終章 弐
――季節は春から、夏に変わっていた。
吹く風は、初夏の香りだ。
青々とした緑の風景を、彷彿とさせてくれる。
紫天領は、四季のはっきりした豊かな土地だ。
いつも肌寒い都で過ごしていた沙々にとっては、汗ばむ陽気すら、愛しく感じられた。
「おいっ! まだ寝てるのか?」
「うーん」
青年は一人、草の中に埋もれていた。
「急用だっていうから、あっちこっち捜しちゃったじゃないか。何で悠威の屋敷にいないんだ? おかげで、私は悠威に捕まって、あんたが受けるはずだった説教を延々と聞く羽目になったんだぞ!」
沙々は起きる気配のない青年に痺れを切らして、軽く足でその腰を突っついた。
反応がない。
こうなったら、自棄気味に、彼が起きるまで喋り続けるしかなかった。
「段々、暑くなってきたろう。夏になったら、さすがに昼寝は出来なくなるんじゃないのか?」
「……まっ、そうかもねえ」
「わっ!」
いきなり、姿勢も変えずに、目だけ開いた葉明に、沙々は驚き、態勢を崩して、その場に座りこんでしまった。
「でもねえ。沙々。ここの草の寝心地は最高なんだよ。僕の部屋にここの草を生やしたいくらいなんだ」
「あんたっていう人は、普通に起きることが出来ないのか?」
葉明は、肩から脱げ落ちそうになっている白い着物を直しつつ、自分の前で胡坐をかいて座る沙々の足元を見ていた。
「半ズボン?」
「何処見てるんだ?」
沙々は夏服に衣装を改めている。
動きやすい群青色の半ズボンと半袖の上着に、揃いの色のリボンを頭につけている。
膝丈までの半ズボンからは、すらりと長い足が伸びていた。
「……ああ。あっちこっちに怪我をさせてしまったから、傷が残らなくて良かったなあって思って」
「私は足に怪我などしてないぞ!」
怒鳴ってから、軽く頭を小突くと、葉明はおずおずと、上体を起こして、視線を沙々の顔に戻した。
「……未晶から、聞いたよ」
眠そうな目だったが、今日の葉明に笑顔はなかった。
「ご両親と、紫天領から出るんだって?」
もう、伝わっていたらしい。
できれば、自分の口から告白したかったが、仕方ない。
沙々はこくんと頷いた。
「まあ、いつまでも未晶さんのところにお世話にはなれないしな。一応、これからどうやって、まともに暮らすか、みんなで話し合っているところだ」
「ひどいなあ。恋人の僕に一言もないなんて」
「まだ、それを言うか」
沙々が拳骨に軽く息を吹きかけてみせると、葉明は慌てて謝って、早口で質問した。
「それで、沙々はいつ紫天を出るの?」
「元々、荷物は少ないからな。早ければ明日にでも」
「……そっか。紫天領も栄えているから、働き口なら、いくらでもあるけれど。でも、いや、そっか。うん、まあ、そうだよね。家族で話すことは大切なことだよね」
勝手に結論を出して、一人納得してしまった葉明は、落ち着かない様子で周囲の草をむしっていた。
沙々は、今が好機だと、ちゃんと返すことが出来なかった桃華石の指輪を葉明に突き出した。
「これ。今まで色々と慌しかっただろう。結局、私が持ってたから」
「ああ、でも。これは僕が沙々にあげたものじゃない」
「いらないって言っただろ。こんな高価なもの。もらったところで、どうしようもない」
「まあ、そう言わずにね。一つ貰っといてよ。どうせ、この指輪は、安物なんだから」
「……えっ?」
葉明は、沙々から受け取った指輪の石の部分を人差し指で叩いた。
「これは、石じゃないんだ。貝さ。光貝って、言われている桃色の貝だよ。ここまで分厚く出来ているものは珍しいし、一瞬、桃華石のように見えるけど。でも、これを、売ったところで、たいした金額にはならないんじゃないかな?」
葉明はあっさりと言って、呆然としている沙々の手の中に指輪を戻した。
