いつも余裕たっぷりな小林さんを驚かせたい
小林静は、いつもどこか余裕そうだった。
岡崎は、初めて彼女を見た時のことを今でもはっきりと覚えていた。
まるで、生きた人形を見ているようだった。
整った小さな顔には何の感情も浮かんでおらず、絹のように艶やかな黒髪が肩へと流れていた。
天使ちゃん。
周りのクラスメイトたちは、彼女をそう呼んでいた。
人形ちゃん、と呼ぶ者もいた。
小林には、大きな感情の起伏がほとんどない。
礼儀正しく微笑むこと。
ほんの少しだけ眉を寄せること。
それくらいだ。
子供の頃からひねくれていた岡崎は、小林のそんな生気のない顔が気に入らなかった。
もっと別の表情を見てみたいと思った。
怒った顔でもいい。
驚いて、取り乱した顔でもいい。
――絶対に、小林を驚かせてやる。
そう思った。
小学生の頃の岡崎は、ようやく貯めたお小遣いでおもちゃの蜘蛛を買った。
それを、こっそり小林の筆箱の中に入れた。
「ふふふ、小林のやつ、驚いて泣き出すんじゃねぇか?」
岡崎はニヤニヤしながら、隣の席の小林の様子を盗み見た。
小林は筆箱を開け、一瞬だけ動きを止めた。
「……よくできてるね」
そう言って、蜘蛛の脚をつまみ、平然と岡崎へ差し出した。
岡崎は、どうして自分が犯人だとバレたのか考えるより先に叫んでいた。
「なっ、嘘だろ!?怖くないのかよ?蜘蛛だぞ、蜘蛛!」
彼は目を見開いた。
「……結構、可愛らしいわ」
小林は目を細め、淡い笑みを浮かべた。
その笑顔は、当時の岡崎にとって最大の挑発にしか見えなかった。
「覚えてろよ! 俺は絶対に負けないからな!」
岡崎はまるで三流悪役のような捨て台詞を吐いた。
彼と彼女の戦争が、ここに開幕した。
「わっ!」
放課後、岡崎は物陰から飛び出し、両手を広げて大声を上げた。
小林は、牙でも剥くような勢いの岡崎を無表情で見つめる。
ぱちくりと、一度だけ瞬きをした。
「岡崎くん、そういうの、喉に悪いと思う」
「くそっ、これでもダメかよ……!」
岡崎は悔しそうに歯噛みした。
すると小林は、少しだけ目を細めて微笑む。
「……一緒に帰る?」
「ふん、別にいいけど!」
中学生になると、小林はすらりと背が伸びた。
物静かで落ち着いた佇まいは、周囲から「女神」と崇められるようになる。
腰まで伸びた長い髪を、リボンで簡単にまとめている。
時々、誰かが小林に告白して振られた、なんて噂も耳に入った。
けれど、岡崎にとってはそんなことはどうでもよかった。
「小林、聞けよ。最近すげぇ怖い話見つけたんだ」
岡崎は自信満々に言った。
「へえ?」
小林は読んでいた本を閉じ、少し興味深げに顔を上げた。
岡崎は身振り手振りを交えながら、全力でその話を語った。
「……で、こうなるわけ。どうだ? 怖いだろ?」
「うん。とても面白かった」
小林は素直に頷いた。
「いや、そこじゃなくて! 怖くなかったのかよ!?」
小林は少し首を傾げ、考えるように黙り込む。
それから、ほんの少しだけ頷いた。
「少しだけ」
「やっぱダメかぁ……」
岡崎はがっくりと肩を落とした。
小林は落ち込む岡崎をじっと見つめ、そっと目を細めた。
高校に入ると、静に告白する男子はさらに増えた。
ほとんど毎週のように、どこかのクラスの男子が玉砕したという話を聞く。
岡崎は、そろそろ手札が尽きてきた気がしていた。
教科書に怖い写真を挟んでみたこともある。
小林が机から教科書を取り出すと、そこには青白い女の顔が貼りついていた。
小林は、その女としばらく見つめ合う。
それから何事もなかったかのように、写真を岡崎へ差し出した。
「はい、これ。よくできているわね」
「お、おう……」
どうせ期待していなかった岡崎は、適当に受け取る。
そして、不意に口を開いた。
「なあ、静。今度の休み、一緒に映画行かないか?」
最近、とても怖いと評判のホラー映画が公開されたらしい。
泣き出して、足が震えて立てなくなる人までいるとか。
今度こそ、静を驚かせられるはずだ。
「……どうした?用事あるなら日を改めるか」
すぐに返事が返ってこなくて、岡崎は不思議そうに静を見る。
静は俯いたまま、小さく呟いた。
「……映画?」
「おう。なんか、めちゃくちゃ怖いらしいぞ」
「……うん、いく」
静は、小さく頷いた。
休みの日。
Tシャツ姿の岡崎は、待ち合わせの映画館へ向かった。
だが着いてみると、一角に妙に人だかりができている。
「なんだ? 芸能人でもいるのか?」
気になって背伸びをした、その瞬間。
岡崎は、一瞬だけ息をするのを忘れた。
人混みの中心に、見慣れた姿がいた。
静だ。
右手に本を抱え、真っ白なワンピースを着た彼女は、まるで恋愛映画のヒロインのようだった。
あまりにも綺麗で、目を奪われる。
岡崎は慌てて頭を振り、人混みをかき分けて手を上げた。
「待ったか?」
本を読んでいた静は、その声に顔を上げる。
ぱっと目を見開き、岡崎の方へ歩いてきた。
「……ううん。私も、今来たところ」
映画のチケットを買ったあと、岡崎は売店を見ながら聞く。
「飲み物、何がいい?」
「紅茶でお願い」
「じゃあ俺はコーラ。ポップコーンは?」
「一つを二人で分けましょう」
「了解」
映画は王道のホラー映画だった。
雰囲気の作り方も、展開も完璧で、客席のあちこちから悲鳴が上がる。
けれど岡崎は、隣に座る静の横顔を盗み見ていた。
相変わらず、何の表情も変わっていない。
(……今回も失敗か)
そう思いながらポップコーンに手を伸ばした、その時。
指先に、柔らかくて滑らかな感触が触れた。
ほんのりと、温かい。
「っ」
慌てて手を引っ込め、岡崎は謝ろうと顔を向けた。
ちょうどその時、静もこちらを向く。
二人の顔は、ぶつかりそうなくらい近かった。
吐息がかかるほど近い距離。
岡崎は、全身が固まった。
しばらく沈黙したあと、ようやく掠れた声を絞り出す。
「……わ、悪い」
「……ううん」
その後、映画で何が起きていたのか、岡崎はほとんど覚えていなかった。
精一杯の平静を装って静と別れた岡崎は、知る由もなかった。
彼が去った後のことを。
静は映画館の外にある円柱に背を預け、
岡崎の不器用な背中が角を曲がって見えなくなるまで、じっと見つめていた。
しばらくして、ようやく震える手で乱れた鼓動を抑えた。
耳たぶが痛いほど熱く、白い指先は胸元の襟をぎゅっと握りしめ、布にしわを作っていた。
いつも余裕たっぷりだったその瞳は、今は潤んで霧がかかったように揺れ、街灯の余韻を映し出していた。
そして、彼女は深く俯き、小さな声で呟いた。
「……びっくりした」
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