第5話 伯爵と、席順と、半分の荷物
「辺境に薬師がいると聞いた。伯爵閣下の元へ来ていただきたい」
使者は正装だった。
紋章入りの上着、磨かれた長靴、革の手袋。辺境の診療所の前に立つその姿は、泥と薬草にまみれた風景の中でひどく浮いていた。
隣領のブラント伯爵。持病の慢性関節痛が悪化して寝込んでいるという。
「……伯爵閣下が、わたしを?」
「辺境の薬師の噂は隣領にも届いております。閣下は半年前に聖女様の治癒を受けられましたが、再発なさいまして」
聖女の治癒で、再発。
その一言が、胸の奥に小さく引っかかった。
(治癒魔法は根本治療じゃない──炎症を一時的に抑えるだけだ)
前世の知識が囁く。関節の慢性炎症は、原因を取り除かなければ必ず再発する。治癒魔法がどれほど強力でも、炎症の根を断たなければ同じことの繰り返しだ。
「伺います。薬草の準備に半日ください」
使者が安堵の顔で去った後、わたしは診療所に戻って薬箱を開けた。
銀葉草の消炎成分。ヨモギギクの鎮痛精油。カノコソウの筋弛緩剤。関節の深部に届く浸透性の高い軟膏を作るには、この三つを特定の比率で──。
「同行します」
振り返ると、クロエが外套を羽織っていた。
「伯爵領までの道は山を一つ越えます。荷物もあるでしょう」
断る理由がない。薬草の箱は重いし、山道を一人で行くのは不安だ。
「……助かります。お願いしてもいいですか」
クロエは頷いて、薬箱を一つ持ち上げた。
◇
道中は、思ったより長かった。
辺境の村を出て、低い丘陵を越え、川沿いの道を下る。秋の風が冷たくて、吐く息が少し白い。薬草の箱を二つ抱えたクロエが前を歩き、わたしは残りの一つと布の肩掛け鞄を持って後を追う。
クロエの歩幅に合わせて歩いていると、ふと口から出た。
「クロエさんがいると、荷物が半分になって助かります」
何気ない一言だった。
本当に、ただそう思っただけ。一人で三箱を運ぶのは重かったし、クロエが来てくれたおかげで身体が楽になった。それだけの意味のつもりだった。
──クロエの手が、一瞬止まった。
薬箱を持つ指先が強張って、次の一歩が半拍遅れた。
わたしが追いつきかけた時には、もう普通の歩幅に戻っていた。
(……足場が悪かったのかな)
山道だから仕方ない。わたしもさっき石に足を取られた。
「伯爵閣下の症状について、事前に分かっていることはありますか」
クロエが、いつもの抑揚のない声で聞いた。
「使者の話だと、半年前に聖女様の治癒を受けたけれど再発した慢性関節痛。おそらく膝か腰の大関節で、日常生活に支障が出るレベル」
「治癒魔法で治らないものを、薬草で」
「治癒魔法は症状を消すだけで、原因は残るんです。薬草なら──根本の炎症を抑え込めます。たぶん」
「たぶん、ですか」
「……まあ、やってみないと分からないところもありますけど」
正直に言った。嘘をついても仕方がない。
クロエは何も言わなかった。ただ歩幅を少しだけ狭めて、わたしが遅れないようにした。
(……気を遣われてる?)