「僕の魚売りの母が紫天領の川の底から拾ってきたものだよ。磨いたら、綺麗になったみたい。まあ、形見には違いないけど、川に行けば、いくらでもその貝はあるだろうだから、皇子の身分が必要になったら、また作れば良い」
「じゃあ、あんたの父親は?」
「父親ねえ……」
宙を彷徨っていた目線が沙々にたどり着くと、葉明は口を開いた。
「ここだけの話、正直なところ、僕も自分の父親が誰かって分からないんだよね。一応他領の貴族らしいけれど、まったく手掛かりの一つもないし、どうでもいいんだよね。もう、そんなこと」
「しかし、それでまた、皇子だなんて?」
「そりゃあ、一人で国王になりますって言ったって、誰も話なんか聞いてくれないでしょ。悠威は肩書きに弱そうだから、皇子って餌で釣ってみただけだよ。見事に引っ掛かってくれたけど」
独り言のように、冷淡に語ってから、ゆるゆると、葉明は沙々を見た。
「……ねえ、いつものように、怒らないの? 僕はあえて、すべてを君に言わなかった。僕は本当の偽皇子。君が僕を追ってきてくれるかどうか、指輪を渡して、賭けてたのに」
「私は賭けの材料か? 新たな利用の仕方だな。じゃあ、元魄が私に、指輪の話をしたのも、あんたの計算のうちだったんだ?」
「あ、やっぱり、怒ってる」
それは、葉明特有の肯定の言葉だった。
沙々に睨まれた葉明は、仕方なさそうに説明を始めた。
「君に指輪を渡したのは、もしも、君が僕の所に来てくれたら戦うのはやめようと思ってたから。元魄には協力してもらったけど、真意は話してない。未晶も元魄も誰も知らない。僕だけの秘密だった」
「……じゃあ、私が行かなかったら?」
「君が思った通りになったんじゃないかな。だって、ほら、僕の周りって堪え性のない人達ばっかりでしょう。未晶も元魄もやってみたかったんじゃない、国王暗殺」
「本当、呆れた。みんな馬鹿だ。そんな単純に国王なんか殺すこと出来ないだろ」
「一応、国王の近くまで、間諜が入ってたから、うまくいく予定だったみたいだけど」
「浅はかだ」
「でもさ、沙々。大きなことを望むのなら、大きな危険もつきものじゃない。それで死ぬのなら、結局、そこまでが僕の寿命だったってことだろうから」
「葉明」
「……でもねえ、君を勝手に引っ張り出してきたのは、僕だから。悪いのは僕だ。もっと君は怒ったほうが良い。その権利が君にはあるんだ」
「遠慮なく……、と行きたいところだがな」
沙々は仕方なく微笑した。
「心の何処かで分かってたんだ。あんたはそういう奴だってこと。偽者だってことも、何となく分かってた。それでも私はあんたを追いかけてた」
「じゃあ、僕の目論見は成功したっていうことか」
その割には、寂しそうに言う。
人の心を掌握して、自分に有利な方へ動かす。
卑怯なのかもしれない。
でも、それは葉明も自覚していることなのだ。
「僕は……、心の何処かで今攻撃するのは、得策じゃないと思ってた。でも、攻撃するのも有りなんじゃないかとも思ってた。それで、死んでも仕方ないって。でも、君が来てくれたら、止められる。僕は願ってた。君にもう一度会えたら良いなって。そしたら、君は怪我までして、僕の所に来てくれた」
「そうだよ」
沙々は、伸び盛った草の奥に、燦然と輝く川面に目を向けた。
「見事にあんたの思惑通りだ。気分良かっただろ?」
葉明も、沙々と同じように視線を川に移した。肩を竦めて、笑う。
「勿論、良い気持ちだな。女の子が追いかけてくれる男って格好良いじゃない」
「調子に乗るな」
「それでも……。そんなに尽くしてくれたって」
葉明はいつもより低い声で呟いた。
「君は僕の前からいなくなるんでしょ?」
「えっ……」
「ごめん」
自嘲気味に頭を振って、葉明は地面の石を川に向けて投げた。
(なぜ?)
