第18話 銀葉草の束
わたしには分かる。自分が、あの人の隣に立つべき人間ではないことくらい。
サロンの一件から三日。王都の宿で、わたしは薬草の在庫を数えていた。手を動かしていないと、余計なことを考えてしまう。
──噂は速かった。
「第二王子クロード・ルクレシア殿下が、辺境の追放令嬢の護衛についている」。サロンに出席した二十人の夫人たちが持ち帰った話は、三日で王都の貴族社会を一周した。
そして──もうひとつ。
「第二王子を王太子候補に推す声がある。相応しい妃を」。
クロエさんがサロンの帰りに受け取った書状の中身。本人は「些事です」と言ったけれど──その翌日から、宿にいくつもの使者が来るようになった。宮廷から。貴族院から。全部クロエさん宛てで、全部わたしの知らない用件。
クロエさんの表情は──あの日からずっと、凍っている。
茶は淹れてくれる。記録はまとめてくれる。護衛の仕事も変わらない。でも──あの僅かな温度が、消えたままだった。
(わたしのせいだ)
サロンで正体を明かしたから。わたしを庇ったから。「第二王子がモブ令嬢に入れ込んでいる」と──。
銀葉草の束を紐で縛る手が、止まった。
◇
夕暮れ。
宿の廊下で、クロエさんと出くわした。
書状の束を抱えている。宮廷からの連絡だろう。灰色の目は手元の紙に落ちていて──わたしに気づいて、止まった。
「リーネ殿」
「クロエさん、少し──お話したいことがあります」
クロエさんの目が──一瞬だけ、揺れた。
宿の窓辺に立った。西日が差し込んで、廊下が橙色に染まっている。二人きり。
「殿下」
意識して、そう呼んだ。クロエさんではなく。
「殿下には、もっと大事なお役目があります」
声が──自分のものなのに、遠くから聞こえる気がした。
「王太子候補のお話が出ているんですよね。宮廷から使者が何度も来ている。──わたしは、知っています」
クロエさんの指先が、書状の束を握りしめた。紙がくしゃりと音を立てた。
「わたしは辺境の薬師です。モブの、追放された令嬢です。名誉は回復していただきましたけど──わたしの家は男爵家で、それも復籍していない。殿下とは、住む世界が違います」
言葉が──次々と、口から出た。止められなかった。
「殿下がサロンでわたしを庇ってくださったこと、感謝しています。でも──あれで、殿下に迷惑がかかっている。王太子候補の話に支障が出ている。わたしがそばにいると──」
息を吸った。
「殿下の足枷にはなりません」
言い切った。
──沈黙。
クロエさんは──何も言わなかった。
灰色の目がわたしを見ている。唇が──微かに動いた。何かを言おうとしたのだと思う。でも──閉じた。
あの日と同じだ。正体がバレた日。「──違う」と言って、その先が続かなかった日。
この人は、言葉を持たない。
わたしが「足枷になる」と言って、それを否定する言葉を──出せない。王族としての立場と、何かの間で。
(だから──わたしが、引くんだ)
「勅命の巡回は続けます。護衛はありがたくお受けしますが──それ以上のことは、もう」
声が震えそうになった。噛み殺した。
「お休みなさい、殿下」
背を向けて、自分の部屋に戻った。
扉を閉めた。
──泣かなかった。泣いてどうする。断罪の日にも泣かなかった。辺境に来た日にも泣かなかった。
(わたしは薬草しか取り柄のないモブなんだから。王族の人の隣に立てるわけがない。最初から分かっていたことだ)
寝台に座った。膝の上で拳を握った。
分かっていた。ずっと分かっていた。
──それなのに。
胸の奥が、じくじくと痛んだ。断罪の日とは違う痛みだった。あの時は冷たかった。冬のガラスみたいに。今は──熱い。
