない年頃の子だろう」
「ははは、来は懐きやすい男の子だ。馬鹿だから直ぐ『母さん母さん』と言ってくるだろう。玉は女の子だが、まだ生まれて二年だ。物心つく前で良かった良かった」
「ちょっと待ちなよ、すると前の奥さんが亡くなってまだ二年くらいしか経ってないってことかい?」
「ああ、言われてみれば、そうなりますな」
祝は嫌な顔を隠さずに、不信の目を呂尚へ向けた。
「妻が生きていたとしても、あなたに求婚したと思います」
「女にとっちゃいい迷惑だよ。あたしが、あんたとは別に夫を持っても良いって言うのかい」
「遥か西にはそういう氏族もいると聞きます。あなたが幸せなら耐えましょう」
呂尚は眉間に皺を寄せながら言ったが、祝は口なら何とでも言えると思った。
「亡くなった妻から言わせると私は人より惚れっぽい質だそうです」
「そうだろうね」
「母の故郷で妻に一目惚れしてしまい、父から勘当されました。血の気の多い義兄達からもさんざん殴られましたよ」
ははは、と呂尚は笑う。この人は体当たりしながら生きてきたのかと祝は思った。
キョウが酔った男から聞いた話からでは勿論、呂尚と祝の内実までは分からない。幼い彼が知ったのは、呂尚が鯨面文身を施したのは風習からではなく、祝を妻とするために『お揃い』の入れ墨を彼女に合わせて一気に彫った、ということだった。
(誰にもできることじゃない)
とキョウは思った。祝を娶るために、全身の入れ墨の痛みに耐えたのだ。また祝も、守れなかった娘への悔恨を記すために全身の痛みに耐えた。この女男の底しれない覚悟は生まれついたものなのだろうか。キョウは漠然としながらも二人に畏敬の念をますます深めたのだった。
冬にさしかかると農閑期に入る。海も荒れがちになり漁へ行く事も減ってしまった。
やがて雪がちらついて来た。キョウの暮らす邑は根深雪が降るほどでは無いが、ほんの少し東へ足を伸ばすと山がちになり豪雪地帯となる。そのため、年によっては、その隣の地のあおりを受けて大雪に見舞われる事もあった。今年の冬空は穏やかである。
澄んだ蒼天のうちを渡り鳥が飛んでいく。その下を一人の男が雪を踏みしめながらやって来た。彼は右手が無く、竪穴の暮らしに静かに入っていった。
頭の剥げかかった中年の男は、右手が無い事を苦にしている様子を見せなかった。皆が冬ごもりの中で草鞋を編んだり、枯れ草を編んで茣蓙を作ったりしているが、それに加わらず横になって平然としている。鼻くそを飛ばしていた。
キョウは昼間、竪穴に来て、目の見えない小男・白に屋敷の話を聞かせることもあった。寡黙な少年だが、盲の白と何かしらの繋がりを得たいと思えば、言葉を声にして語るしかない。
あくる日、珍しい事に右手の無い男がキョウに話しかけてきた。
「お前さん、尚父さまのお気に入りなんだって? わしの名は勝。勝つという意味だ。今はこんな成りだが、戦で飯を食っていた。敵側に潜り込んで図を描いてたんだ。この邑は小さいが、その内、戦に巻き込まれるぞ。わしを雇ってくれたら邑の守りは万全だ。尚父さまにそう伝えてくれ」
キョウは一気に色々と話し込まれたので、ぽかんとなってしまった。
「勝さん、この子はまだ幼いんだ。いくら尚父さまのお気に入りだと言っても、取り立ての仲介役は荷が重たすぎる」
と目の見えぬ小男・白は口を挟んだ。
「そうか……、でも今のうちに守りを固めておいた方がいいぜ。ここは王様の治める地だが飛び地だ。ここから南にある人方が住む所ではあちこちで戦が始まっていて、でかい大戦が、今にもおっぱじまりそうだったぞ」
「そうですか……。勝さんは右手が無いと聞きましたが、その理由を聞いても宜しいですか」
こういう時、目の見えぬほうが堂々と聞けるものである。
「ああ、これは、しくっちまったんだ。負け戦の見せしめだよ。連戦連敗だ、ちくしょう」
勝はそこまで言って口を滑らしたと後悔した。負け戦ばかり続いたと云うのは自らの力不足を如実に示したようなものだ。これだから右手を失ったのだと唇を噛みしめた。
「あの……、俺、尚父さまに言ってみます」
そうキョウが呟くと竪穴が一挙に静かになった。この邑は戦に巻き込まれた事がある。戦火を防がなければ、生きるすべがない。キョウは幼く、そこまで頭が回らなかったが、戦で邑が無くなるかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなくなってきた。彼は家族と故郷を一度失っている。
キョウは屋敷に帰ると家宰の手伝いをしている小令に祝と話したい事があると伝えた。
「お家さまは忙しいんだ。用事なら俺が聞いて伝えておく」
小令は、家の主人が目をかけている奴僕になりたてのキョウを面白く思っていなかった。
「竪穴に新しく来た人が南の方で戦が始まってるって言ってるんです。ここも危ないって……」
新入りの話が思いがけなく深刻なので小令は腰を抜かしそうになり、
「お家さまは室に居る。粗相のないようにな」
と言うと逃げて行ってしまった。
キョウは主とその妻の住む奥の間に入ったことは無い。屋敷は部屋と部屋の間に扉がなく、丈の長い暖簾がかかっていた。
「突然、すみません。キョウです。お話があって来ました」
震える手で杖を持って立っていると、後から
「キョウ、珍しい所に居るじゃないか」
と祝から声がかかった。倉番が何の用だと思ったのだろう。