「どうして謝る?」
石は、川面にぶつかって、音を立てて水中に消える。
沙々は溢れ出した感情を制御できずに捲くし立てた。
「あんたはずるいよ、葉明。そんなふうに、後から私に懺悔する。なぜ、話す?そんなこと、黙っていれば良いじゃないか? 他の人には黙っていられるんだろ? なのに、どうして私にだけ話すんだ」
「うん」
自分でも分からないのか、葉明は眉間に皺を寄せて、猛烈に考え始めた。
「そうだよねえ。どうしてなんだろ」
(さすが、葉明)
沙々は、もうこの男の答えを諦めた。
「そうやって、分からないふりをしていても、本当は心の何処かで答えが出てるんだろ。あんたは、相手よりも自分の方が格下のように見せかけて、逆転させるのが得意だからな」
「……そういうつもりは、ないんだけど」
(本当に、子供みたいだな)
所々に跳ねた髪を、撫でる姿は、沙々よりも年下の少年のようだ。
しかし、沙々はこの青年の裏を知っている。
この青年は、目的のためなら何処までも非情になれる人間だ。
未晶や、そして未晶とつながりのある地下の勢力をも巻き込み、すべてを潰すことも、築くことも出来てしまうのだ。
葉明が本気になれば、本当に法斉も、そして国王までも暗殺できるのかもしれない。
だから、この男にとって、最初から叡台という存在の影を背負うことは、単なるお遊びのような感覚なのだろう。
……怖いと、思っている。
このまま、巻き込まれていくのを恐れて、沙々はこの青年から離れようとしている。
でも……。
「それは、辛くないのか?」
「えっ?」
沙々は掌に収めた指輪を、強く握り締めた。
核心をつくように、大きな琥珀色の瞳を葉明に向ける。
「あんたが口で相手を制することが出来るのは、常に、自分を誰からも理解出来ない存在にしているからだろう? だから、あんたの意外性に人はついていくんだ。でも、それじゃあ、本当に、あんたを理解してくれる人は何処にもいないんじゃないのか? それって……」
「沙々」
「辛いだろう?」
葉明は……、
たじろいだような、驚いたような顔をしていた。
沙々は、その顔こそが葉明の本当の顔なのだと、直感した。
「そっか。そう、だよね。確かに」
照れ隠しのように、大笑いをして、葉明は青草に埋もれるように、仰向けになった。
「ようやく、分かったよ。沙々、君になぜか僕がすべてを、話してしまう理由が」
いつも逸らしがちな黒い瞳を、葉明は態勢を変えてしっかりと沙々に合わせた。
「僕は、ずいぶんと長く、その言葉を、待っていたらしい。誰かに僕自身を認めて欲しかったのかな。結構小さいもんなんだな。僕も」
笑っている。
自分を見失いがちになる葉明にとっては、新しい発見のようだった。
「でもね。沙々、僕はその言葉を言うことが出来ないんだよ。多分、まだ道の途中だから」
「葉明、あんたはそこまでして、頂点になりたいのか? 人を欺いても、殺しても、一番になりたいのか? 良いじゃないか。そこまでする必要なんて何処にもないだろう。あんたは」
「ねえ、沙々。僕は気がついたら、こういう人間になってたんだよ。別に、目的のためにすべてを偽っているわけじゃないんだ。いつの間にか、そういう目標しか追えないような、人間になってたんだ。自分がないから、肩書きにすがるような男になってたのかもしれない。何処かに名前を刻みたかったんだ」
「……葉明」
憐れみが混じったような声で、沙々が呼びかけると、葉明は目を閉じた。冷めた微笑を浮かべていた。
「ねえ、沙々。君は孤独っていうものを経験したことがある?」
「孤独?」
「誰も自分を見てくれなくて、理解してくれなくて、ずっと一人ぼっちな感じ」
(そういえば)
一人旅はしたが、毎日が孤独だったわけではない。
沙々が本当に独りだと感じたのは、未晶の家の地下に閉じ込められていた時だった。
「人は、孤独を感じた時、二通りに別れるものらしい」
蒼い空に、葉明は人差し指をかざした。
「一つ目は、今まで自分を取り巻いてくれた人のもとに、帰りたい、戻りたいと思う人。そして、二つ目は……」
葉明は、中指を突き出して、声を低くした。
「ひどく好戦的になる人」
「葉明」
あの、孤独だった時間。
沙々は、両親に会いたいと思っていた一方で、こんな一生で終われない、終わりたくないと思っていた。
もう少し、一人の時間が長引いていたのなら、沙々は一体どうなっていたのだろうか。
「僕はね。今回のことがなかったとしても、僕がなにかしなくったって、今の国王が近いうちに、紫天領を攻撃してくると思っていたよ」
「どうして?」
「あの人だって、孤独な人でしょう? 過去の国王と比較されて、自分が何処にもいないじゃない。まるで……」
葉明は言いかけて、それから苦笑した。
沙々には、葉明が何を言いたいのか分かった。
「僕のようだって言いたいんだろ? それで最後に「なんてね」って言って、またちょっとした茶目っ気を発揮するつもりなのか?」
沙々は穏やかに言った。
葉明は気まずそうに、肩を竦めている。
抜けていく風が蒼空の雲を飛ばし、太陽が現れては、雲の中に消えた。
川の水は絶えず、静かに流れている。
穏やかだった。
でも、いつまでもこの時間が、葉明に続くことはない。
(コイツは、このままでは終われないヤツなんだから……)
