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分岐  作者: りな


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1/5

日向 灯(ひなた あかり)

日向灯は、いつも笑っていた。

笑う理由を考えたことはない。そうするものだと思っていた。


「灯ってほんと優等生だよね」


放課後の教室で、誰かが言う。

灯は首を傾けて笑う。

否定もしないし、肯定もしない。どちらも角が立つからだ。


成績はいい。内申もいい。先生受けもいい。

友達は多くて、敵はいない。


それで、何が苦しいのか。

自分に問いかけても、答えは浮かばなかった。


ただ、息を吸うたび、胸の奥が少しだけ痛む。

誰にも気づかれない程度に。



灯の家は、いつも静かだった。


玄関には靴が揃っていて、冷蔵庫には作り置きの惣菜。

テーブルには母の字で書かれたメモが一枚。


《ごはん温めて食べてね》

《テスト近いから頑張って》


父も母も仕事が忙しい。

帰りは遅く、会話は少ない。


成績さえ良ければ問題はない。

灯は“いい子”だから。


誰に言われなくても、灯は分かっていた。

この家では、結果が会話の代わりになる。


電子レンジの前で、灯は笑顔を作る。

帰ってきた時のために。

 ――誰もいないのに。



 その夜、灯は初めて「帰らなかった」。


 塾が終わったあと、家とは反対方向の電車に乗った。

 理由はない。

 今日は、正しい選択をしたくなかった。


 駅を降りると、夜の町は思ったより明るかった。

 ネオン、タバコの匂い、知らない笑い声。


「未成年?」


 声をかけてきたのは男だった。

 ピアスが光り、首元からタトゥーが覗いている。


「……高校生」


 正直に答えると、男は少し笑った。


「帰ったほうがいいよ」


 それが、睦月との最初の会話だった。



 それから何度か、夜の町で会った。

 約束はしていない。偶然を装った必然みたいなものだった。


 睦月は、学校のことを聞かなかった。

 将来の夢も、成績も、親の話も。


 ある夜、缶コーヒーを二本買って渡してくる。


「甘いの平気?」


 それだけのやり取りなのに、灯の胸は少し緩んだ。


 少し沈黙が続いたあと、睦月は言った。


「その張り付いた笑顔、キモいぞ」


 灯は、息を止めた。


「……え?」


「悪口じゃない。事実」


 否定しようとして、やめた。

 そんな言葉で切られるほど、自分の笑顔は軽かったのか。


 胸の奥が、ひりついた。



「親、厳しそう」


「……いないだけ」


 灯がそう言うと、睦月は「そっか」とだけ返した。

 可哀想とも、恵まれているとも言わない。


 それが、灯には心地よかった。


 ある夜、灯は終電を逃した。

 スマホを見ても、家からの着信はない。


「帰らなくていいの?」


「……多分」


 連れて行かれたのは、古いアパートの階段だった。

 座って、缶を飲むだけ。何もしない。


 灯は初めて、

 いい子の自分じゃない夜を知った。


「帰らなくても困らない場所に居続けると、戻れなくなるぞ」


 睦月は淡々と言った。


「それでも来るなら、止めない」


 止めてほしかったのか、

 止められたくなかったのか。

 灯には分からなかった。



 変化に最初に気づいたのは、瀬戸真奈だった。


 灯は今まで通りだった。

 笑顔も、態度も。


 ただ、真奈の話を聞く時間だけが短くなった。


「ねえ、聞いてる?」


「うん、ごめん」


 声は優しい。

 でも、灯と目が合わない。


 ある日、灯のスマホが机の上で光った。

 真奈の知らない名前。


 胸がざわついた。


「最近、帰るの遅い?LINE全然返してくれない」


「塾とか、寄り道とかしてて」


「変な人と関わってないよね?」


「灯はちゃんとしてるから大丈夫だろうけどさ」


 その瞬間、灯の表情が固まった。


 ——あ、今、踏んだ。



「夜どこ行ってるの?」


「ちょっと……外」


「誰と?」


 灯は答えなかった。


「言えないってことは、良くない人でしょ」


 灯は初めて、真奈を真正面から見た。


「……どうしてそう決めるの?」


「だって、灯が1人で行くわけないでしょう?」


 その一言で、何かが壊れた。


「私が決めるよ」


 小さな声だった。

 でも、確かに拒絶だった。



 ある夜、睦月と別れたあと、灯はコンビニの前で立ち止まっていた。

 制服のまま、夜に浮いている。


「そのまま帰るの?」


 振り向くと、同じ学校の生徒がいた。

 確か名前は松井杏樹。


「……うん」


 杏樹は少し考えてから言った。


「そっか。じゃあ、戻れるね」


「戻るって?」


 聞き返した時には、杏樹はもう歩き出していた。


 灯は、その背中を見送りながら思う。


 戻るって、どこへ。

 期待される自分へ?

 息の詰まる場所へ?


 灯はその夜も笑った。

 でもそれが、誰のための笑顔なのかは、もう分からなかった。


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