3.神様と私とヤンデレオン
今日も朝早くから出かけて行ったレオンは、土気色に近い顔で帰ってきた。
そのまま少しの水しか飲めずに眠ってしまったレオンに、ぴたりとくっつく。くっついていたほうが早く良くなる気がする。
他に何もできないのが悔しくて、前足を舐めたり齧ったりして誤魔化した。最近爪が伸びてきている。前は走り回っていたので親指の爪以外は自然と削れていたのに、今はそんな気分にもなれない。
レオン、ねえ、レオン。
どうしたの? どうしてお出かけするの? 私がいたら元気になるんじゃなかったの?
ねえ、だったらどうしてお出かけするの。ここにいてよ。それがだめなら連れて行ってよ。私がレオンを元気にしてあげる。どんな時もぴったり張り付いて、レオンを元気にしてあげるから。だから、お願い、死なないで。
泣きそうになる。そう思っていたら、毛の隙間を通って肌の上を何かが滑り落ちていく。
犬って泣けるんだ。
そう気づいたとき、もっと悲しくなった。
薄い微かな寝息をたてるレオンに顎を押し付けて泣いていると、遠くのほうで馬の嘶きが聞こえてきた。耳をぴんっと立てて、音がした方向を探してぐりぐり動かす。耳はアンテナだ。大きく開いた部分を音のほうに向けるともっとよく聞こえる。
ガラガラ車輪の音もする。こんな夜中にどうしたんだろうとぼんやり思っていた私は、レオンの上からがばりと身を起こした。
馬は、屋敷の前で止まったのだ。
門の前で押し問答する声が響く。私は扉の方に向きを変えて、伏せをした。
「おやめください!」
「お願いします! どうか、おやめください!」
ジョフとジョフリーが言い募る声に、アリアとアレックスの声が混ざる。皆起きてきたのだ。
「どうかお願いします! こんな、こんな夜更けにまで、弟が死んでしまいます! やめ、きゃあ!」
「お嬢様!」
マーサの悲痛な声と、アレックスの怒声が響く。
「アリア! てめぇら、幾ら領主の軍でも女に手を上げるとはどういう了見だ!」
音はどんどん大きくなる。
私は地面からお腹を少し離し、前足と後ろ脚に力を込めた。
「ここだな!」
「開けろ!」
皆の制止を押しのけて、ノックも何もなしに扉を開かれる。
入ってきたのは沢山の男の人だった。
彼らはレオンのお腹の上にいる私を見て、おお、と声を上げる。
「聖獣だ!」
「本当にいたのか!」
伸ばされてきた手に牙を剥いて威嚇する。唇の皮を捲りあげたまま鼻の上に皺を寄せ、ウルルルルルと喉を鳴らす私に、男達は慌てて手を引く。
今までこんなことした事ないのに、私の中の犬として本能はちゃんと怒り方を知っていた。牙はこうやって剥くのだ。毛の一本一本が逆立っているのが分かる。特に背中の辺り、首の下一帯が鬣のように広がっているのが自分でも分かった。
触るな。
出ていけ。
レオンに、触るな!
あと一歩でも近寄ってきたら噛みついてやると、全身のばねを引き絞った状態で男達を睨み付ける。その私の背に、そっと何かが触れた。
張りつめていた私は思わずそれに噛みつこうとしてしまったが、柔らかく毛の間に指を絡めたその触れ方にはっとなる。駄目だ、この手は。
「……大丈夫、大丈夫、ですよ」
土気色に近い顔色のレオンが、酷くゆっくりとした動作で起き上がる。私は慌ててレオンを押しとどめようとしたのに、逆に抱きかかえられた。
「……今までありがとうございます、アンナ」
レオン? レオン、どうして? どうしてそんなこと言うの?
自分の尻尾がぺたりと布団についたのが分かる。
私がいたら大丈夫なんでしょう? 私がいたら、レオンは元気になるんでしょう?
だから、私ここにいるよ。ずっと、いつまでだっているよ。だから、だから、お願いレオン。そんなこと言わないで。元気になって、一緒にいようよ。
キュンキュンと必死に言い募る私の頭を何度も何度も撫でて、レオンは目を細めた。
「僕はもう大丈夫ですから、だから、あなたは、あなたの世界に帰ってください」
一瞬、レオンが何を言っているのか分からなかった。
きょとんとした私の額、どちらかというと耳の間に近かったけれど、そこにキスが降る。
「僕達の世界には言い伝えがあるんですよ。聖獣は別の世界からこの世界に降り立つ。そして訪れた先の人間を幸せにしてくれる、と。…………ああ、幸せでした。幸せでしたよ、アンナ」
万感が思いが篭もったような吐息が私の耳を擽る。
「……ありがとう、ありがとうございます。ただ死に行くだけだと思っていた僕の人生が、まるで普通の人のように毎日起き上がり、普通の人のように歩いて、普通の人のように食事を美味しいと食べることができました。毎日、ベッドで一日を過ごし、食べる物は薬のほうが多くて、いつ死ぬのだろうとそればかり考えていた日々が、もう、こんなに遠いんです。もう……願うものなどないのです。ありがとうございます、アンナ。だから、もういいのです。あなたは、あなたの世界に帰ってください。ごめんなさい、分かっていたのに、あなたが僕の為に残ってくれていたのだと知っていたのに、ここまでずるずると引き伸ばしたのは僕の我儘です。あなたと過ごせた日々が幸せで、もう少しだけこの時間を感じていたかった僕がいけないのです」
何言ってるの。そんなの嫌だよ。馬鹿言わないで!
