第19話 大会議
「明日は、あなたの後ろに立ちます」
夜の廊下で、クロードの声は低く、静かだった。
大会議の前夜。宿の部屋で資料を整理していたら、扉が叩かれた。開けると、クロエさんが立っていた。手帳も書状も持っていない。手ぶらだった。
「……後ろ、ですか」
「前ではなく」
一週間。
「足枷にはなりません」と言ってから、わたしたちはほとんど口をきいていなかった。必要最低限のやり取りだけ。記録の確認、旅程の調整、薬草の在庫。全部──仕事の話だけ。
銀葉草の束のことは、聞けなかった。聞いたら何かが決定的に変わってしまう気がして。
「明日、わたしは薬草院の院長として立ちます」
自分に言い聞かせるように、言った。
「殿下の庇護ではなく、自分の力で。──数字と証拠で」
「知っています」
クロエさんの灰色の目が──まっすぐだった。
凍っていた一週間が、嘘みたいだった。あの目に温度が──戻っている。
「だから──明日は、あなたの後ろに立ちます。前ではなく」
護衛なら、前に立つ。盾になるなら、前に立つ。
後ろに立つ、というのは──。
(見守る、ということ)
前に出ない。代わりに戦わない。わたしが壇上に立って、わたしの言葉で、わたしの数字で戦うのを──後ろから見ている。
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。
クロエさんは小さく頷いて、廊下を去っていった。足音が遠ざかって、消えた。
部屋に戻って、資料の束を見下ろした。治療実績の数字。毒の分析結果。レギーナの犯行ルートの証拠。エリーゼとの事前の確認。全部──ここにある。
懐に手を当てた。
議事録の写しと、銀葉草の束。
(明日で、終わる)
◇
大会議場は、王城の東棟にあった。
高い天井。石壁に掛けられた王家の紋章旗。長い楕円形の机。椅子が三十以上。
(ここに来るのは、二度目だ)
一度目は──名誉回復の日。辺境管理官として末席に座り、数字を報告し、議事録を読み上げた。
今日は──薬草院院長として。
席に着いた。末席ではない。国王の勅命を受けた機関の長として、中央寄りの席が用意されていた。
会場を見渡す。
正面の上座に──国王陛下。白髪交じりの厳しい目。
国王の右手には空席。元王太子アルヴィンの席は──もう、ない。
国王の左手に──クロード。白と紺の軍服。金の飾緒。王族の正装。
その目がわたしに向いた。一瞬だけ。すぐに正面に戻した。
(後ろに立つ、と言った)
席は国王の隣だけれど──壇上ではわたしの後ろに控えると、そう言った。
会場の奥に、神殿の席があった。
白い法衣の男。五十代。柔和な笑みを浮かべた顔。──神官長ヴェルナー・ゾンマー猊下。
その隣に、白い聖衣の少女。エリーゼ。
エリーゼの目がわたしを見つけた。大きな青い目が──頷いた。小さく。わたしにだけ分かる角度で。
(大丈夫。準備はできている)
さらに奥。社交界の席に──レギーナ・モルゲン子爵夫人。栗色の巻き髪に真珠の耳飾り。完璧な微笑み。
(全員揃った)
◇
領主たちの報告が順に進んだ。
わたしの番が来た。
「王国薬草院院長、リーネ・ヴァレンシュタイン。報告をお願いいたします」
立ち上がった。
──背後に、足音がした。
クロードが席を立って、わたしの後方に──控えた。一歩後ろ。前ではなく。
(約束、守ってくれた)
壇上に進んだ。
「王国薬草院の活動報告を申し上げます」
数字を並べた。
巡回した領の数。治療した患者の総数──延べ六十七名。症例ごとの改善率。治癒魔法で再発した慢性症例を薬草で根本治療した件数──十一件。各領の領主からの評価書。ブラント伯爵の推薦状の写し。ノイマン伯爵夫人の治療記録。
