第61話 二人の夜――離れた剣、届きそうな銀髪
(……レンドル……)
どこか遠くで、名前を呼ぶ声がした。
意識の底に、懐かしい旋律が流れている。母であるエルザが、そして星の民の旅人であるカルドラが、それぞれに口ずさんでいた『星歌』の調べだ。
体が冷たい。
意識が浮上すると同時に、足首から先に伝わる冷水の感覚が、全身に鋭い悪寒を走らせた。
「……レンドル! 起きて、レンドル!!」
肩を激しく揺さぶられ、レンドルは重い瞼を押し上げた。
すぐ目の前に、銀髪を濡らした少女の顔があった。
「ジーク……生きてる、のか」
「私も、あなたも、びしょ濡れよ」
「……それと歌が、聞こえた気がしたんだ」
「あ、そうなの。つい口ずさんじゃった」
ジークは少し照れくさそうに視線を逸らした。
その声には震えるような安堵が混じっている。レンドルは上体を起こそうとしたが、その瞬間、右腕に芯から焼かれるような激痛が走った。
「ぐ、う……ッ! 右腕が……」
「まって、動かないで」
川水に濡れて体中が冷え切っているのに、右腕だけが嫌な熱を持って拍動している。レンドルは吐息を白く荒らげながら、慎重にその腕に触れた。
「……籠手が割れてる。外すね」
ジークが眉をひそめて手を貸す。利き腕の籠手を外すと、そこは無残に赤く腫れ上がっていた。
「腫れてるけど、折れてはないかも。ひびは入ってそう」
「今使えないんじゃ、変わらないな……」
周囲を見渡すと、そこは川が大きく弓なりに湾曲し、流れが淀んだ浅瀬だった。滝の轟音はもう遠い。自分たちは相当な距離を流されてきたようだった。
「どうやって、助かったんだ……」
「私が氷の魔法で、レンドルを浮かせて……ここまで運んだの。でも、途中で氷が割れちゃって。この浅瀬で、なんとか引っ張り上げたんだけど……」
ジークは乱れた息を整えながら、レンドルの足元を見た。
「レンドルの服も鎧も水を吸ってるから重すぎて、私の力じゃ、そこまでが精一杯だったの」
蛇行が描く弧の内側。堆積した土砂が作ったわずかな足場に、レンドルの上半身だけが辛うじて乗り上げていた。腰から下は、まだ冷たい川の流れに浸かったままだ。水を吸って鉛のように重くなった装備が、レンドルの体を川底へと繋ぎ止めている。
「……悪い。助かった」
体を引きずり、レンドルは這うようにして岸に上がった。
ジークはそれを見届けると、自身の外套をすぐに脱ぎ、近くの木の枝にかけた。濡れた長い髪を絞って、滴る水を落としていた。
「レンドルの外套も脱ごう。そのままじゃ凍えちゃう」
ジークが膝をつき、至近距離まで顔を近づけてレンドルの外套の留め具に手を伸ばした。
見上げると、彼女の長い睫毛が細かく震えているのが見える。少し青みがかった銀色の瞳は、月の魔力ではなく、彼女自身の生命の光を宿していた。
ふと見れば、ジークの右肩の包帯が水に濡れ、銀髪の隙間から鮮血が滲みだしている。
「その肩、血が……」
「私は大丈夫。血止めも使ってるから」
ジークは、俺の名前を呼んでいた。
記憶が戻ったのか、それとも一時的な混乱の合間に浮かんだものなのかは分からない。それでも、彼女が俺を俺として認識してくれていることが、今は何よりも救いだった。
「……そうだ、剣が」
「ラドウィンが拾ってくれてるかも。大蜥蜴に飛ばされたとき、彼のほうに飛んでたから」
「そうか……。ラドウィンは滝に落ちなかったんだな。それと、銀狼たち……」
ジークは首を横に振った。
「奥に流されてないと思う。……重いから沈んでそう」
もはや、亜神たちの戦いの音は聞こえない。大蜥蜴は大きすぎるが、銀狼もまた巨躯だ。滝つぼにそのまま沈んでいるのなら、それでいい。今のレンドルには武器もなく、腕も使えない。遭遇しても戦いにすらならない。
「鎧も外そう。このままだと起き上がれないでしょう」
「わかった。……ありがとう、ジーク」
ジークがレンドルの鎧の留め具を外し始める。水を吸って重くなった鎧は、まるで拒絶するように体に張り付いていた。
ようやく鎧を脱ぎ捨て、自由になった体を引きずってレンドルは立ち上がった。近くの木にもたれて座り、利き腕をあらためて見る。剣はないし、あっても振れない。
「……寒いな。すぐに火を起こさないと」
「うん。体が冷えたままだと死んじゃう。私、枯れ木を集めてくる。腕に使えそうな薬草も見てくるね」
ジークが森へ消え、一人残されたレンドルは、震える左手で服を脱ぎ、木にかけて水を絞った。腫れ上がった右腕からは、ズキズキとした激痛が脈動と共に突き上げてくる。
(腰の短剣、左手だけでどう戦う。もし銀狼に襲われたら……。いや、考えても仕方のないことだ。焦るな。出来ることをするんだ。ラドウィンは、いつも冷静だった)
しばらくして、銀髪が揺れた。ジークが戻ってきた。
「あっちに身を隠せる樹洞があったの。二人で入れそう」
「わかった。移動したほうがいいな」
「そっちで焚き火を起こそう。枯れ木と薬草もあったよ」
「すまない。……ジーク」
レンドルが言葉をかけると、ジークは少し困ったように頷き、微かな笑みを浮かべて見せた。彼女自身、肩の負傷に寒さが重なり、立っているのも辛いはずだ。それなのに、自分の痛みを見せることなく甲斐甲斐しく立ち働くその姿には、どこか痛々しいほどの献身さが宿っていた。
ジークの後に続くと、十数歩でそれが見えた。
いくつもの大木の根が複雑に地面を這い、そこにできた空洞は、なんとか二人が入れそうだった。
(この狭さを、俺と……ジークで?)
レンドルは思わず、目の前の濡れた銀髪から目をそらした。
(手を伸ばしたら……銀髪に触れられそうだ)




