日向 灯(ひなた あかり)
日向灯は、いつも笑っていた。
笑う理由を考えたことはない。そうするものだと思っていた。
「灯ってほんと優等生だよね」
放課後の教室で、誰かが言う。
灯は首を傾けて笑う。
否定もしないし、肯定もしない。どちらも角が立つからだ。
成績はいい。内申もいい。先生受けもいい。
友達は多くて、敵はいない。
それで、何が苦しいのか。
自分に問いかけても、答えは浮かばなかった。
ただ、息を吸うたび、胸の奥が少しだけ痛む。
誰にも気づかれない程度に。
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灯の家は、いつも静かだった。
玄関には靴が揃っていて、冷蔵庫には作り置きの惣菜。
テーブルには母の字で書かれたメモが一枚。
《ごはん温めて食べてね》
《テスト近いから頑張って》
父も母も仕事が忙しい。
帰りは遅く、会話は少ない。
成績さえ良ければ問題はない。
灯は“いい子”だから。
誰に言われなくても、灯は分かっていた。
この家では、結果が会話の代わりになる。
電子レンジの前で、灯は笑顔を作る。
帰ってきた時のために。
――誰もいないのに。
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その夜、灯は初めて「帰らなかった」。
塾が終わったあと、家とは反対方向の電車に乗った。
理由はない。
今日は、正しい選択をしたくなかった。
駅を降りると、夜の町は思ったより明るかった。
ネオン、タバコの匂い、知らない笑い声。
「未成年?」
声をかけてきたのは男だった。
ピアスが光り、首元からタトゥーが覗いている。
「……高校生」
正直に答えると、男は少し笑った。
「帰ったほうがいいよ」
それが、睦月との最初の会話だった。
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それから何度か、夜の町で会った。
約束はしていない。偶然を装った必然みたいなものだった。
睦月は、学校のことを聞かなかった。
将来の夢も、成績も、親の話も。
ある夜、缶コーヒーを二本買って渡してくる。
「甘いの平気?」
それだけのやり取りなのに、灯の胸は少し緩んだ。
少し沈黙が続いたあと、睦月は言った。
「その張り付いた笑顔、キモいぞ」
灯は、息を止めた。
「……え?」
「悪口じゃない。事実」
否定しようとして、やめた。
そんな言葉で切られるほど、自分の笑顔は軽かったのか。
胸の奥が、ひりついた。
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「親、厳しそう」
「……いないだけ」
灯がそう言うと、睦月は「そっか」とだけ返した。
可哀想とも、恵まれているとも言わない。
それが、灯には心地よかった。
ある夜、灯は終電を逃した。
スマホを見ても、家からの着信はない。
「帰らなくていいの?」
「……多分」
連れて行かれたのは、古いアパートの階段だった。
座って、缶を飲むだけ。何もしない。
灯は初めて、
いい子の自分じゃない夜を知った。
「帰らなくても困らない場所に居続けると、戻れなくなるぞ」
睦月は淡々と言った。
「それでも来るなら、止めない」
止めてほしかったのか、
止められたくなかったのか。
灯には分からなかった。
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変化に最初に気づいたのは、瀬戸真奈だった。
灯は今まで通りだった。
笑顔も、態度も。
ただ、真奈の話を聞く時間だけが短くなった。
「ねえ、聞いてる?」
「うん、ごめん」
声は優しい。
でも、灯と目が合わない。
ある日、灯のスマホが机の上で光った。
真奈の知らない名前。
胸がざわついた。
「最近、帰るの遅い?LINE全然返してくれない」
「塾とか、寄り道とかしてて」
「変な人と関わってないよね?」
「灯はちゃんとしてるから大丈夫だろうけどさ」
その瞬間、灯の表情が固まった。
——あ、今、踏んだ。
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「夜どこ行ってるの?」
「ちょっと……外」
「誰と?」
灯は答えなかった。
「言えないってことは、良くない人でしょ」
灯は初めて、真奈を真正面から見た。
「……どうしてそう決めるの?」
「だって、灯が1人で行くわけないでしょう?」
その一言で、何かが壊れた。
「私が決めるよ」
小さな声だった。
でも、確かに拒絶だった。
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ある夜、睦月と別れたあと、灯はコンビニの前で立ち止まっていた。
制服のまま、夜に浮いている。
「そのまま帰るの?」
振り向くと、同じ学校の生徒がいた。
確か名前は松井杏樹。
「……うん」
杏樹は少し考えてから言った。
「そっか。じゃあ、戻れるね」
「戻るって?」
聞き返した時には、杏樹はもう歩き出していた。
灯は、その背中を見送りながら思う。
戻るって、どこへ。
期待される自分へ?
息の詰まる場所へ?
灯はその夜も笑った。
でもそれが、誰のための笑顔なのかは、もう分からなかった。