数字だけ。事実だけ。感情は入れない。
──会場が、静かになっていた。最初の数字が出た時点で、何人かの領主が顔を上げた。治癒魔法の再発症例を根本治療した件数が出た時には、ざわめきが走った。
「以上が、薬草院の実績です」
◇
「お待ちください」
声がした。柔和な声。穏やかで、品があって──毒がない、ように聞こえる声。
ヴェルナー神官長が立ち上がっていた。
「薬草院の実績は結構なことです。しかし──安全性の問題が未解決ではありませんか」
白い法衣の裾がさらりと揺れた。ヴェルナーは壇に進み出ず、席に立ったまま──会場全体に声を通した。弁論の技術が高い。声の使い方が、うまい。
「先日の毒混入事件をお忘れですか。薬草院から出荷された薬で、患者が体調を崩しました。──薬草の安全性は、まだ保証されていません」
会場がざわめいた。領主たちの中に──頷く者がいた。
(来た)
想定通りだった。ヴェルナーが毒事件を持ち出すことは、分かっていた。
「神官長猊下のご懸念にお答えします」
声が震えていないことを、自分で確認した。
「毒混入事件について、分析結果をご報告いたします」
書面を取り出した。ブラント伯爵の名で配布した分析結果の原本。
「混入されていた毒は、トリカブト系のアルカロイドです。辺境の薬草園にトリカブト系の植物は存在しません。この毒は──王都近郊の特定の薬種商でしか流通していない原料です」
ヴェルナーの顔が──動かなかった。柔和な笑みのまま。
「つまり、毒は外部から持ち込まれました。薬草院の薬草そのものは安全です」
「外部から持ち込まれた、とおっしゃいますが──それは推測では」
「証拠があります」
声がした。わたしの後ろから。
クロードが──一歩前に出た。ただし、わたしの隣ではない。半歩後ろ。
「第二王子クロード・ルクレシア。薬草院の護衛を務める中で、毒の調達ルートを調査いたしました」
書類の束が、机の上に広げられた。
「王都近郊の薬種商の取引記録です。トリカブト系原料を購入したのは──モルゲン子爵家の使用人」
会場が──息を呑んだ。
レギーナの顔から、微笑みが消えた。
「さらに、南部丘陵地帯の宿場の帳簿。モルゲン家の名前で中継地点に滞在し、薬草の荷に接触した記録があります」
クロードの声は冷たかった。事実を述べているだけだ。感情はない。でもその事実が──刃だった。
「そして──モルゲン子爵夫人が、神殿からの寄進返礼金に財政的に依存していることを示す文書。薬草院が神殿の治癒事業を脅かせば、子爵家の収入源が失われる。──動機です」
レギーナが立ち上がりかけた。唇が震えている。「それは──」
「加えて」
クロードが続けた。
「神殿の治癒事業の会計記録に、不整合が確認されました。過去二十年間の『お布施』の使途が不透明であり、一部が──」
「異議あり!」
ヴェルナーが声を上げた。柔和な笑みが消えていた。
「神殿の内部会計に王族が口を出すのは──」
「神殿の会計記録は公文書です。改竄は神殿法で重罪。──開示を求めているだけです」
クロードの声に、感情はなかった。ただ──法を。事実を。
ヴェルナーの口が閉じた。
◇
沈黙の中で──白い衣が揺れた。
エリーゼが立ち上がっていた。
聖衣の裾を掴む指先が──白くなっている。震えている。でも──目は、真っ直ぐだった。
「わたしは、新聖女エリーゼ・フォーゲルです」
小さな声。でも、静まり返った会場に──響いた。
「神官長猊下に──薬草院について、虚偽の報告を書くよう命じられました」
ヴェルナーの顔が──歪んだ。
「『薬草は未検証で危険な手段である』と書けと。でもわたしは──」
エリーゼの目に涙が光った。
