第7話 紋章と、盾と、震える声
王都の紋章入りの馬車が、辺境の道を上がってくるのが見えた。
畑に水をやっていた手が止まった。
紋章。あの紋章を見間違えるはずがない。ルクレシア王家の双翼の獅子。金と紺の装飾。馬車の側面に大きく刻まれた、わたしの人生を壊した家の紋章。
「……王都から?」
隣でルカの咳の経過を診ていたトマスが、目を細めて馬車を見た。
「嫌な客だな」
嫌な客。
──そうだ。王都からの客に、良い知らせが来たことはない。
◇
馬車が診療所の前に停まった。
中から降りてきたのは、痩せた中年の男だった。黒い上着に金の縁取り。宮廷書記官の正装。腕には巻物を抱えている。
護衛の兵が二人。
「辺境管理困難領・管理官リーネ・ヴァレンシュタインはいるか」
声が硬い。辺境の泥道を歩いてきたせいか、靴が汚れていて、そのことが不機嫌そうだった。
「……わたしです」
「王太子殿下の命により、辺境管理困難領の管理権を王太子府に移管する。リーネ・ヴァレンシュタインは速やかに王都へ帰還せよ」
──帰還。
足の裏から冷たいものが這い上がってきた。
王都に戻れ。この辺境から出ろ。お前の居場所は、ここにはない。
(……嘘でしょう)
薬草園。診療所。ルカの笑顔。トマスの皺だらけの手。おばさんの「助かるよ」。村人たちが毎朝畑に来てくれること。クロエが淹れてくれるお茶の温かさ。
全部──奪われる。
膝が震えた。声が出ない。断罪の日を思い出す。あの時も、こうやって一方的に宣告された。弁明の機会はなかった。
「管理権移管の根拠となる勅令をお見せください」
──声が、した。
わたしの隣から。
クロエだった。
いつの間に来たのか分からない。わたしの半歩前に立っていた。背筋がまっすぐ伸びて、灰色の目が使者を正面から見据えている。
伯爵邸で口上を述べた時と同じ──いや、あの時よりもっと冷たい声だった。
「勅令は発行されておりません。王太子府からの内命です」
「内命であれば、法的拘束力はありません」
クロエの声が、診療所の前の空気を切った。
使者の顔が歪んだ。
「調査員ごときが──」
「王都行政府から派遣された調査員の調査は、現在も継続中です」
クロエが、懐から一通の書状を取り出した。
封蝋。紋章。──あの紋章だ。ルクレシア王家の双翼の獅子。ただし馬車に刻まれたものとは少し違う。王太子府のものではなく──。
「調査令状です。国王陛下の署名がございます。調査が完了するまで、いかなる管理権移管も、いかなる身柄移送も、法的に無効です」
国王陛下の──署名。
使者の顔から血の気が引いた。
「……見せろ」
クロエが書状を開いて見せた。使者がそれを覗き込み──目を見開いた。
国王の印璽。間違いない、と顔に書いてあった。
「これは……しかし、王太子殿下の命で──」
「王太子殿下の内命と、国王陛下の署名入り調査令状では、どちらが上位の法的権限でしょうか」
静かな声だった。
怒っていない。責めてもいない。ただ──事実を、刃のように突きつけている。
使者は口を開きかけて、閉じた。反論できない。王太子の内命は、国王の署名の前に無力だ。
◇
──その時、背後で足音がした。
振り返ると、村人が集まってきていた。
トマスが先頭にいた。その後ろにルカの母親。畑を手伝ってくれているおじさん。隣の集落から通ってきている腰痛のおばさん。診療所で手荒れを治してもらった少女。
十人、二十人と増えていく。
「おい、王都の人間」
トマスの声がした。低い、しわがれた声。でも──太い。
「リーネ先生を連れていくつもりなら、わしらも黙っておらん」
使者が振り返った。村人たちが診療所の前に壁を作るように並んでいる。
「この人がおらんかったら、うちの孫は死んどった」
トマスの目が据わっていた。
「先生が来てから、病で死ぬ子がおらんくなった。腰が痛い年寄りが歩けるようになった。隣の村からも人が来るようになった。──それを王都の都合で取り上げるんか」
使者が一歩退いた。護衛の兵が、周囲を見回している。村人たちは武器など持っていない。鋤や桶を持ったまま、ただ立っているだけだ。
