帰還の朝
島を離れる朝、瀬戸内の海は驚くほど深い霧に包まれていた。
宿の主、源三は、霧の向こうから響く連絡船の汽笛を聞きながら、紗和に新聞紙で丁寧に包んだ小振りの箱を手渡した。
「重いだろうが、持っていきな。昨日、あんたが摘んだレモンだ。横浜に帰って、もし息が苦しくなったら、一個切って香りを嗅ぐといい。島の風が、あんたの肺を助けてくれるはずだ」
紗和は、その重みを両手で受け止めた。箱の隙間から漏れてくる、あの鼻を抜けるような、野生の香気。
「ありがとうございます。……源三さん、私、また来てもいいですか」
「ああ。ここは何もないが、『自分』を置き忘れた奴が取り戻しに来るには、最高の場所だからな」
凛は、まだ眠っている時間だった。彼女の部屋の前に、一言だけ感謝を綴ったメモを残してきた。同じ時代を生きる、名前も知らなかった旅人。彼女との出会いが、紗和の心にどれほど深い「余白」をくれたことか。
連絡船が、白い霧を切り裂くようにして港を離れる。
遠ざかっていく島の影を見つめながら、紗和はスニーカーの紐をきつく結び直した。
松山空港へと向かうバスの車窓からは、段々畑に実るミカンのオレンジ色が、霧の中で灯火のように揺れていた。
空港のロビーは、週の半ばということもあり、出張帰りのビジネスパーソンや、数少ない観光客で賑わっていた。
自動ドアが開くたびに、島では感じなかった「乾いた空気」と「殺伐とした効率」が、容赦なく紗和を包み込む。
(……戻ってきたんだわ)
保安検査場を抜け、搭乗待合室のベンチに座る。
周囲には、タブレットを叩き、眉間に皺を寄せながら電話で指示を飛ばす男性や、最新のファッション誌を虚ろな目で捲る女性がいる。
つい数日前までの自分も、あの群像の中に溶け込んでいた。いかに時間を無駄にせず、いかにスマートに移動するか。それが彼女の美徳だった。
けれど今の紗和は、バッグの底に眠るスマートフォンの電源を入れようとは思わなかった。
代わりに、源三から貰ったレモンの箱を膝の上に置き、その感触を確かめていた。
羽田行きの機体は、瀬戸内の空へと力強く舞い上がった。
高度を上げるにつれ、宝石を散りばめたようだった島々が、地図の上の点のように小さくなっていく。
雲を突き抜けると、そこには遮るもののない、透き通った青空と強烈な太陽の光があった。
窓の外を見つめながら、紗和は自分の中にある「変化」を、そっと観察した。
それは、劇的な爆発ではなかった。
冬の朝に、土の中から小さな緑の芽が、ほんの数ミリだけ顔を出すような、静かで、けれど抗いようのない生命の萌芽だった。
(時間は、かかるかもしれない)
横浜に戻り、またあの喧騒の中に身を投じれば、今日感じているこの清々しさは、あっという間に削り取られてしまうかもしれない。部長の無神経な言葉に腹を立て、部下のミスに苛立ち、藤代からの誘いに溜息をつく日々が、また始まるのだろう。
けれど、決定的に違うことが一つだけある。
今の自分には、「ここではない場所」の呼吸を知っているという確信がある。
完璧なリーダーでも、自立した女性というパッケージでもない、ただの、レモンを摘んで汗をかき、星空の下で泣いた「佐伯紗和」という一人の人間。その核を、もう誰にも、自分自身にさえも、踏みにじらせない。
飛行機が房総半島を越え、高度を下げ始めた。
眼下には、無数のビルが密集し、複雑な血管のように道路が張り巡らされた巨大な都市・東京が見えてくる。
その灰色の森に向かって、紗和は心の中で深く、深く、凪の呼吸を送り込んだ。
羽田空港に降り立った瞬間、肌にまとわりつく湿気と、ジェット燃料の匂い。
紗和はそこで、ついにスマートフォンの電源を入れた。
一斉に鳴り響く通知音。
未読メール、百件以上。LINEの通知、数十件。
それらの情報の洪水に、以前なら吐き気を覚えていた。
けれど今は、画面をスクロールする指先が、不思議と冷徹だった。
「至急」と書かれたメールを読み、それが本当は全く至急ではないことを瞬時に見抜く。
井上からの「プロジェクト、クライアントから追加のリクエストが来てます。どうしましょう!」という焦りの色が見えるLINE。
紗和は、人混みを避け、ターミナルの隅にある椅子に座った。
そして、一呼吸置いてから返信を打った。
『慌てなくていいわ。それは明日、オフィスで一緒に考えましょう。今は、自分のやるべきことを一つずつ丁寧にこなして』
京急線に揺られ、横浜へと向かう。
夕暮れ時の馬車道。馴染みの街灯が灯り、レンガ造りの建物がいつものように佇んでいる。
自分のマンションの部屋に入ると、数日前と何も変わらない、完璧に整えられた無機質な空間が広がっていた。
彼女はコートを脱ぎ、源三から貰ったレモンの箱を、ダイニングテーブルの真ん中に置いた。
そして、洗面所の鏡の前に立った。
凛が言った「空白」を思い出す。
鏡の中の自分は、確かに少し焼けていた。
完璧なテラコッタのリップは落ち、瞳には少しの疲れが滲んでいる。
けれど、その奥にある光は、以前のような「他者の期待」を反射する冷たい光ではなく、自分自身の内側から静かに燃える、小さな、けれど確かな熱を帯びていた。
「……おかえり、私」
鏡の自分に向かって、彼女は初めて、誰のためでもない微笑みを浮かべた。
三十五歳。
新しい自分を作り上げ、それを受け入れていくには、きっと長い時間がかかるだろう。
これまでの習慣が、何度も彼女を引き戻そうとするだろう。
けれど、彼女はもう、その変化を恐れてはいなかった。
彼女はキッチンからナイフを取り出し、レモンを一つ、半分に切った。
部屋中に、鮮烈な、島の香りが広がった。
明日から、新しい一週間が始まる。
それは「気が乗らない毎日」の再開ではなく、彼女が自ら設計する、人生のリノベーションという名の長い旅の続きだった。
彼女はレモンをひと噛みし、その強烈な酸っぱさに目を細めた。
痛みも、迷いも、すべてが「生きている」という実感に変わっていく。
紗和の新しい呼吸が、横浜の夜に、深く、深く、満ちていった。




