第6話 眠れない夜の、甘い茶
最近、眠る時間が惜しいと思うようになった。
やることが多すぎる。薬草の品種改良。精製法の改良。新しい軟膏の配合。患者ごとに違う症状に合わせた処方の記録。乾燥棚の管理。畑の水やり。
一日が二十四時間では足りない。三十時間あってもたぶん足りない。
(……前世の研究室でも似たようなことを思っていた気がする)
あの頃は標本と論文。今は薬草と患者。変わったのは対象だけで、のめり込む性質は前世から変わっていないらしい。
◇
薬草園が本格稼働し始めたのは、伯爵邸から戻ってすぐだった。
きっかけは、村人たちだ。
「リーネ先生、あの畝の雑草、わしらが抜いとくよ」
「水汲みくらいなら手伝えるわい」
「うちの嫁が、乾燥棚の番をしたいと言うとるんじゃが」
いつの間にか、畑に村人が入るようになっていた。ルカの治療の後、一人、また一人と声をかけてくるようになって──気がつけば、五人の村人が交代で薬草園の作業を手伝ってくれている。
わたしが払えるのは、薬草の現物くらいだ。でも村人たちは「先生に治してもらった分の恩返しだ」と笑う。
(ありがたい。本当に)
おかげで栽培を体系化できた。区画ごとに責任者を決めて、収穫時期と乾燥方法を指導して。前世では研究室の助手にやってもらっていたことを、ここでは村のおばさんたちがやってくれている。
診療所の患者も増え続けていた。近隣の集落どころか、山を二つ越えた先の村から馬で三時間かけて来る老人までいる。
「先生のところに行けば治る」という噂が、辺境全体に広がっているらしい。
──嬉しい。
嬉しいのだけれど、身体がついてこない。
◇
その夜も、蝋燭が三本目になっていた。
精製ノートを書いている。ヨモギギクの精油と銀葉草の消炎成分を組み合わせた新しい軟膏の配合比。前世の論文では三対一だったが、この世界の銀葉草は成分が濃いから、四対一のほうが──。
視界がぼやけた。
瞬きをする。文字がにじんで見える。眠い。でもまだ書き終わっていない。明日の朝一番に来る患者の分の煎じ薬も仕込まないと──。
──がたん。
目の前のノートの上に、湯気の立つ茶碗が置かれた。
顔を上げると、クロエが立っていた。わたしの手から羊皮紙を取り上げて、代わりに茶碗を押し付ける。
「報告書が書けなくなると困ります」
低い声。いつもの抑揚のない口調。
「……え」
「休んでください。明日の仕込みは朝でも間に合います」
「いや、でもまだ配合比が──」
「お茶を飲んでください」
有無を言わせない語調だった。
仕方なく茶碗を受け取る。両手で包むと、温かい。じんわりと指先から熱が伝わってくる。
一口飲んだ。
「……おいしい」
ハーブの味がした。
甘くて、少し青くて、喉を通った後に花のような余韻が残る。どこかで飲んだことがある──いや、飲んだことがあるのは前世だ。研究室で夜遅くまで論文を書いていた時、自分で調合して飲んでいたハーブティー。カモミールとレモンバームとミントを混ぜた──。
(似てる。すごく似てる)
一ヶ月くらい前に、伯爵邸に向かう道中で何気なく言ったんだ。「前世で好きだったんですよ、こういうハーブの味。甘くて青い感じの」って。
(偶然かな。辺境にある薬草で作ったら、たまたまこういう味になったのかも)
もう一口飲む。温かい。胸の奥まで染みていく。
「……ありがとうございます。おいしいです」
クロエは何も言わず、壁際に戻って手帳を開いた。
◇
翌日の昼。
診療所に患者が三人続いた。腰痛のおじいさん、手荒れのおばさん、喉の腫れた少年。
少年の喉を診ている時、背後でクロエの声がした。
「リーネ殿」
「はい?」
「今日の昼食は」
──あ。
「……食べてないです」
「朝食は」
「……粥をひと匙」
沈黙が落ちた。
少年の治療を終えて送り出した後、クロエがわたしの前に立った。いつもより近い。一歩分、距離が近い。
「無理をしないでください」
声が──違った。
いつもの抑制的な低い声ではなかった。語尾が少しだけ尖っていて、息が混じっていて。
怒っている。
