第38話 星護りのカルドラ
カルドラには――本当に、希望があるのかもしれない。
そう思えた瞬間、レンドルの胸の奥が、静かに震えた。
これまで、星の民の話はあまりにも遠く、あまりにも重かった。
一万年という時間。
守り続ける意思。
失われ続けた歴史。
だが今、目の前にいるカルドラは、確かに未来を見ようとしている。
レンドルは、ゆっくりと口を開いた。
「祖母も、曾祖母も……ヴォルテニアに居ます」
言いながら、自分の声がわずかに震えているのを自覚した。
母が亡くなった日のことが、脳裏に浮かぶ。
その言葉に、バルザードが顎に手を当てて低く唸る。
「……ちょうどヴォルテニアの遠征軍が、ラクロアンに来ているな。
サンガードはヴォルテニアの後継者が建てた国だ。
そちらに行くならまだわかるが、何の目的で来たのか」
剣聖の視線は冷静だったが、その奥では何か考えているようだった。
――ヴォルテニアの正統後継者。
ラクアとブルード侯爵が話していた言葉が、思い浮かんだ。
でも、今言うことじゃない。
カルドラにとっては関係がないはずだ。
伝えるとしても、それは今じゃない。
レンドルは続けた。
「母が亡くなった時に、父が手紙を……ヴォルテニアの祖母に書いていました。
四年くらい前です」
あの日の父の背中を思い出す。
強く、そしてひどく孤独に見えた背中だった。
母が亡くなった夜、父は机に向かった。
灯火は一つではない。
三つ置いた。
影が揺れないように。
最初は、粗い紙を使っていた。
高価な羊皮紙ではない。
そこに、短い文を何度も書き、消し、また書いた。
何度も書き直して、それでも三段だけだった。
やがて父は、新しい羊皮紙を取り出した。
書いたのは、三段だけだった。
「ーー来て欲しいと、書いていました」
カルドラが、はっと息を呑む。
「遠征軍の中にいるかもしれないーー。
そうよね、レンドル。
バルザード、わたし遠征軍のところに行く。
何とかならないかな、どうしたら――」
その声には、焦りと、そして抑えきれない期待が混ざっていた。
だがレンドルは、すぐに首を振った。
「ヴォルテニア遠征軍は、サンブラント皇帝の出身地です。
今は、サンガード皇国とエルフの森は敵対しています。
聖樹の件で、争いが起きて今も続いてる。
多分、その状況はヴォルテニアに伝わっていると思う。
エルフが行くのは……危ない」
希望があるからこそ、慎重にならなければならない。
それが、今のレンドルの正直な思いだった。
バルザードが苦く笑う。
「そうだな。少なくとも俺が行くと揉め事になりそうだ」
カルドラは、ふっと視線を落とした。
「……そうね。気が早まってしまったわ。
私だけ行くにしても危険。
ダルトハットで冒険者を集めて……。
だめ、ヴォルテニアには、つてもあてもない……」
その声には、自制と悔しさが混じっていた。
長い年月を生きた者でも、希望の前では心が揺れるのだと、レンドルは知る。
バルザードが腕を組む。
しばしの沈黙。
その中で、レンドルの胸に一つの考えが浮かんだ。
「……そうか。手紙だ」
二人の視線が、同時にレンドルへ向く。
「手紙を書いて、父から紹介状を書いてもらえばいいんだ」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「もともと俺は、父に会うためにサンガードに戻ります。
エルフの森から、船が出ていますよね」
バルザードが、ゆっくりとうなずく。
「なるほどな」
レンドルは続けた。
「父もヴォルテニアの出です。
最初の遠征軍として来たといってた」
「それにネオネスさんも、サンルードの神殿にいる」
その名を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
バルザードが決断するように言った。
「そうだった。
……となると、どちらにせよ森に帰らねばならんか。
カルドラ。孫娘の件もある。一度森へ戻る」
カルドラは、ゆっくりとうなずいた。
「分かったわ、紹介状……たしかにそれがあれば」
そして、レンドルをまっすぐに見つめる。
「レンドル……本当にありがとう。
もし、その……星の民でなかったとしても、いいの」
その瞳は、どこまでも澄んでいた。
「だって、今日ほど、……希望を持てたことはなかった」
胸が締めつけられる。
レンドルは小さく首を振った。
「いえ、まだ何も。
自分の血が……星の民、そうかもしれない。
それが分かったこと自体が、星を調べることにつながりますから」
カルドラは、胸に手を当て、静かに名乗る。
「……私は、アルマの村、ツストの娘。
星の民の守り手を受け継いだ。
――星護りのカルドラ」
その言葉は、誇りそのものだった。
レンドルは、反射的に右手を左胸に当てた。
戦うものたちの礼。
「レンドル・ブレイズ。こちらこそです」
カルドラは両手を胸の前で交差し、わずかに頭を下げた。
きっと、星の民の感謝の示し方なのだろうとレンドルは思う。
そして、正面を向いて、柔らかにほほ笑んだ。
「……感謝を。あなたに感謝を」
真っすぐな眼差し、大きな涙が流れた。
一万年の話は、どこか遠い異国の話だった。
広場で聞く、吟遊詩人の物語のようだった。
……俺は、その顔を見ていなかった。
いま、初めて目が合う。
ローブの影に隠れていても分かる。
カルドラは、整いすぎるほど整った顔立ちだった。
神話の血を引くと言われても、疑えない。
そして、希望に満ちた眼だ。
真っすぐ見るのが恥ずかしくなるような。
とても、一万年を生きてきた人とは思えない。
人の時間を、重ねてきた深さ。
その心も、所作も、思いもが、すべて。
――美しい人だった。
バルザードも、無骨に笑った。
「俺からもだ、レンドル。ありがとう」
そして、肩を軽く二度叩く。
仲間をねぎらう、この世界で共通の仕草だった。
その時、天幕の外から声が響く。
「バルザード、いるか」
幕が揺れ、仲間のエルフが顔をのぞかせる。
「ルベリアの隊長が呼んでいる。
護衛について協力の申し出だ。どうする」
バルザードは即答した。
「分かった、行こう。
……アドラスの魔法で、多くの被害が出てしまった。
無視するわけにもいかん。
同盟の件もある」
カルドラに目で合図する。
「そうね。今日はここまでにしましょう。
ダルトハットに着くまでに、色々と話すわ。
レンドル、時間があるときに声をかけて。
私はここにいる」
「ありがとう、カルドラ。
じゃあ、俺は戻るよ」
レンドルは二人に軽く手を挙げ、天幕を後にした。
外の空気は冷たかった。
……そうだ、手紙だ。
父親を思い浮かべた瞬間、息が詰まる。
父は――俺が生きていると知っているのか。
いや、知らないはずだ。
紹介状の話より先に、書かなければいけないことがある。
――父さん、俺は無事だ。
そう最初に書かなければ。
荷馬車に戻る足が、早くなった。