「あの……」
祝の後に付き人が居る。話しても大丈夫だろうかとキョウは思った。
「人払いかい? いっちょ前だねえ。あんた達、私は室で休むから、もう行っていいよ」
と祝は付き人を解き放った。そしてキョウを奥の間の入り口に立たせて、
「中で話したほうがいいかい?」
と言った。
「いえ、人が居ないのなら、ここで話します」
キョウは元々小声である。
「さっき、竪穴で新しい人と会いました。その人がいうには、南の方で戦が始まっているって言うんです。ここも危ないって……」
「なんだって?!!」
祝は自分の声の大きさにびっくりして、自分の口を両手で塞いだ。バタバタとキョウを置いて駆けていく。夫に言いに行くのだろう。
それからほどなくして、呂尚がやって来た。祝とは真逆で落ち着き払っている。
「その人と話がしたい。案内してくれるか」
とキョウに言った。呂尚は静かな笑みをたたえているが、いつもの眩しいほどの明るさがない。少年は幼心に胸がざわめいた。
呂尚が右手の無い勝と話をしたのは、ほんの僅かだった。
「明日、一緒に邑を出て、外から眺めてみませんか」
と語りかけた。突然、屋敷の主が竪穴に入ってきたので、勝は、ただ目を丸くし頷くだけしか出来なかった。
翌朝、呂尚は馬車に乗って勝を迎えに来た。二頭立てで、足場が狭い。底が浅く蓋のない箱状の足場である。立って乗り込むだけの二人乗りだ。呂尚の付き人は走って付いてくるらしい。
邑を背にして南西に目を向ければ泰山とそれに連なる山々が冠雪している姿が遠くに見える。行く先は雪が僅かに積もった平原が広がっており、見晴らしは、寒風の吹く中だが空が澄んでいて、すこぶる良かった。馬車は付き人を置いて行けないので駆けず、ポクポクと雪原を進んでいく。馬に近寄ったことが無かった勝は小さな嘶き声で、びくりとしてしまった。
「勝殿は山を越えて我が邑まで来た」
と呂尚は、邑が遠目に見える所で馬車を一旦止め、隣に居る勝に話しかけた。馬車を走らせながら話そうとすると揺れがひどいので舌を噛みそうになるからである。
「ええ、そうです」
「山を背にして邑を見た時、戦で『落ちやすい』邑と思いましたか?」
「いや、それは……、その」
勝は口をもごつかせる。
「思ったまま言ってくだされば良いのです」
「環濠もなけりゃ、塀もない……、余程、平和な邑だと思いました」
「塀は、私が邑に来る前に戦に巻き込まれて壊されたと聞きました。そんなに高い塀ではなかったそうですが。環濠は満潮になると海水が入ってきて自然と崩れてしまいました」
「そうですか。そりゃ失礼を……」
「祭祀の私が、もっと早く取り掛からなければならなかったのです。面目ない」
と呂尚は、勝に頭を下げたと思えるほど俯き目を細めた。
「呂尚さま、どうか」
顔を上げてほしいと勝は思った。すると願いが通じたように呂尚は面を上げ、南西にそびえる泰山を見つめた。
「斉は王領なので戦の話は、王から斉の政を任された小臣からその使いが来ると思っておりました。小臣は斉のあちこちに住んでいますが、泰山にも居を構えている小臣がいます。南の戦の話が、泰山から邑へ赴いた私の元に届いていないのは、どういう理由なんでしょうか……、ひょっとして忘れられたんでしょうかねえ。ハハハ」
と呂尚は憂いを散らすように笑った。そして、勝に向かって、
「戦とは、事前に相手から『神の意に従って今からお前たちを撃つ』と使いの者が来るものではないんですね?」
と言った。勝は戸惑ったように、
「そりゃあ、ちゃんと言ってくる相手も居ますが、不意打ちに撃って出る連中も居ますよ。なんせ夷の民ですからね」
そう呂尚に教えた。
「私は泰山で修行をしていたので、どうも世間に疎いようです。どうぞ、これからも無知な私に御教示ください」
年長の祭祀から頭を下げられた勝は慌てた。
「こりゃあ参ったなあ。俺は戦で食っていましたが、相手の人数やら敵情を見に行くだけで、しかもこの通り、」
と勝は、無くなった右手を上げた。
「何度も負け戦が込んで、見せしめに、こんな身体になっちまいました」
勝はまた口を滑らせてしまったと思ったが、今度は胸がすく思いがした。呂尚を前にすると、どうも人柄に打たれて、腹の内を明かしたくなってしまう。
「それでも幾度となく戦を間近で見てきたというのは、かけがえのない知恵を積んでいるでしょう。どうですか、私たちの邑は、あなたがしていたような、敵情を隠れて見に来やすい地勢になってますか」
「雪があるので余所者が近づいたら分かりやすいとは思いますが、野原に潜んで近づけば邑の様子は容易く知れると思います。それでも長居はしないでしょうな。環濠も塀も無い小さな邑は、攻めやすい。半日以内に、行軍のついでに落とせると、上の者に伝えるでしょう」
「そうですか……」
と呂尚は気落ちして深々と溜め息をついた。馬の嘶き声が響く。いつまでじっとしているのかと言っているようだ。
「勝殿。私は邑へ帰って直ぐに薄姑へ発とうと思います。姜族の先妻の兄たちが住んでいて、雨や陽にとっては伯父にあたる人です。彼らの力を借りて邑を守ってもらえないか、頼みに行こうと思います」
一番書きたかった場面は、お揃いの鯨面をどうして、この夫婦は入れているのか、その経緯を描く事でした。
お話のストックはこれで無くなったので、次回更新まで、しばらく間が空くと思います。




