芽吹く芯(しん)
月曜日の朝。みなとみらいのオフィスは、冷房の乾燥した空気と、締め切りに追われる焦燥感で満ちていた。
紗和がデスクに座ると、隣のチームから飛んでくる視線に、以前のような「憧れ」は混ざっていなかった。そこにあるのは、異質なものを見るような戸惑いと、規律を乱す者への微かな反発だ。
「……佐伯、ちょっと来い」
背後から、低く、押し殺したような声がした。神崎部長だった。彼の手に握られた資料は、指の形に白く歪んでいる。
紗和は静かに立ち上がり、部長室へと向かった。その背中を、加奈と井上が、まるで処刑台へ向かう人を見送るような、悲痛な眼差しで追っていた。
重いドアが閉まった瞬間、神崎の怒鳴り声が防音壁を越えて漏れ出した。
「いい加減にしろ、佐伯! お前が始めた『効率化』だの『本質』だのというごっこ遊びのせいで、周囲の不満が爆発しているんだぞ。定時で帰る? 打ち合わせを削る? そんなことが通用するほど、この業界は甘くない!」
神崎はデスクを拳で叩いた。
「次の査定、お前がどうなるか分かっているのか。リーダーの座はもちろん、ボーナスだって保証できない。出世街道から外れるということは、この会社での死を意味するんだ。分かっているのか!」
神崎の怒りは、ある種の「恐怖」の裏返しだった。自分たちが正しいと信じてきた「自己犠牲」という宗教が、紗和という一人の女性によって否定されることへの恐怖。
対する紗和は、神崎の充血した目を見つめながら、驚くほど冷静に自分を観察していた。
(ああ……今の私には、この怒号が遠い海の波音のように聞こえる)
彼女の脳裏には、瀬戸内の夜に見た「咲き乱れる星空」があった。源三から貰ったレモンの、あの鮮烈な香りが、鼻腔の奥に微かに残っている。
自分の価値を、他人の評価という物差しで測ることは、もうやめたのだ。
「部長。私は、死ぬために働いているのではありません。……深く呼吸をして、一人の人間として、誠実な言葉を世界に届けるためにここにいます。査定が下がっても、出世が遅れても構いません。それが、私の『凪』を保つための代償なら、喜んで支払います」
「……何だと?」
「結果は、もうすぐ出ます。明日、久遠のプロモーションが動き出します。それを見てから、もう一度お話しさせてください」
紗和が部長室を出ると、フロアは静まり返っていた。
デスクに戻ると、加奈と井上が真っ青な顔で立ち尽くしていた。二人の指先は、カタカタと小さく震えている。
「佐伯さん……大丈夫なんですか? 部長、すっごく怒ってて……。私たち、やっぱり間違ってるんじゃ……。もし、私たちの評価まで下がって、居場所がなくなったら……」
加奈の瞳には、涙が溜まっていた。彼女にとって、この会社は人生のすべてだった。そこでの否定は、自分の存在そのものの否定に等しい。井上も、力なく視線を落としている。
紗和は、二人の冷えた手の上に、自分の手を重ねた。
彼女の肌は、驚くほど温かかった。
「大丈夫よ。二人とも、顔を上げて」
紗和の声は、柔らかく、けれど揺るぎない芯が通っていた。
それは、嵐の中で地面に深く根を張った若木の、しなやかな強さだった。
「責任は、すべて私が取るわ。あなたたちの居場所は、私が全力で守る。……でもね、覚えておいて。本当の居場所っていうのは、誰かに与えられるものじゃないの。自分が自分に嘘をつかずに、納得できる仕事をした場所。そこが、あなたたちの本当の居場所になるのよ」
「でも……怖いんです」
「ええ、怖いわよね。私も怖かった。でも、怖さの先にある『自分の呼吸』を知ってしまったら、もう元には戻れないの。……見て、私たちが作ったあのアートワークを。あれには、私たちの命の欠片が入っている。それが、世界を動かさないはずがないわ」
紗和の瞳の奥に宿る、静かな熱。
それを見た加奈と井上は、毒気が抜かれたように大きく息を吐いた。
これまでの紗和は、完璧な「上司」として、彼らを導こうとしていた。けれど今の彼女は、一人の「人間」として、彼らと共に立とうとしていた。その変化が、二人の不安な心に、新しい勇気の種を蒔いていった。
「……分かりました。佐伯さんがそこまで言うなら、僕、最後までついていきます」
井上が、曲がったネクタイを締め直した。
「私も……もう少し、自分を信じてみます」
加奈も、涙を拭ってパソコンの画面に向き合った。
明日は、運命のリリース日。
紗和は、バッグの底にあるレモンの欠片をそっと握りしめた。
三十五歳。
組織という重力に抗い、自分だけの空へと向かって芽を出したばかりの、小さな、けれど強靭な「芯」。
それが、明日、どんな花を咲かせるのか。
夕闇に包まれる横浜の街で、紗和の心は、かつてないほどの静寂と、確かな期待に満ち溢れていた。