「あんたの辛さは、あんたのものだけど、でも、あんたを理解してくれる人も現われるはずだよ。きっと」
「沙々……」
葉明はげんなりした顔で、小さく息を吐いた。
「それってさ。もしかして、僕、慰められてる?」
沙々は、それには答えずに、透明な微笑を浮かべた。
少しだけ自分が成長したことを実感する。
これで、……思い残すことはないはずだ。
だから……。
沙々は風にざわめく草叢から颯爽と立ち上がった。
「私は、そろそろ行くぞ」
「……えっ、嘘? もう?」
葉明は演技なのか、本音なのか、明らかに狼狽していた。
「もう少し、お互いに語る時間って必要なんじゃないかな?」
「ふん。何だ、それは? 大体、いつまでも、お前の側にいたら、またおかしなことに利用されそうじゃないか」
「あっ。やっぱり根に持ってるよね。でも、もう、そこまで君を利用するほどの出来事なんてものは……」
「何か言ったか?」
沙々の足元に丁度良い具合に、転がっている葉明を踏みつけようとしたら、葉明は必死な形相で首を横に振っていた。
沙々は朗らかに言った。
「まあ、いいさ。指輪も貰ってしまったわけだし」
指輪を掌の中で転がしながら、葉明に背を向けた。
「じゃあな」
短く言って、歩き出す。
矢先に、背後から、声が飛んできた。
「いつ帰って来るの!?」
「まだ出て行ってもいないのに、そんなこと分かるか」
しかも、ここに帰ってくることが絶対というのも酷い話だ。
「そう……だよね」
更に数歩、沙々が歩き出すと、背後に視線だけを感じた。
(行かなくちゃ)
強くそう思うのに、沙々の足は、それ以上進まなかった。
このまま、葉明の側にいたら、沙々はおかしくなる。
(分かっているのに……)
なぜ自分に向けられている視線を、無視することができないのか。
(腹が立つ……)
「何故、あんたは、こういう時こそ、言葉を使わないんだ?」
「えっ?」
「どうして、こういう時、適当な言葉の一つも使わないんだって聞いてるんだっ」
「だって、沙々」
草叢の中から、曇った声が小さく返ってきた。
「君は僕が何を言ったところで、作為的ものしか感じなくなってしまってるでしょう? 僕の本音の価値は、著しく低いんだ」
「いや……、だからってな」
盛大に溜息が漏れた。
「思ったことはとりあえず口に出せ。じっと見られても、気持ちが悪いだろ。あんたは変質者か?」
沙々は日差しに、ざわつく茶髪を押さえて、振り返った。
葉明は、上体を起こして、そっぽを向く。
まるで子供だった。
でも、これが……。
葉明の本当の姿なのだろう。
沙々が会ってみたいと思っていた葉明の素の部分なのだ。
(―――本当、馬鹿みたいだ)
丸めているせいだろうか、やけに背中が小さく見える。
こうなったら、仕方ない。
(―――仕方ないなあ……)
離れようと思ったのは、沙々なのに、譲歩するのも、沙々の方らしい。
「……駆け引きは得意なんだろう? こんな小娘を引き止める方法なんて、あんたには、いくらだって、あるじゃないか?」
葉明は膝を抱えて、うつむいたままだ。
「君がここを出て行ってから、やっぱり、その指輪、母の形見なんで、今すぐ紫天領の僕に返して下さい……と、手紙を書く」
「――あんた、やっぱり馬鹿だろ……」
沙々は葉明の背後に近づくと、鮮やかな蹴りを背中に入れた。
「まだ決定じゃないんだ。私が説得すれば放浪癖がある両親は、どうにかなるんだ」
「……そうなんだ」
「今なら、たった一言で済む。……さあ、どうする?」
うつ伏せに転がった葉明は首をひねって、沙々を見上げ…………、やがて間抜けな微笑を浮かべた。
【 了 】
大変お見苦しいものをお見せして、申し訳ありませんでした。
……ならば、見せるなという代物かもしれませんが…。
これを書いた当時の私は、勝手に舞い上がっておりました。
書き終えたとき、また、ある程度の評価をして頂けたとき、頑張ったな……自分という、ありがちな自画自賛をしたりしていました。
あれから☓年、今回、こんな話もあったな……とアップする過程で、今の文章とは大きく違い、様々な矛盾点に気づいてしまいました。
「なんだ。これ?」
です。
……もう、挙げられないほどに、目も当てられないほどに。。
あまたの怪しげな点が心に痛いです。
やっぱり自分はここまでなんだな……と痛感すると共に、けれども、ここまできて、消してしまうのもどうかと思いまして、雰囲気的には悪くはないと……わが子可愛さに、すべてアップ致しました。
多少なりとも、書き上げたときの高揚感みたいなものが伝わってくれると、嬉しいのですが……。
今後、もしも私に時間があるのなら、ぽつぽつと手直ししていきたいと思います。
もっとも、登場人物の法斉(老人)が出張りすぎて、もはや、誰が主役なのかわかりませんね。
どうも、自分は爺さんやら、おっさんを活躍させるのが好きなようです。
いずれの話もそうですが、(もしも)ここまで読んで下さった方がいらしたら、特に、この話はすいませんでした。読みにくかったものと思います。
今、アップしている話のすべては、書いていた時代が十年前のものもあれば、つい三カ月前のものまで、てんでバラバラなので、文章の出来にばらつきがあるかと思います。
これも申し訳ありません。
貴重な時間を、拙作のためにお使い頂き、有難うございました。