いや、たぶん山道が険しくなってきたからだろう。そういうことにしておく。
◇
ブラント伯爵邸は、石造りの堅実な屋敷だった。
華美ではないが、隅々まで手入れが行き届いている。門番に案内されて屋敷に入ると、廊下は蝋燭ではなく油灯で明るく照らされていた。辺境の小屋とは別世界だ。
治療室──と言っても伯爵の私室だが──に通されると、寝台に横たわった大柄な男がいた。
ブラント伯爵。四十代後半。日に焼けた顔に、白髪交じりの髭。実直そうな目がわたしを見上げた。
「あんたが辺境の薬師か。……若いな」
「リーネ・ヴァレンシュタインです。閣下のお身体を拝見してもよろしいでしょうか」
「ああ、好きにしてくれ。もう半年も杖がないと歩けんのだ。聖女様の治癒を受けた直後は楽になったが、三ヶ月で元通りだ」
膝に触れた。右膝。熱を持っている。腫れは中程度。可動域が明らかに狭い。
(やっぱり。滑液包の慢性炎症だ。治癒魔法は腫れを引かせただけで、滑液包そのものの炎症を止めていない)
軟膏を取り出した。銀葉草の消炎成分を主軸に、ヨモギギクの鎮痛精油で痛みを抑え、カノコソウの筋弛緩剤で周囲の筋肉の緊張を解く。三層に分けて塗り込む。
「……温かいな」
伯爵が呟いた。軟膏が浸透し始めたのだ。
「十分ほど、そのままでいてください」
待つ間、伯爵はわたしの手元をじっと見ていた。薬草を計量し、混ぜ合わせ、布で患部を包む工程を、無言で観察していた。
十分後。
「……立ってみてくれますか」
伯爵が寝台に手をつき、ゆっくりと膝を伸ばした。
──杖を、取らなかった。
そのまま、二歩。三歩。
「痛みが……ない」
伯爵の目が見開かれた。
「いや、完全にないわけではないが──この半年で一番楽だ。聖女様の治癒の直後よりも」
(よかった)
胸の奥で、小さく息をついた。
「軟膏は朝と夜に塗り直してください。炎症が根本から治まるまで、二週間ほどかかります。その間は無理な運動を避けて」
「二週間で根本治療だと? 聖女様の治癒は、三ヶ月で再発したぞ」
「薬草は炎症の原因に直接働きかけますから」
伯爵がじっとわたしの顔を見た。何かを量るような目だった。
◇
晩餐に招かれたのは、予想外だった。
「治療の礼だ。遠慮するな」
伯爵にそう言われて断れるはずもなく、わたしとクロエは食堂に案内された。
──問題はすぐに起きた。
「こちらへどうぞ」
給仕がわたしを案内した先は、長いテーブルの末席だった。伯爵の隣ではなく、一番端。
当然だ。
わたしはヴァレンシュタイン男爵家の令嬢だった──いや、「だった」。今は断罪されて追放された身。爵位もなければ身分もない。伯爵家の食卓で、上座に座る理由がない。
(分かってる。こういうものだって、分かってる)
それでも、胸の奥がきゅっと締まった。診療所では「リーネ先生」だけれど、貴族の世界に戻ればわたしはただの追放者だ。
椅子に手をかけた時──。
「失礼いたします」
クロエの声がした。
振り返ると、クロエが一歩前に出ていた。背筋がまっすぐ伸びて、顎がわずかに上がっている。いつもの抑制的な低い声が、食堂の空気を静かに切った。
「こちらは、本日伯爵閣下に薬草をお届けし、治療をお務めになった辺境管理官リーネ殿です。閣下のご容体を快方に導かれた功労者として、然るべき席をお願いいたします」
──何。
給仕が固まった。伯爵も、手を止めた。
辺境管理官。然るべき席。
その口上は──。
(執事の言い方じゃない)
頭の片隅でそう思った。あの言葉遣い、あの声の通し方。宮廷で貴族を紹介する時の正式な口上だ。調査員がなぜそれを──。
「……ふむ」
伯爵が、顎髭を撫でた。
「そうだな。命を救ってくれた人間を端に座らせるのは、わしの礼儀に反する。──リーネ殿、こちらへ」
伯爵自身が、上座の隣の席を指した。
わたしは、目を瞬かせたまま──そこに座った。
(……何が起きたの)
心臓がどくどく鳴っている。末席から上座に。追放された令嬢が、伯爵の隣に。
クロエは何事もなかったように、わたしの後ろに控えた。いつもの無表情。
◇
料理が運ばれてきた。
辺境では見たことのない品々。焼いた鳥肉に蜂蜜と香草のソース。柔らかいパンに燻製の魚。温かいスープの湯気が立つ。
──久しぶりの、ちゃんとした食事だった。
(泣きそう)
泣かない。貴族の食卓で泣いてたまるか。
「リーネ殿」
声をかけてきたのは、伯爵の隣に座っていた青年だった。栗色の髪に、父親譲りの実直そうな目。二十代前半だろうか。
「息子のディルクだ」
伯爵が紹介した。
「父がお世話になりまして。辺境で薬師をされているとか──素晴らしいですね。お一人で全ての薬草を?」
「いえ、クロエさんに……調査員に手伝ってもらっています」
「それでも、辺境であれだけの治療を。僕は感服しました。よろしければ、辺境の薬草についてもっと詳しく──」
ディルクは、身を乗り出すようにして話しかけてきた。
好意的だ。興味深そうに目を輝かせて、わたしの話を聞こうとしてくれている。こういう反応は──嬉しい。辺境の薬草に興味を持ってくれる貴族がいるというだけで、報われる気がする。
──がたん、と。
小さな音がした。
わたしの椅子が、ほんの僅かに動いた。
後ろを見たが、クロエは壁際に立ったまま、こちらを見ていない。
(……気のせい?)
