潮目の変化
月曜日の朝、オフィスに足を踏み入れた瞬間、紗和は空気の密度の変化を敏感に感じ取った。
それは、みなとみらいの海から吹く爽やかな風ではなく、冷房の効きすぎた会議室のような、乾燥して刺すような冷たさだった。
「佐伯さん、おはようございます……」
井上が声をかけてきたが、その目は泳ぎ、どこか怯えたような色を浮かべている。デスクに着くと、隣のチームのリーダーである高城が、こちらを一瞥もせずに激しくキーボードを叩いていた。かつては情報交換をし、愚痴を言い合っていた「戦友」の一人だ。
紗和の成功は、劇的すぎた。
一週間の休暇を取り、戻ってきた途端に難攻不落のクライアントを「正攻法ではない言葉」で説得した。そして定時になれば、涼しい顔をしてオフィスを去っていく。その姿は、深夜まで残業し、疲弊しきった顔で「これがプロだ」と自分に言い聞かせている周囲の人間にとって、救いではなく、自分たちの生き方を否定されるような「毒」に映っていた。
「佐伯さん、ちょっといいかな」
昼時、給湯室で一緒になったのは、同期の松田だった。彼女もまた、家庭を犠牲にしてキャリアを積んできた自負がある女性だ。
松田はコーヒーをカップに注ぎながら、鏡のようなステンレスの壁越しに紗和を見た。
「最近のあなた、随分と余裕ね。大河内社長を落としたって聞いて、みんな驚いてるわよ。……でもね、一部では『自分だけ綺麗に逃げ切ろうとしている』って声も上がってるの、知ってる?」
「逃げ切る……?」
「そうよ。私たちが泥臭く数字を追いかけている間に、あなたは『心の呼吸』なんてポエムで仕事を獲って、定時で帰る。それがどれだけ周りの士気を下げているか、考えたことある? あなたの代わりに入稿作業を押し付けられている若手たちの不満、耳に入ってないの?」
松田の言葉は、鋭い針のように紗和の胸を刺した。
井上が疲弊していた理由が、ようやく分かった。神崎部長は紗和の成果を認めたが、その裏で、彼女が引いた「境界線」によって生じた歪みを、他の誰かが埋めるような体制のままにしていたのだ。
「松田さん。私は、誰かに仕事を押し付けるつもりはないわ。効率を上げて、本質的な価値に集中すれば、みんなもっと……」
「そんなの、理想論よ」
松田は冷たく言い放ち、カップを持って給湯室を出て行った。
その日の午後、さらに決定的な衝突が起こった。
ジュエリープロジェクトの進行管理会議。メンバーの一人である女性後輩の加奈が、準備していた資料をテーブルに叩きつけるように置いた。
「佐伯さん、私、もうついていけません」
会議室の全員が息を呑んだ。加奈は、かつての紗和にそっくりな、責任感が強く、完璧主義な二十代後半の女性だ。
「佐伯さんが『自分の呼吸を大切に』と言い始めてから、プロジェクトの確認作業が滞っています。以前の佐伯さんなら、夜中でもチャットで即レスをくれたのに、今は『明日でいい』。……でも、現場は動いているんです。クライアントが明日と言えば、私たちは今日中にやらなきゃいけない。佐伯さんが定時で帰るたびに、私たちは取り残された気分になるんです。……自分だけ幸せになるのは勝手ですが、私たちを巻き込まないでください!」
妬み、嫉妬、そして置き去りにされる恐怖。
加奈の瞳から溢れた涙は、紗和が島で流したあの浄化の涙とは違う、どろどろとした「日常の恨み」が混ざっていた。
紗和は言葉を失った。
自分が手にした「凪」は、周囲の「嵐」を鎮めるどころか、その激しさを強調する結果になっていた。自分が変われば世界が変わると思っていた。けれど、組織という巨大な生き物は、一人の変化を拒絶し、元の形に戻そうとする強い復元力を持っていた。
(私は、間違っていたの……?)
砂の味が、再び口の中に広がるような感覚。
「何がしたくて、どこに行けば良いのだろう」
あの問いが、今度は皮肉な響きを持って蘇る。
その夜、紗和は一人でオフィスに残り、真っ暗な窓の外を眺めていた。
定時で帰るのをやめたのではない。加奈や井上が抱えている「重荷」の正体を、自分の目で確かめたかったのだ。
深夜十時。
まだ明かりのついているフロア。疲弊した部下たちの横顔。
紗和はバッグの中から、源三から貰った最後の一つのレモンを取り出した。
彼女はゆっくりと立ち上がり、加奈のデスクへと歩み寄った。
「加奈さん」
加奈はビクリとして顔を上げた。その目は充血し、絶望的な疲労が張り付いている。
「……説教なら、明日聞きます」
「いいえ。……これ、切って食べない? 少し酸っぱいけど、目が覚めるわよ」
紗和は給湯室から持ってきたナイフで、レモンを鮮やかに切り分けた。
オフィスに、あの鮮烈な、島の香りが広がった。
「……いい香り」
加奈が、不意に声を漏らした。
「私ね、島でこのレモンを摘んだ時に気づいたの。傷があるからこそ香りが強くなるし、潮風に吹かれるからこそ甘くなるんだって。……加奈さん、あなたが怒っているのは、あなたが一生懸命だから。それは、かつての私と同じ。でもね、一生懸命であることと、自分を壊すことは別なのよ」
紗和は加奈の隣に座り、彼女の手元にある膨大なタスクリストを指さした。
「この作業の半分は、誰の幸せにも繋がらない『不安のための確認』よ。明日、私が部長と交渉して、このフローを全部見直す。加奈さんが夜中に泣かなくていいように、私が盾になる。……私が定時で帰るのは、逃げるためじゃない。リーダーである私が『定時で帰っても成果が出せる』ことを証明しない限り、あなたたちの夜は永遠に明けないから」
加奈は、レモンの欠片を手に取り、恐る恐る口に運んだ。
強烈な酸味が彼女を襲い、その直後、閉ざされていた肺が大きく開くような感覚が訪れた。
「……佐伯さん」
「嫌われてもいい。妬まれてもいい。でも、私はあなたたちを置き去りにはしないわ。……一緒に、この会社の『呼吸』を変えましょう」
翌朝、紗和は神崎部長の部屋のドアを叩いた。
それは、媚びるためでも、単なる報告のためでもない。組織というシステムの「リノベーション」を要求するための、交渉だった。
確執はすぐには消えない。妬みの視線も、しばらくは続くだろう。
けれど、紗和の心には、もう迷いはなかった。
凪とは、風がないことではない。
どんな荒波の中でも、自分の中心にある静かな海を保ち続けることなのだ。
三十五歳。
彼女が乗り越えるべき本当の壁は、自分自身の変化を、周囲の「光」へと変えていくための、粘り強い対話の中にあった。
オフィスの窓から見える横浜の海は、今日も複雑な潮目を描いている。
けれど、その上を渡る紗和の呼吸は、どこまでも深く、澄み切っていた。