「薬草が、わたしの治癒魔法で救えなかった人を救うのを、この目で見ました。三年間苦しんでいた少女が──薬草の蒸気を吸って、初めて楽に息を吸えた瞬間を」
声が震えている。でも──止まらなかった。
「わたしの治癒では無理でした。──でも、薬草は救いました。嘘の報告は書けません」
会場が──静まり返った。
聖女が。新聖女が。神殿の最高権威の下にいる聖女が──神官長の不正を、公の場で証言した。
ヴェルナーの顔から、色が消えていた。
◇
国王が立ち上がった。
会場が、さらに静まった。
「第一に。神官長ヴェルナー・ゾンマーの聖女への虚偽報告の強要、並びに神殿会計の不正疑惑について──神官長職を罷免する。詳細な調査は神殿評議会に委ねる」
「第二に。モルゲン子爵夫人レギーナの毒混入事件への関与について──社交界からの追放を宣告する。詳細な調査は宮廷裁判に委ねる」
「第三に。王国薬草院の全領展開を正式に認可する。薬草院は国王直轄の医療機関として、全領に支部を設置する権限を有する」
三つの裁定が、会場に落ちた。
ヴェルナーは──座ったままだった。柔和な笑みも、弁論術も、二十年かけて築いた人脈も──全部、この場で崩れた。
レギーナは椅子を握りしめていた。完璧だった微笑みが、跡形もなく消えている。
わたしは──壇上に立ったまま、一度も嘲笑わなかった。
「辺境の報告は以上です」
それだけ言って、頭を下げた。
(一度目も、二度目も──証拠と制度で決着をつける)
懐の中で、議事録の写しがかさりと鳴った。
◇
顔を上げた時──会場の末席で、人が立っていた。
白髪交じりの男。痩せた肩。少し右に傾いた──几帳面な文字を書く人の、背中。
(──父さん)
ゲオルク・ヴァレンシュタイン男爵。
いつからいたのか分からない。末席の一番端。わたしの視界に入らない場所に──座っていたのだ。
父は──深く、頭を下げた。
声はなかった。言葉はなかった。この人はいつもそう。言葉が足りない人。あの手紙も──「許してくれとは言えない」の一行だけだった。
でも──立った。
この場に来て、末席に座って、娘が壇上に立つのを見て──頭を下げた。
(遅すぎるよ)
そう思った。思ったのに──目頭が、熱くなった。
(泣くな。ここで泣くな)
唇を噛んだ。まだ壇上だ。まだ全員が見ている。
父は頭を下げたまま──しばらく動かなかった。
◇
壇上を降りた。
席に戻る途中、領主たちが次々と声をかけてきた。「素晴らしい報告だった」「薬草院の支部をぜひ我が領にも」「グラーフ侯爵も態度を改めるだろう」。
ありがとうございます。ありがとうございます。──繰り返しながら、人の波を掻き分けた。
廊下に出た。
──クロードが、いた。
壁に背を預けて、こちらを待っていた。軍服の襟元が──少しだけ、崩れている。さっきまで完璧だったのに。
「リーネ……殿」
一拍。遅れた。
「伝えたいことが──」
廊下の向こうから、足音が押し寄せた。
領主たち。貴族たち。官僚たち。わたしを祝福しようと──人の波が、廊下を埋め尽くしていく。
「リーネ殿、おめでとうございます」「院長、こちらにお時間を」「薬草院の今後について──」
クロードの声が──かき消された。
人の波に押されて、わたしはクロードから離れていく。振り返った。灰色の目が──こちらを見ていた。
唇が動いた。何か言おうとしていた。でも──声は届かなかった。
人が間に入って、クロードの姿が見えなくなった。
(伝えたいこと)
何を。
何を、伝えたかったの。
聞けなかった。人の波は止まらない。祝福の言葉が次々と降ってくる。嬉しいはずだ。嬉しいのに──。
廊下の向こうに、灰色の髪が一瞬だけ見えた。
それも、人に隠れて──消えた。




