最終話:恋情のロールケーキ
ついに大会の審査が始まった。
それぞれ試行錯誤を重ねて作り上げた作品を諸塚シェフや夏姫が審査する。
審査されるのを参加者たちは固唾をのんで見守るしかない。
そして、愛絆の出番がやってくる。
愛絆が作ったのはブラックロールケーキだった。
七夕をイメージさせる星型の飾りつけ。
ココアパウダーを混ぜ込んだ生地にチョコレートを使った生クリームがほどよい甘さと口どけの良い味わいを生み出していた。
「なるほど、いい味にしあげているね。創意工夫も大したものだ」
諸塚シェフを前に愛絆は緊張の顔色を隠さない。
失敗した過去の記憶が消せるわけではないのだから。
「以前の大会の事を覚えているよ。キミの失敗は実に残念だった。しかし、あの失敗でくじけずにいれば、いい腕前のパティシエになれるとの確信もあった」
「今回のケーキはシェフのご期待に応えられるものでしたか?」
「キミの成長ぶりに満足しているよ。それに何よりも笑顔が見られたことに驚いた」
それは大会中に現場を魅了したあの愛絆の笑顔。
あの状況で笑顔を見せられたことが諸塚シェフには驚きでもあった。
「お菓子を作るのは楽しい事だ。パティシエを目指すものなら誰もが最初に感じる思い。そう言う当たり前の事を、仕事にしてしまった人間はいつしか忘れてしまう」
プロとアマチュア、趣味を仕事にした時点でそこには責任が伴う。
失敗は許されないと言う重圧感、いつしか楽しさなど忘れてしまうもの。
「まさに“原点”と言うべきものを改めて逆に教えてもらった気がするよ」
パティシエの原点。
それはお菓子作りが好きで、たくさんの人に作りたいと言う想い。
「これからも立ち止まらず、精進しなさい。キミはいいパティシエになれる」
それは、数年越しの諸塚シェフから認められた言葉だった。
あの大失敗から数年間、苦しみ続けた愛絆の心がたった一言で安らいでいく。
諸塚シェフの隣では夏姫が「愛ちゃん」と微笑みながら、
「味の評価は言うまでもなし。完璧じゃない。よく頑張ったわね」
「……夏姫さん」
「正直、今日は来てくれないかもって心配してた。壁を乗り越えられてお姉さんは安心したわ。愛ちゃんならやってくれると信じてもいた。大変だったでしょう」
「私を支えてくれる人が今はいますから」
観客席で見守る涼介の存在が彼女を変えた。
夏姫は「やっぱり、恋って大事なものよね」と満足げに呟いて。
「いろいろとあったけど、いい意味で貴方の成長に繋がってくれたみたい」
「はい。ご心配をおかけしました」
「でも、それ以上に愛ちゃんが逃げずにここに来てくれたことを喜んでいるわ。それも貴方の成長の一つ。これからはそういう部分の成長にも期待している」
メンタル面の弱さを克服して、さらに前へと進んでほしい。
「愛ちゃん。今度こそ、パティシエになる気になったかしら?」
夏姫の願いを愛絆は「頑張ってみます」と前向きに受け止める。
その前向きな発言を喜ぶ夏姫は目を細めて笑う。
「そう。頑張りなさい。応援してるわ」
「はいっ」
彼女が抱いた夢の始まり。
そして、大会の結果は愛絆の優勝で終わりを迎えたのだった――。
「惜敗とはいえ、愛絆さんに負けたのが悔しいですわ」
大会終了後の会場の片隅。
玲奈の悔しそうな顔を見つめながら愛絆は、
「でも、玲奈ちゃんも準優勝じゃない。最近、絶好調の竹岡君にも勝ったし」
「いえ、それはそうですけど……最大のライバルに負けた事の悔しさは晴れません」
「私も今回は勝ったつもりはないよ。気持ち的には玲奈ちゃんに負けてたから」
「どういう意味ですの?」
不思議そうな顔をする彼女に愛絆は言うのだ。
「だって、この前の勝負で負けたでしょ。パティシエになる覚悟を持った人間とそうじゃない人間が作るお菓子の差って言うのかな。見せつけられた気がしたの」
現在、実力や技術力の差では二人は僅差だ。
だが、メンタル面では愛絆は大きく玲奈に負けている事を痛感させられた。