でも──退かない。
「……リーネ先生を返すなら、この村から薬草も出さん。隣の村も同じだ。伯爵閣下にも話は通しとる」
最後の一言で、使者の顔がさらに強張った。ブラント伯爵。推薦状を書いた、あの伯爵の名前。
「……本日のところは、持ち帰らせていただく」
使者は、それだけ言って馬車に戻った。
護衛の兵が続き、扉が閉まり──紋章入りの馬車が、来た道を戻っていった。
土埃が舞って、消えた。
◇
村人たちがゆっくりと散っていった。
トマスがわたしの前で足を止めた。
「先生、大丈夫か」
「……はい。ありがとうございます、トマスさん」
声が、かすれた。泣いてはいない。でも──喉が詰まって、うまく出ない。
「礼なんぞいらん。わしらが先生を必要としとるだけだ」
トマスの皺だらけの手が、わたしの肩をぽんと叩いた。それだけで、膝の震えが少しおさまった。
──ルカが走ってきた。
「リーネ先生、どこにも行かないよね!?」
「行かないよ」
言い切った。
ルカの頭を撫でた。柔らかい髪。この子の咳を止めた日から、まだ半年も経っていない。
(ここが、わたしの場所だ)
◇
村人たちが去った後、診療所の中でクロエと二人になった。
クロエは壁際に立って、調査令状を丁寧に折り畳み、懐に戻していた。何事もなかったように。
「……クロエさん」
「はい」
「あの調査令状、国王陛下の署名でしたよね」
「はい。行政府の調査は、国王の権限で行われます」
「……調査員が国王陛下の署名入りの令状を持っているのは、普通のことなんですか」
クロエの手が、一瞬だけ止まった。
「重要な調査には、相応の権限が付与されます」
それ以上は語らなかった。
いつもの抑制的な声。いつもの必要最小限の回答。でも──。
(この人は、ただの調査員じゃない)
伯爵邸での完璧な口上。鉋を使いこなす手。一度も曲げなかった釘。国王の署名入りの調査令状。使者を一歩も退かせなかった、あの冷たい声。
全部が──「行政府から来た執事兼調査員」の範疇を超えている。
(……何者なの、この人は)
聞きたかった。でも聞けなかった。
今日この人がわたしを守ったのは事実だ。制度を盾にして、国王の署名を使って、王太子の命令を跳ね返した。理由はわからない。調査が終わっていないからかもしれない。それだけの理由かもしれない。
でも──使者に向かって「身柄移送は認められません」と言った時、この人の声が。
(……震えていた)
気のせいかもしれない。あまりにも冷静で、あまりにも正確な言葉だったから、震えなんて混じる余地がないように聞こえた。
でも、わたしは薬草の微量成分を見分ける目を持っている。微かな違いに気づく観察眼を持っている。
あの声は──震えていた。ほんの、かすかに。
「……ありがとうございました。クロエさん」
「仕事です」
いつもの一言。
でも今日は、それを聞いて笑えなかった。
◇
夜。
蝋燭を消して、寝台に潜り込んだ。今日の疲れが一気に来て、身体が重い。目を閉じれば眠れるはずだ。
──奥の部屋から、かすかな音がした。
何かを──叩くような。いや、違う。握り締めるような。拳が、何かに当たる音。
それから、沈黙。
長い沈黙の後──声が聞こえた。
とても小さな声。壁越しに、かろうじて届く程度の。
「──あと少しだけ」
クロエの声だった。
「あと少しだけ……このままで」
──何が、「あと少し」なのだろう。
調査のことだろうか。調査が終わればこの人は王都に帰る。「このまま」とは、辺境にいるということ。調査員として、ここに。
(……そうだよね。この人だって、いつかは帰るんだ)
当たり前のことだ。クロエは王都の人間で、辺境の人間ではない。調査が終われば去る。棚を作ってくれて、お茶を淹れてくれて、雨の日に外套をかけてくれた人は──いなくなる。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が、きゅっと痛んだ。
──眠ろう。明日も患者が来る。
目を閉じた。
壁の向こうは、もう静かだった。