椅子の位置が、さっきよりほんの少しだけ──クロエのいる壁際に近づいた気がする。
いや、床が傾いているのかもしれない。古い屋敷だし。
「それで、銀葉草はどのような──」
ディルクの質問に意識を戻した。
◇
帰り支度の時だった。
「リーネ殿」
伯爵が廊下まで見送りに出てきた。杖を持っていたが、さっきより足取りが軽い。
「辺境管理官として、あんたの功績を正式に王都に推薦する。推薦状を書いて送ろう」
──推薦状。
伯爵の推薦状は、貴族社会では重い。隣領の領主が公式に認めたという事実は、辺境のわたしの立場を大きく変えうる。
そして──あの神殿の「辺境の薬は危険」という通達への、公式な反論にもなる。伯爵自身が治ったのだから。
「ありがたいお言葉です。ですが──わたしは辺境のことだけ考えていればいいので」
口から出たのは、本心だった。
推薦状は嬉しい。でもわたしが欲しいのは、王都での名誉じゃない。辺境の患者が一人でも楽になること。それだけでいい。
(モブはモブらしく、目の前のことをやるだけだ)
伯爵は少し目を細めて、頷いた。
「……そういう人間だから、推薦するんだ」
その言葉に返事をしようとした時、ふと──後ろで小さな気配が動いた。
振り返ると、クロエがいた。
口元が──微かに、ほんの微かに、緩んでいた。
笑った。
この人が笑ったのを、わたしは初めて見た。
雪の彫像に、一瞬だけ日が差したような。すぐに消えてしまうような。でも確かに──あれは、笑みだった。
「……クロエさん、今笑いました?」
「いいえ」
即答。
嘘だ。絶対に笑っていた。
でも追及しても無駄だということは、もう知っている。この人は口を割らない。言葉じゃなくて手で話す人。
──帰りの馬車が待っていた。
伯爵邸を出て、揺れる荷台に座る。薬箱が軽くなっている。軟膏を置いてきたからだ。
夕焼けが山の向こうに沈んでいく。辺境の方角に──あの小屋がある。
馬車の向かいで、クロエが手帳に何かを書いている。蝋燭もないのに、揺れる荷台の上で器用に文字を綴っている。
(この人の報告書には、今日のことが何て書かれるんだろう)
「辺境の追放令嬢、伯爵の持病を治療」。「聖女の治癒魔法で再発した症例を、薬草で根本治療」。
──事実だけ書けば、それは十分に異常なことだ。
聖女様の治癒より、モブ令嬢の薬草の方が効いた。
(……わたしは、そういうことを目指しているわけじゃないんだけどな)
ただ、目の前の膝が痛い人を楽にしたかっただけ。
馬車が揺れる。夕闘が褪せて、空が紺色に変わっていく。
クロエの手帳を持つ指先が、暮れなずむ光の中で動いている。その横顔は──やっぱり、笑ってはいなかった。
でも。
さっきの一瞬を、わたしは覚えている。
伯爵の推薦状が王都に届いたら、何が起きるだろう。辺境の追放令嬢の名前が、もう一度王都の貴族たちの耳に入る。あの断罪の場にいた人たちの耳に。
──考えても仕方ない。
今はただ、辺境に帰ろう。明日の患者が待っている。
馬車の窓から、最初の星が見えた。