「私ね、プロのパティシエになりたいって言う夢を語るのが怖かったんだ」
「……それは失敗を恐れて?」
「だって人間って勝手だもん。期待すれば失望もする。私はそういうものにふりまわされたくなくて、自分のやりたい事にも嘘をついてた」
けれど、今回の事でそれは違うのだと理解する。
「私は玲奈ちゃんみたいになりたかった」
「私ですか?」
「うん。パティシエって言う夢に向かって前進を続ける姿が眩しくて。私はちょっと羨ましくも思えてた。今回、少しだけ玲奈ちゃんに近づけたかな」
愛絆が口にすることを躊躇い続けてきた言葉がある。
「私も目指してみようとも思うの。パティシエって職業になることをね」
それは今回の成長が彼女に与えた一番の変化だったのかもしれない。
――こんなことを私が口にする日が来るなんて。
自分が一番驚いている。
「愛絆さんがパティシエになりたいって言うなんて驚きですわ。もちろん大歓迎です。これからもライバルとしてお互い競い合いましょうね」
「諸塚シェフからも認められて、ちょっとは過去のトラウマも克服できたかな」
「昔の愛絆さんと今の愛絆さんは違う。そういうことですわね」
「まだまだこれからだよ。私達はまだパティシエにすらなってない、ただのアマチュア。だからこそ、自分の可能性を信じてあげたい気になったんだ」
自分の本当のしたい事を、自分自身の心に尋ねてみた。
――私がやりたいこと。嘘をつかずに素直になれたら、ひとつしかなかった。
ずっと避け続けた“夢”をようやく彼女は目指すことができる。
玲奈は微笑みながら「愛絆さんが本気になった」と喜んでくれる。
「おーい、玲奈。そして、愛絆」
それは寛太の声、振り向くと手を振りながら近づいてくる。
「我が妹よ、優勝おめでとう。さすがだな」
「……ありがと。お兄ちゃんも会場にいたんだ。全然、知らなかった」
「うぐっ。応援席の真正面にいたんですが、気づきもしませんでしたか」
冷たい妹の反応に兄は悲しくなるが、これくらいでは動じない。
彼の視線は当然のように玲奈の方へと向けられた。
「まぁ、我が妹のツンドラ具合はどうでもいいや。玲奈、準優勝おめでとう。惜しかったな。約束通り、帰りに寄り道していこうぜ」
「約束?」
「愛絆さんに負けた時には残念会をしてくれると寛太さんが言ってくれてたんです」
残念そうに玲奈は「勝てば、祝勝会だったのに」と拗ねる。
それを聞いた寛太は軽く笑って、
「何言ってるんだよ。祝勝会だろ」
「え?」
「準優勝だって立派なものだ。これだけのメンツで勝てたんだからさ。我が妹が不死鳥の如く復活していなければ優勝してたんだぜ。もっと胸を張れ、喜べよ」
そっと玲奈の頭を撫でながら励ます。
「玲奈がどれだけ頑張ってたか、一番俺が知ってるんだ。自信を持てよ。あれは美味いケーキだった。それで負けたなら悔いなんてないだろ」
「寛太さん……」
そう真顔で言われて照れくさそうに彼女は頬を赤らめた。
「そうですわね。寛太さんの言う通りかもしれません」
「たまには自分を褒めてやるのも必要だ。お前はよく頑張ったよ、玲奈」
勝負の世界ならば、勝てば嬉しく、負ければ悔しくなるのは当然だ。
しかし、準優勝の結果は結果として立派なものであり、誇るべき事である。
勝ち負けだけではなく、実力があがっていることが評価されたのだから。
「ほら、行くぞ。お前の好きな店に連れて行ってやるからさ」
「は、はい。それでは、愛絆さん。また学校で」
ふたりを見送るのだが、愛絆はその後姿に違和感を覚えた。
笑顔の玲奈に、どこか照れくさそうな寛太。
仲良さげに笑いあいながら自然と腕まで組み合ってたりする。
「……なんであの二人、腕組んでるの?」
というか、どこからどう見ても、付き合っているようにしか見えない。
「え? え? どういうこと?」
それは恋愛に疎い愛絆ですら人目で気づけるほどの親密感。
――ま、まさか、まさかの展開だったりするワケ!?
