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凪(なぎ)の呼吸  作者: 久遠 睦


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16/40

静かな反乱

火曜日の朝。横浜の空は、抜けるような青空だった。

 紗和はいつもより三十分早く目を覚ました。スマートフォンのアラームが鳴る前に、身体が自然と光を感じ取ったのだ。

 キッチンに立ち、源三から貰ったレモンを薄くスライスする。沸かしたての白湯にそれを落とすと、一瞬にして部屋の中に瀬戸内の風が吹き抜けたような気がした。

 一口、その熱い液体を喉に流し込む。

 強烈な酸味と、皮の奥にある微かな苦味。それが彼女の五感を、都会の微睡まどろみから鮮やかに呼び覚ます。

 

 クローゼットを開け、彼女は数枚並んだネイビーのジャケットの中から、一番柔らかい素材の一着を選んだ。インナーには、かっちりとしたシャツではなく、肌触りの良いシルクのカットソーを合わせる。

 鏡の中の自分は、相変わらず「デキる女」の装いをしている。けれど、その内側にある心臓の鼓動は、以前のように締め付けられるような速さではなく、寄せては返す波のように一定のリズムを刻んでいた。

 「よし」

 

 彼女は自分に短く声をかけ、馬車道のマンションを出た。

 みなとみらい線の改札を抜け、オフィスビルへと続く長いエスカレーターを上がる。周囲には、戦闘モードに入ったビジネスパーソンたちが、険しい表情でスマートフォンの画面を凝視しながら歩いている。

 かつての彼女も、その「流れ」の一部だった。メールを一通でも早く返し、一分でも早くデスクに着くことが、有能さの証明だと信じていた。

 

 けれど今の彼女は、あえてゆっくりと歩いた。

 ビルの吹き抜けから差し込む光の角度、ロビーに飾られた季節外れの生け花、そして、すれ違う人々の微かな香水の匂い。それらの一つひとつを、丁寧に掬い上げるようにして。

 オフィスに入ると、独特の喧騒が彼女を包んだ。電話の呼び出し音、キーボードを叩く音、誰かの苛立ったような話し声。

 

「佐伯さん! お疲れ様です! 待ってました!」

 

 デスクに着く間もなく、井上が駆け寄ってきた。その目は充血し、ネクタイは少し曲がっている。彼が抱えているファイルは、数日間の彼女の不在を物語るように膨れ上がっていた。

 

「これ、ジュエリープロジェクトの追加修正案です。クライアントが、やっぱりメインビジュアルをもっと『インパクト重視』に変えたいって言ってきて……。それから、こっちは飲料メーカーのコンペ資料、明日が締め切りなんです。あと、それと――」

 

 井上の言葉は、溢れ出したダムの水のように止まらない。

 以前の紗和なら、「わかった、すぐやるわ。井上君、この部分は私が引き取るから、あなたはこっちを……」と、即座にタスクを仕分け、自分を削ってでも穴を埋めていただろう。

 

 けれど、今の紗和は、焦る井上の目を真っ直ぐに見つめ、静かに片手を挙げた。

 

「井上君。まずは、深呼吸して」

 

「え……?」

 

「あなたの肩、すごく上がってるわよ。そんな状態じゃ、いいアイデアも逃げていっちゃう。……とりあえず、その資料はここに置いて。まずは温かいお茶でも飲んでから、優先順位を一緒に整理しましょう」

 

 井上は、狐につままれたような顔で立ち尽くした。

 紗和はゆっくりと椅子に座り、自分のデスクを眺めた。そこには、彼女がいない間も着実に「仕事」という名の波が押し寄せていた形跡がある。けれど、彼女はその波に飲み込まれるつもりはなかった。

 午前十一時。ジュエリープロジェクトの定例会議。

 会議室に入ると、部長がすでに苛立った様子でペンを回していた。

 

「佐伯、一週間の休暇はリフレッシュになったか? お前のいない間、現場は火の車だったぞ。特にこのビジュアル修正、クライアントが『もっと強気な女性』を前面に出せと言ってきている。今の案じゃ大人しすぎるそうだ」

 

 モニターには、紗和が旅に出る前に承認した、静かで品格のあるビジュアルが映し出されていた。それに対してクライアントが求めているのは、派手なメイクで都会を闊歩する、いかにも「記号化された成功者」のイメージだった。

