第十一章(3):両親の祝福、そして新たな誓い
深淵の主が完全に消滅し、広場に静寂が戻った。
漆黒の魔力を纏い、角と牙を顕にした魔王の姿のルシアン様は、その場に立ち尽くしていた。
彼の瞳の蒼い輝きには、これまでの激しい戦いの疲労と、ようやく世界を護り切った安堵の光が宿っていた。
「…護り切った…」
ルシアン様の口から、微かな呟きが漏れた。
その声は、重責から解放された者の、深い安らぎに満ちていた。
彼の瞳の奥にあった緊張が緩み、纏っていた漆黒の魔力も、わずかに柔らかな光を帯びたように見えた。
その時、広場の中心、深淵の主が消滅した場所から、淡い光を帯びた白い霧がゆっくりと立ち上った。
その霧は次第に輪郭をはっきりとさせ、淡い光が強まりながら、二人の人影へと変化していく。
一人は、凛とした表情をたたえた美しい女性。
もう一人は、威厳に満ちた佇まいの男性。
彼らの顔立ちは、ルシアン様の面影を色濃く残していた。
「ルシアン…」
女性が優しく、しかし確かな声でルシアン様の名を呼んだ。
ルシアン様の蒼い瞳が大きく見開かれる。
彼の顔に、驚愕と、そして深い懐かしさが入り混じった表情が浮かんだ。
「母上…父上…!?」
信じられない光景に、ルシアン様はゆっくりと、しかし確実に彼らに向かって歩み寄った。
彼の顔には一人の息子としての感情が溢れていた。
彼の母、アリア様は、優しく微笑みながら、ルシアン様と私、そして他の勇者たちにも視線を向けた。
――その瞳は、セラフィナと同じ、深淵の森を映したかのような美しい緑色だった。
彼は物心つく前に母を亡くしたが、赤子の頃、その緑の瞳が彼を慈しむように見つめていたことを、彼の魂はどこかで知っていたのかもしれない。
(セラフィナの瞳に彼が惹かれるのは、抗いがたい運命の兆しのように思われた。)――
『ルシアン、そして勇者たちよ。よくぞ、この世界を護り抜いてくれましたね。』
その声は、まるで天からの調べのように、私たちの心に染み渡る。
アリア様の瞳は、慈愛に満ちていた。
『愛し合うこと…それが、どれほど尊く、この世界を輝かせる力になるか。あなたたち皆が、それを証明してくれました。愛の力は、どんな闇をも打ち砕くのですよ。ルシアン、あなたは、自らの進むべき道を選び、その愛の力で世界を救い、そしてその身すらも変じながら、この世界を壊さずに護り切った。誇りに思います。』
アリア様の言葉は、私たち全員の関係を祝福しているかのようだった。
私の胸が、温かい光に包まれる。
「アリア様…、ありがとうございます…!」
私が思わず呟くと、アリア様はさらに優しく微笑み返してくれた。
次に、彼の父、アズラエル様が、まっすぐルシアン様を見据えた。
彼の表情は、厳格さの中に、深い愛情が垣間見えた。
『ルシアン…。まずは、よくやった。…しかしだ。』
アズラエル様の声には、わずかな不満と、抑えきれない困惑が混じっていた。
『お前が王冠を被らずに、王家の使命を投げ捨て、「勇者」などというものを名乗った時、私は正直、許せなかった。魔法使いの王としての誇りを忘れたのかと、何度も…何度も思った。だが…。まさか、お前がこのような途方もない『魔王』の姿にまでなるとは…!これは、王家の歴史にも、世界の摂理にもない力だ…!私の想像を遥かに超える力を手に入れたな…!一体、どんな手を使ったのだか。』
アズラエル様は、深いため息をついた。
その声には、もはや怒りも呆れもなく、ただただ、息子がたどり着いた境地への、途方もない驚きと、そして親としての深い感慨が滲んでいた。
『私が王冠に念を込めたのは、常に王としての道を忘れぬよう、お前を導くためだ。だが、お前は私の想像を遥かに超え、新たな道を見つけ出した。その選択が、結果としてこの世界を救う力となった。もう、予想外過ぎて、私も何も言うまい。だが、その『予想外』が、まさかこれほどまでに世界を救う力となるとは…私の愚かさを思い知らされた。』
『…その予想外の展開…、これも全て、セラフィナのおかげなのか?』
アズラエル様の視線が、私に向けられた。
私は、緊張しながらも、ルシアン様の手をそっと握った。
『セラフィナ…。お前は本当に面白い存在だ。私が想像し得なかった、多くの可能性をルシアンにもたらしてくれた。…これには、私も驚かされた。感謝する。』
ガイア様とエリアス様の声とはまた違う、神々しい、しかし親としての温かみのある言葉に、私の胸は高鳴った。
まさか、ルシアン様のご両親から、直接感謝の言葉をいただけるなんて――その重みに、思わず息を呑んだ。
「いえ、とんでもないお言葉です、アズラエル様! 私はただ、ルシアン様が幸せになることを、心から願っていただけです。ですが、もし私が、ルシアン様の新たな力や道を見つける一助となれたのなら、これほど嬉しいことはありません。これからも、ルシアン様を、そしてこの世界を、全力で支え、護り続けます!」
私が精一杯の決意を伝えると、アズラエル様は満足げに小さく頷いた。
『良いか、ルシアン。アリアと私も、もう心配はしまい。だが、一つだけ、約束してくれ。』
アズラエル様は、ルシアン様の瞳をまっすぐ見つめた。
『いつの日か、王冠を被り、真に魔法使いの王として、愛するセラフィナと、盛大な結婚式を挙げてくれ。王家としての義務も、忘れるなよ。それが、我々の最後の願いだ。』
その言葉は、アズラエル様からの、ルシアン様への、そして私たち二人への、最高の祝福の言葉だった。
ルシアン様は、静かに、しかし力強く頷いた。
「…はい、父上。必ず」
ルシアン様の言葉を聞き届けたアズラエル様が満足げに微笑むと、隣のアリア様が、たまらなく愛おしそうにルシアン様の頬に手を伸ばした。
『ルシアン…、大きくなったわね…。』
アリア様は、そっとルシアン様を抱きしめた。
彼がその温かい腕に包まれた瞬間、彼の全身を覆っていた漆黒の魔力が柔らかな光の粒子となって霧散し、頭の角も、口元の鋭い牙も、見る見るうちに消え失せた。
銀白色の髪は本来の輝きを取り戻し、瞳の蒼色は優しげな光を湛えている。
いつもの、端正な青年の姿へと戻ったルシアン様は、母の温もりに身を委ね、目を閉じて安堵の息を漏らした。
それは、彼が生まれてから、一度も経験したことのない、深く、慈愛に満ちた感触だった。
その瞬間、彼の心の奥底に宿っていた、長年の孤独と重圧が、ゆっくりと溶けていくのが分かった。
アズラエル様とアリア様は、満足げに微笑み合った。
そして、再び淡い白い霧となり、ゆっくりと空へと昇っていった。
二つの光の粒は、夜空の星々へと溶け込むように消えていった。




