第20話 聖域
馬車の窓から、辺境の風が入ってきた。
──薬草の匂いがした。
甘くて、少し青くて、清涼感のある匂い。銀葉草とフユハッカが混ざった、あの匂い。辺境に近づくにつれて、空気が変わっていく。王都の石と煤の匂いから、土と草と水の匂いに。
窓の外に、見慣れた丘陵が広がり始めていた。
王都を発って、何日経っただろう。街道の景色が変わり、空気が変わり、やがて見慣れた丘陵が窓の外に広がり始めた頃──馬車の窓から、辺境の風が入ってきた。
馬車の中は、二人きりだった。
向かいの席にクロードが座っている。手帳は閉じている。ペンも出していない。膝の上に手を置いて、窓の外を見ている。
──数日間、この人はほとんど喋らなかった。
大会議の後、廊下で「伝えたいことがある」と言いかけて──人の波に遮られた。あれからずっと、クロードは黙っていた。王都の事務処理に追われて、わたしも聞く機会がなくて。
馬車が揺れる。車輪が砂利を噛む音。馬の蹄のリズム。窓から入る風が、わたしの髪を少しだけ揺らした。
「リーネ殿」
クロードの声がした。
低い声。いつもの──いや、いつもより少しだけ、息が混じっている。
「はい」
「あの日──」
言葉が途切れた。
クロードの手が、膝の上で──握りしめられていた。指の関節が白くなっている。
(この人は、言葉を探している)
棚を作り、薪を割り、茶を淹れ、外套をかけ、毛布を折り、銀葉草を置いた──全部、手で話してきた人が。今、言葉を。
「断罪の場で」
声が戻った。低く、静かで、でも──震えていた。
「あなたが泣かなかった時」
馬車が揺れた。車輪が石を踏む音がして、二人の身体が少しだけ傾いた。
「議事録を請求した時」
クロードの灰色の目が──わたしを見た。
「わたしは──あの瞬間から、あなたを見ていました」
──息が、止まった。
「泣くのではなく、証拠を取りに行った。弁明ではなく、記録を求めた。──あの広間で、誰もあなたの名前を呼ばなかった。誰も庇わなかった。それでもあなたは──」
声が途切れかけた。顎が引き締まった。でも──続けた。
「立っていた。一人で。まっすぐ」
(あの日を──見ていたの)
断罪の日。わたしが泣かなかった日。王太子に議事録を請求した日。
あの広間のどこかに──この人がいた。第二王子として。国王の密命を受ける前の──まだ、ただの王族の一人として。
「あの瞬間に──この人を見たいと思いました」
クロードの声が──揺れた。かすかに。使者の前で国王の令状を突きつけた時も揺れなかった声が。
「それが密命の始まりでした。辺境に行く口実ができて──良かった、と。……身勝手だと、分かっています」
(──ああ)
分かった。
全部。
棚の角を丸めていたのは、わたしが手をぶつけないように。毛布の折り返しが肩幅にぴったりだったのは、わたしの身体の大きさを覚えていたから。粥の果実が増えたのは──あの日、ディルクが花をくれた翌朝だった。茶の味がどの土地でも同じだったのは、わたしが「好き」と言った味を、毎回作っていたから。
銀葉草を置いたのは──わたしの「始まり」を、この人が覚えていたから。
全部──手で。全部──黙って。全部──言葉にできないから。
「わたし──」
声が出なかった。喉が詰まっていた。
「わたしは薬草しか取り柄のないモブなのに」
泣いていた。
いつから泣いていたのか分からない。頬が濡れていた。鼻の奥がつんとして、視界がぼやけて、声がみっともなく震えていた。
断罪の日にも泣かなかった。辺境に来た日にも泣かなかった。父の手紙で泣いた。クロードが去った夜に泣いた。──でも、こんなふうに泣いたのは初めてだった。
クロードの声が──静かに返った。
「薬草しか取り柄がない人間が、王国の医療を変えました」
──あ。
「六十七人の患者を治しました。聖女の治癒で救えなかった子供を救いました。毒を仕込まれても、証拠と数字で跳ね返しました」
声に──温度があった。
「それを──『モブ』と呼ぶのは、わたしが許しません」
(なんだ、それ)
笑ってしまった。泣きながら。
(なんだ、その言い方)
この人らしい。感情を言葉にするのが苦手で、不器用で、でも──言う時は、こういう言い方をする。「好きです」ではなく。「あなたが大切です」でもなく。
「わたしが許しません」。
(……ばか)
◇
しばらく、馬車の中は静かだった。
わたしが涙を拭いている間、クロードは黙っていた。手帳も開かない。茶も淹れない。ただ、向かいの席に座って──待っていた。
涙が止まった頃、クロードが口を開いた。
「辺境管理官の執事として、正式に雇用していただきたい」
──は。
「執事として。薬草院の運営補佐、記録管理、薬草の運搬、棚の修繕──を、業務内容として」
「ちょっと待ってください」
「待ちます」