 

 以前の紗和なら、「クライアントの意向ですから」と、自分の違和感を押し殺して修正を指示していただろう。

 

 けれど、今の彼女の口から出たのは、全く別の言葉だった。

 

「部長。その『強気な女性』というイメージは、本当の意味で自立した女性の心に響くのでしょうか」

 

 会議室の空気が、一瞬にして冷え切った。

 

「何が言いたい、佐伯」

 

「私はこの一週間、島で多くのものを見てきました。本当の強さとは、誰かを圧倒することではなく、自分の弱さや綻びを受け入れ、それでもなお、自分の足で立とうとすることの中にあります。このブランドがターゲットにしているのは、都会の喧騒の中で少しだけ疲れている、けれど前を向こうとしている三十代の女性たちです。彼女たちが求めているのは、虚勢を張るための鎧ではなく、ふとした瞬間に自分に還ることができる、お守りのような輝きではないでしょうか」

 

 紗和の声は低かったが、驚くほどよく通った。

 そこには、かつての「論理的な武装」ではない、彼女自身の体験から紡ぎ出された、体温のある言葉が宿っていた。

 

「……ポエムはいいんだよ。クライアントが首を縦に振らなければ、ビジネスは成立しない。お前の仕事は、彼らを納得させることだろう?」

 

「はい。ですから、この案のままで説得します。なぜこの静かなビジュアルが、彼女たちの『深い呼吸』に繋がるのか。数字やインパクトだけでは測れない、価値の届け方を、私は提案したいんです」

 

 部長は呆れたように鼻で笑ったが、紗和の瞳にある「凪」のような決意を見て、それ以上は何も言えなかった。

 午後六時。

 オフィスには、まだ帰宅しようとする気配はほとんどない。誰もが当然のように残業を前提として、次のタスクに取り掛かっている。

 かつての紗和は、最後まで残っていることが「責任感」の証だと思っていた。

 

 けれど今の彼女は、定刻になると静かにバッグを手に取り、立ち上がった。

 

「佐伯さん、あ、あの……明日のコンペの件、まだ少し詰めたいところが……」

 井上が、おずおずと声をかける。

 

「井上君。今日の作業はここまで。これ以上続けても、思考が濁るだけよ。……明日の朝、クリアな頭でもう一度見直しましょう。私もそうするわ」

 

「でも、部長が……」

 

「責任は私が取るわ。大丈夫。……お疲れ様」

 

 彼女は、驚愕の視線を背中に浴びながら、オフィスを後にした。

 

 ビルの外に出ると、横浜の海風が彼女の頬を撫でた。

 夜景は今日も美しい。けれど、その光はもう、彼女を焦らせることはなかった。

 

 彼女は馬車道の静かな通りを歩きながら、自分の中に引いた「境界線」の感触を確かめていた。

 仕事は、人生の一部。けれど、私のすべてではない。

 誰かの期待に応える自分も、仕事で成果を出す自分も大切だけれど、それ以上に、夜の風を感じ、レモンの香りに癒やされ、自分の呼吸を慈しむ「私」を、一番に守らなければならない。

 

 それは、周囲から見れば「やる気を失った」ように見えるかもしれない。

 あるいは「わがままになった」と思われるかもしれない。

 

 けれど、紗和にとっては、これこそが自分を、そして自分の仕事をリノベーションするための、最も誠実な戦いだった。

 

 マンションの部屋に戻ると、彼女は窓を開け、遠い瀬戸内の海に思いを馳せた。

 源三の言葉、凛のシャッター音、レモン園の女性の笑い声。

 それらが、今の彼女を支える、目に見えない根っこになっていた。

 

 三十五歳。

 「静かな反乱」は、まだ始まったばかりだ。

 

 彼女は再びレモンを一つ手に取った。

 明日もまた、同じ毎日が始まる。

 けれど、その毎日はもう、昨日までの「同じ」ではない。

 彼女が自ら選び取り、彩りを与えていく、かけがえのない一日だ。

 

 紗和は深く、本当に深く、凪の呼吸を繰り返した。

 その胸の中には、新しい自分への、静かな信頼が満ちていた。


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