目の前の光景に驚愕するしかない愛絆だった。
「あれ、知らなかった? 寛太たち、昨日くらいから付き合い始めたらしいよ」
いつのまにか、愛絆の横にいた涼介が爆弾発言をする。
「ま、マジですか?」
「俺も今日会って聞いたんだけどね。年下って意外といいものかもしれない、と惚気てた。何か、練習に付き合ってたら真面目に取り組むあの子に惹かれたらしい」
「ぐぬぬ。私の親友とお兄ちゃんが付き合うことになるなんて。かなりショックかも」
あの変態に親友を奪われた事実。
それよりも、それをまだ本人たちから聞かされていない事にもショックだ。
ふたりからすれば、言ってないのではなく改まって言う機会を逃してただけだが。
今はただ、始まった恋のときめきに浮かれて、それどころではなかったりする。
「……今度、玲奈ちゃんに会ったらいじり倒す」
「やめてあげなよ。そこは祝福してあげればいいのに」
「嫌です。お兄ちゃんみたいな変態に玲奈ちゃんはあげません」
「あはは。親友を取られちゃうのは嫌なんだ」
笑いごとではないと内心、愛絆は嘆く。
――お似合いのふたりだけど、認めたくはないなぁ。
いつかこんな日が来るのでは、と予想してたものの、心中は複雑なものだった。
――あの変態プレイが好きそうなお兄ちゃんの毒牙に親友が……。
相変わらず、自分の兄ながら寛太の信頼感がまるでない愛絆だった。
頬を膨らませて拗ねる愛絆を涼介はなだめながら、
「寛太たちの件は置いといて。まずは優勝おめでとう」
「ありがとうございます。頑張ったかいがありました」
「例のパティシエさんからも認められてたんだって?」
「……えぇ。成長した証を見せられてよかったです」
ずっと心の中に引っかかり続けてきたものが取れたような気がした。
「今度はどういうお菓子を作るのかな」
「いろんなものに挑戦していきたいですね」
「そっか。それなら俺は愛絆ちゃんの真横でそれを見ていよう。いいよね?」
恋人の言葉に「もちろんです」と愛絆は返事する。
「俺達も祝勝会するか。どこがいい?」
「夏姫さんのお店へ行きましょう。愛実さんからもさっき誘われてたんです」
「うちの姉ちゃんなんて『桜瀬さんが復活してくれなかったら、まずい』って顔を青ざめさせてたからな。毎日のように失意の店長からストレスのはけ口にされてる、と泣きそうだった」
「えっと……愛実さんには私の方から謝っておいた方がよさそうですね」
愛実こそが、今回の件で一番迷惑をかけた相手なのかもしれない。
お疲れさまでした。
「さて、そろそろ行こうか。愛絆ちゃん」
差し出された涼介の手を愛絆は恥ずかしがりながらも取る。
繋ぎ合う手、彼女は消え入りそうな小さな声で、
「大好きです。センパイがいてくれたから私は再び夢を取り戻せました」
「そう言ってもらえると嬉しいけど、俺は何もしてないよ?」
「そんなことはありません。私を支えてくれています。今も、これからも……」
恋を知らなければ、自分はここまで成長できただろうか。
愛絆が再び夢を掴むことができたのは、間違いなく涼介の支えがあってこそだ。
「行きましょう、センパイ。今日はセンパイのおごりで食べ放題です」
「いいよ。好きなものを食べてくれ」
「ふふっ。そんなこと、言っちゃっていいんですか? 私、お菓子に関しては結構、底なしに食べちゃいますよ? 後悔しても遅いんですからねぇ」
「お、おぅ。恋人の祝勝会だもの……頑張らせてもらいます」
恋人らしく、笑いあいながら愛絆は最後にもう一度だけ会場を見つめた。
お菓子を作ると言うこと。
それはずっと変わらず、愛絆が大好きなこと。
「――私の夢。いつか必ず、パティシエになります」
ありったけの想いを胸に。
青春を満喫しながら、彼女は夢を追い求め続ける――。
……。