「いえ、そうじゃなくて──殿下に執事なんて」
「クロエです」
──同じ台詞だった。
辺境に戻ってきた夕方。五歩の距離で、「ここに居てもいいですか」と言った日。勅命を受けて旅立つ前の作業場。「ここでは、クロエです」と名乗り直した日。
そして──今。
三度目の「クロエです」。
告白の言葉は使わない。「好きです」とは言わない。代わりに──「あなたのそばにいる」ことを、「雇用」という形で。
(この人らしい)
──泣き笑い、というのは、こういう顔のことを言うのだと思った。
泣いている。まだ涙が残っている。でも、口元が上がっている。笑っている。みっともない顔だと思う。こんな顔、鏡で見たくない。
「……お茶、淹れてくださいね」
声がかすれていた。
クロードの口元が──緩んだ。
あの笑み。伯爵邸の帰り道で一瞬だけ見えた笑みの欠片。辺境に戻ってきた夕方に、初めて完全な形になった笑顔。
──今、三度目の笑顔。
「……はい」
低い声。静かな声。でも──温かい。
クロードの手が──伸びた。
わたしの手に。
初めてだった。
手拭い、外套、茶碗、毛布、銀葉草──全部、「物」を介して触れていた。今まで一度も、直接──。
大きな手が、わたしの手を包んだ。
手のひらを、包み込むように。指先まで、全部。温かかった。この人の手は──温かかった。
(ああ)
馬車が揺れた。窓の外に、辺境の丘陵が広がっている。秋の光が斜めに差し込んで、薬草園の緑が金色に縁取られている。
手を──握り返した。
◇
村の入口で、馬車が止まった。
扉を開けた瞬間──。
「リーネ先生!」
ルカが走ってきた。
この一年で、また少し背が伸びていた。頬が赤くて、声が大きくて、咳なんてもうどこにもない。
「先生おかえり! 薬草園、ちゃんと守ったよ! 銀葉草も枯らしてないよ!」
「えらい。ありがとう、ルカ」
頭を撫でた。柔らかい髪。
トマスが歩いてきた。腕を組んで、いつもの仏頂面。
「遅かったな、先生」
「すみません。少し──いろいろありまして」
「いろいろ、な。──まあ、無事でよかった」
しわくちゃの顔が──ほんの少しだけ、緩んだ。
村人たちが集まってきた。畑を守ってくれたおばさん。隣の集落の老人。手荒れの少女。みんな──笑っている。
「先生の薬が国中に広がるんだって?」
「王様のお墨付きらしいぞ!」
「うちの村から出た薬だ。自慢だわい」
(帰ってきた)
──ここに。
◇
診療所に入った。
薬草の匂い。乾燥棚に吊るされた束。クロエさんが作った三段の棚。壁際に積まれた薪。全部──ここにある。
机の上に、手紙が一通置いてあった。
白い封筒に、丁寧な文字。封蝋はない。代わりに──小さな花の押し花が挟んであった。
開けた。
『リーネ様
大会議でのご報告、立派でした。
わたしは──あの場で証言できて、よかったと思っています。怖かったけれど、後悔はしていません。
お願いがあります。
薬草を学びたいのですが、辺境に伺ってもよろしいでしょうか。治癒魔法と薬草が補い合えると、あなたはおっしゃいました。わたしも──そう信じたいのです。
お返事をお待ちしております。
エリーゼ・フォーゲル』
手紙を読み終えて──笑った。
(来ればいい。いつでも)
手紙を畳んで、鞄にしまった。議事録の写しと、銀葉草の束の隣に。
──竈に火をつけた。
湯を沸かす。薬草の瓶を棚から下ろす。甘くて青い味の配合は──クロエさんの方がうまい。でも、今日はわたしが淹れる。
茶碗をふたつ。
振り返ると、クロエさんが──クロードが、診療所の入口に立っていた。執事服。黒い上着に白い襟。辺境の夕日を背にして。
「どうぞ。中に入ってください」
「……はい」
扉をくぐった。
隣の椅子に座った。壁際ではなく。手帳は閉じたまま。
茶碗を渡した。両手で受け取る。指先が──触れた。さっき馬車の中で包んでくれた手。温かかった。まだ温かい。
窓の外に、辺境の夕焼けが広がっていた。
秋の空は高くて、橙と紫が混ざり合って、薬草園の緑が最後の光に照らされている。
お茶を一口飲んだ。
──甘い。少し青い。花のような余韻。
うまくいった。
「……おいしくできました」
「はい」
隣を見た。
クロードが──茶碗を両手で包んで、湯気の向こうから、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
(ああ──この人がいる)
帰る場所がある。薬草がある。患者がいる。村人がいる。
そして──隣に、お茶の温かい人がいる。
辺境の空が、暮れていく。ゆっくりと。穏やかに。
──人生ままならない。本当に、ままならない。
でも、たまに。ほんのたまに──思いがけず、甘いことがある。
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