(ばか。わたしのばか)
◇
翌朝。
目が覚めた時、最初に見たのは──机の上の、小さな束だった。
銀色。
乾燥した葉。細い茎。裏返すと、銀色の細かい毛がびっしり生えている。
銀葉草。
辺境で──わたしが一番最初に見つけた薬草。あの荒野にひとり立った日、足元にしゃがみ込んで、「あった……!」と声を上げた。あの薬草。
小さな束が、紐で丁寧に縛ってあった。葉が傷まないように、茎の途中から折って──根を残す摘み方。わたしが辺境で教えた、あの摘み方で。
(……なんで、これを)
触れた。乾いた葉の感触。かすかに残る、清涼感のある匂い。
わたしの旅の荷物に、銀葉草の在庫はある。でもこれは──荷物から取り出したものではない。乾燥の度合いが違う。もっと新しい。誰かが、最近摘んだものだ。
(王都で手に入る薬草じゃない。銀葉草は寒冷地の岩場にしか自生しない)
──持ってきていた。
辺境から。あの人が。旅の荷物のどこかに──銀葉草の束を、忍ばせていた。
(なんで。なんでこの薬草を)
わたしの「始まり」の薬草。辺境で全てを失って、でも足元を見たら──そこにあった。わたしが植物学者であることを思い出させてくれた、一番最初の一本。
──なんで、それを。
言葉では何も言わなかった。「足枷にはなりません」と言ったわたしに、一言も返さなかった。
代わりに──これを、置いた。
(言葉の代わりに)
束を両手で持った。軽い。こんなに軽いのに──重い。
「なんでこれを……」
呟いた。答えは出ない。
でも──捨てられなかった。鞄の奥に、議事録の写しの隣にしまった。
◇
午後。
宿に手紙が届いた。ブラント伯爵からだった。
『リーネ殿
王都で「元王太子アルヴィンも被害者だった」という噂が流れているようだが──笑止千万である。
あの男は自分の意志で断罪を行った。聖女の託宣に乗ったのは事実だが、弁明を許さなかったのはあの男の判断だ。被害者面をする資格はない。
わしの名前で、そう広めておいた。社交界の何人かが同意している。「自業自得だ」と。
それと──王都大会議の招集通知が届いたはずだ。全領主と王族が出席する。そこで薬草院の報告をせよ。
あんたの実績があれば、もう誰にも文句は言わせん。
ブラント伯爵』
──読み終えた。
(自業自得)
伯爵の言葉が、胸にすとんと落ちた。
アルヴィンが被害者面をしている。あの断罪の日に、わたしの弁明を一蹴した人が。「聖女の託宣は絶対だ」と言い切った人が。──今になって「自分も騙された」と。
怒りは──もう、あまり湧かなかった。
代わりに、伯爵の手紙の最後の一行が──じんと響いた。
「あんたの実績があれば、もう誰にも文句は言わせん」。
(──大会議)
もう一通。招集通知。国王の署名。
全領主。王族。神殿代表。──全員が揃う場で、薬草院の報告をする。
証拠は揃っている。三領──いや、四領の治療実績の数字。毒混入事件の分析結果。レギーナの犯行ルート。エリーゼの証言の可能性。神殿の会計記録の不整合。
全部──この手の中にある。
懐に手を当てた。議事録の写し。擦り切れた羊皮紙。あの日からずっと、一日も手放さなかった一枚。
そしてその隣に──今朝しまった、銀葉草の小さな束。
(わたしの力で、決着をつける)
殿下の庇護ではなく。
王族の名前ではなく。
薬草院の院長として。辺境の薬師として。モブの──いや。
(もう「モブ」は、やめよう)
少なくとも、大会議の壇上に立つ間だけは。
窓の外に、王都の屋根が並んでいる。秋の空が高くて、鐘楼の先端が夕日に光っている。
あと一週間。
鞄の中で、銀葉草がかすかに匂った。甘くて、冷たくて、清涼感のある──わたしの始まりの匂い。