数年の時を経て、愛絆はパティシエとなり、夢を叶えた。
数々の有名コンクールでも入賞を重ねて国内での評価もうなぎ上り。
海外への留学も経験し、その留学を終えた直後に涼介と結婚した。
留学後は夏姫の店で働きながら、今やスーシェフとして彼女の片腕的存在になるほどまでに、華やかで輝かしい成長を遂げていた。
日々、忙しい毎日を送りながらも、彼女は今、幸せの絶頂の中にいる。
自宅のキッチンでは料理する音が響く。
ふたりの人影が楽しそうにお菓子作りをしていた。
「ねぇ、ママ。これでいいのかなぁ?」
可愛らしくツインに結ばれた髪、子猫のような瞳。
愛娘、心愛(ここあ)と共に休日はお菓子作りをする。
普段は一流パティシエとしての愛絆もこの時ばかりは母親としての顔になる。
「そうよ。心愛は上手ねぇ。すごく手先が器用だし、味覚も鋭い。私に似たのね」
「えへへっ」
娘が自分に似てくれるのは嬉しいものだ。
可憐な美少女の容姿は幼い頃の愛絆に似ていると親戚によく言われる。
ただ、性格はどちらかと言えば人付き合いの上手い涼介の方に似ている。
母親として大変なこともあるが、愛娘と戯れる時間こそが愛絆の幸せだった。
「この前、作ったお菓子。みんなで食べて美味しかったって言ってもらえたの」
「そう。心愛が初めて作ったマドレーヌだもの。ママも美味しく食べさせてもらったわ。才能あるわよ、心愛」
「でも、やっぱりママの作るお菓子が一番大好きっ」
小さな手が愛絆の頬に触れる。
愛しい存在、彼女は愛娘を抱き上げながら、
「ありがとう、心愛。ママも心愛が作るお菓子が好きよ」
「今度、作ったお菓子を蒼ちゃんにあげるの。喜んでくれるかなぁ」
「きっと蒼真クンも喜ぶわ。心愛が作ってくれたら嬉しいに決まってる」
蒼真(そうま)は夏姫の息子だ。
夏姫と愛絆はプライベートでも家族ぐるみのお付き合いをしている。
現在、二児の男の子の母でもある夏姫。
特に彼女の次男、蒼真と心愛は同い年と言う事もあってかとても親しい。
気の合う二人を見て、将来は結婚させようかなんて親同士で話していたりもする。
「心愛は蒼真クンの事が好きだものね」
「好き?」
「ふふっ。まだ分からないかなぁ」
まだ恋心には無自覚な年ごろとはいえ、いずれは想いあえる関係になれたらいい。
お菓子作りを楽しむ親子。
心愛は愛絆に料理をしながら尋ねる。
「あのね、ママ? どうすればママみたいにお菓子作りが上手になれるの?」
「それは……練習をたくさんすることかな。私も心愛くらいの年くらいからずっとお菓子ばかりを作ってたもの。でも、一番大事な事があるの」
「大事なこと?」
愛娘の無垢な瞳を見つめながら、愛絆は言うのだ。
「恋をすること」
「恋?」
「えぇ。恋愛。まだ心愛には分からないかもしれない。だけど、大事なことだから覚えておきなさい。好きな人ができたら、貴方の人生が変わるの」
それは、自分自身の経験からくる一番大事な成長要素。
最愛の旦那、涼介は今も心の支えとして傍にいてくれる。
「いつか心愛にも好きな人ができるといいね。そうしたら、お菓子作りももっと上手になれる。その人のために作りたいって思えるようになるんだから」
「ママもパパを好きになって、お菓子作りが上手になったの?」
「もちろん。パパに美味しく食べてもらいたくて頑張った。だからね、心愛……」
彼女は母親として、最愛の娘に語り掛けるように優しい声色で、
「――恋をしなさい。良い恋をすれば、貴方自身を成長させてくれるのよ」
いつか娘が恋をする時が来ることを想像しながら、愛絆は思う。
――心愛も私のような幸せを手にする事ができますように。
今と言う瞬間。
この幸せを与えてくれたのも、“初めての恋”から始まったのだから――。
【 THE END 】
読了ありがとうございました。