この人が怒ったのを、わたしは初めて見た。伯爵邸で完璧な口上を述べた時も、山道で先を歩いた時も、雨に濡れて患者を送った時も、この人の声は一度も揺れなかった。
それが今──揺れている。
「食事を抜いて倒れたら、患者が困ります」
「……」
「診療所を閉じるわけにはいかないでしょう」
正論だ。完璧な正論。でも、この人の声が尖っているのは、正論だからじゃない。
「……ごめんなさい。心配させましたか」
素直に謝った。
クロエの目が、一瞬だけ揺れた。
「……心配、ではなく。報告書に支障が」
語尾が、萎んでいく。
「支障が……」
続きは、出てこなかった。
クロエは口を閉じて、壁際に戻った。手帳を開く。ペンを取る。でも──しばらく、何も書かなかった。
(報告書に支障が、じゃないでしょう)
そう思ったけれど、口には出さなかった。
この人は、言葉で気持ちを伝えるのが苦手なのだ。手拭いを差し出すこと。棚を作ること。外套をかけること。茶を淹れること。全部、手で。全部、行動で。
──でも今日、初めて声が揺れた。
それだけで十分だと思った。
(ちゃんと食べよう。この人に心配をかけないように)
夕方、クロエが黙って竈の前に立っていた。鍋から湯気が上がっている。粥よりずっと具の多いスープが出来上がって、わたしの前に置かれた。
「……作ってくれたんですか」
「自分の分のついでです」
またその言い訳。でも、わたしの椀のほうが明らかに具が多い。
全部食べた。温かかった。
◇
深夜。
わたしはもう寝台に入っていた。クロエに怒られたので、今日は素直に早く寝る。
──外で、馬の蹄の音がした。
こんな時間に。
身体を起こしかけて、止まった。奥の部屋でクロエが動く気配がする。扉が開いて、外に出ていく足音。
しばらくして、低い話し声が聞こえた。クロエと──知らない声。男の声。短いやり取り。何かを手渡す音。
クロエが小屋に戻ってきた。
わたしは目を閉じて、寝たふりをした。
──奥の部屋で、紙を開く音。
そして──沈黙。
長い、長い沈黙。
クロエが何かを読んで、黙っている。いつもならペンが紙を走る音がすぐに聞こえるのに、今夜はない。
(何だろう……密使? こんな夜中に)
気になったけれど、覗く気にはなれなかった。深夜に届く手紙に、良い知らせはない。それくらいは分かる。
やがて、紙を折り畳む音がして──寝台のきしむ音がした。
クロエが横になった。
いつもなら蝋燭を灯して手帳を書く音がするのに、今夜はそれもなかった。
◇
翌朝。
目が覚めると、いつも通り薪が割ってあって、水瓶が満たされていて、竈の上にスープがあった。
クロエは壁際に座って手帳を書いていた。いつも通り──に見えた。
でも。
「クロエさん、今日は顔色が悪くないですか?」
スープを啜りながら聞いた。
目の下が暗い。肌の色がいつもよりくすんでいる。わたしは薬草の観察で色の変化に敏感だから、こういう違いに気づく。
クロエは手帳から目を上げて、一拍置いた。
「よく眠れなかっただけです」
低い声。平坦な抑揚。いつもの──。
いや。
いつもと同じ声なのに、何かが違う。わたしの勘がそう告げている。でも、何が違うのかは分からない。
「……そうですか。無理しないでくださいね」
昨日、自分が言われた言葉をそのまま返した。
クロエの指先が、ペンの上で一瞬だけ強張った。
「……ええ」
それきり、手帳に視線を落とした。
朝日が窓から差し込んで、薬草の乾燥棚を照らしている。甘い青い香りが部屋に満ちている。いつもの朝。いつもの辺境。
──でも、何かが変わり始めている気がした。
気のせいかもしれない。
わたしはスープの残りを飲み干して、診療所の準備に取りかかった。今日の最初の患者は、手の関節が曲がりにくいという老婆だ。軟膏の配合を確認して、布を用意して──。
やることは、いくらでもある。
だから今日も、目の前のことをする。
ただ──昨夜のクロエの長い沈黙と、今朝の「よく眠れなかっただけです」が、薬草の匂いの奥にうっすらと残っていた。