そう思うのに、私の口からは人間の言葉なんて出てこない。だってこの世界での私は犬だから。
私と額を合わせて、レオンは微笑んだ。
「あなたを愛しています。僕と出会ってくれて、本当にありがとうございました」
立ち上がって寝間着の上に上着を羽織っただけのレオンに必死に縋りつく。爪をひっかけてもレオンは止まってくれず、その裾を銜えて必死に引っ張る。後ろ足を踏ん張って、ぐっ、ぐっと何度も後ろに引っ張るのに、今にも折れそうなレオンの足はびくともしない。
「さあ、行きましょう」
今にも倒れそうな顔色の相手に、男達は気圧されたように後ずさった。
「せ、聖獣、を」
「聖獣の意思を妨げてはならない。聖獣はいたい場所にいなければならない。そういう理です。……だから、貴方々は、僕でアンナを誘き寄せようとしたではないですか」
低く唸るようなレオンの声は、さっきの私の唸り声より怖かった。
けれど、その内容に泣きそうになる。
レオンが苦しんでいたのは私の所為だったのだ。私が聖獣だから、私を呼び寄せようと、レオンが連れて行かれていた。だったら、言ってくれたらいいのに。私、ぴったり張り付くようについていくのに。
ついてきちゃ駄目だって言ったじゃない。お留守番をお願いしますって。だから私、一緒に行きたいけどずっと我慢してたのに。
意思を妨げちゃ駄目なんでしょ? 私の意思はレオンと一緒にいることだよ!
一緒に行く。一緒に行く。一緒に行く!
ぐっぐっぐっと、何度も何度も裾を引く。
「アンナ……領主さまの館に行けばこの屋敷に戻れることはないのです。だから、どちらにせよ、僕は二度とあなたと会えなくなるのです。それならばせめて、あなたに貰った恩を少しでも返させてください」
嫌だ、嫌だ、そんなの嫌だ。
銜えた裾を離さない私に困ったように苦笑したレオンは、頭を撫でようと身体を傾けた。
その身体が、そのまま傾いでいく。
レオン、レオン、どうしたの。
必死にしがみつく私の横に、レオンの身体は倒れ込んだ。
「レオン!」
男達を押しのけてアリアさんが駆け込んでくる。寝間着のまま駆け寄ってきたアリアさんの頬が腫れていた。
「レオン、しっかりして! レオン!」
「医者だ、医者を呼べ!」
レオンを抱きかかえてベッドに戻そうとしていたアレックスさんを、男達が抑え込む。
「医者ならば館で用意できよう」
「おい、ふざけんな! こんな時まで何を!」
「連れていけ!」
「やめろ、くそっ、てめぇら離せ!」
ばたばたと部屋の中で人が走り回る。頭上から踏み下ろされる足は当然怖かったけれど、レオンと引き離されることが何より怖くて怖くて堪らなかった。
なのに私は、どうしたらいいか分からなくて、馬鹿みたいにぎゃんぎゃん吠えたてるだけしかできない。そんな私の前に、男の一人がしゃがみこんだ。私はとっさに上半身を下げ気味にして牙を剥く。男はびくりと震えたけれど、私に触れないようちょっと下がっただけだった。
「聖獣様、我々と共にいらっしゃいますか? そうすれば、あの男と共にいられますよ」
あの男が、死ぬまでは。
そう続いた唇の形が笑みの形だったことが、どうしても、許せなかった。
「アンナ! 駄目よ! やめて、放しなさい! レオンを返して! アンナ、アンナ――!」
アリアさんの悲鳴が夜空に響き渡る。私とレオンは馬車の中に押し込まれた。一緒に乗り込もうとしていた男の足に噛みつく。レオンにそれ以上近寄ったら許さない。
レオンの胸の上に陣取って唸り語を上げる私に、男達は慌てて馬車を下りていく。すぐにがたんと揺れて、馬車は一度も速度を緩めること無く走り出した。
「レオン、アンナ――!」
聞いている私の方が苦しくなる絶叫が遠くなり、ついには何も聞こえなくなる。
走り出した馬車に、それでも誰か乗り込んでこないか警戒していた私は、しばらく様子を見て身体の向きを変えた。そして、レオンの首にぺたりと顎をつけて伏せをする。どうしてだろう。前はこうやっていただけで一晩経てばレオンは元気になっていたのに、今はそんな素振りがない。
何がおかしいのだろうと、伏せたままぐいぐい身体を擦りつける。こんなにぺたりと張り付いているのにレオンの身体は冷たいままだ。寧ろどんどん冷たくなっていく。
レオン、レオン、どうしたの? どうして目を覚まさないの?
レオン、ねえ、レオン、レオン。
一所懸命呼びかけても、レオンは目蓋すら動かさなかった。
外が見えない馬車の中でどれくらい経っただろう。
馬車が失速して、右に左に曲がったと思うと、止まった。
「どうぞ、聖獣様」
開かれた扉の先の空はもう明るくなり始めている。
伸ばされてきた手に反射的に牙を剥くと、相手は慌ててレオンを寝台に運ぶだけだと弁明した。医者にも見せると言うので、渋々伏せの態勢に戻る。但し、牙は剥いたままだ。
レオンの腹の上に陣取って一緒に運ばれていく。自分の体重が両手足の先にだけかかるとレオンが苦しいだろうと、重さを分散させるために伏せでいる。
私達は、大きく綺麗な部屋に運び込まれた。けど、臭い。
部屋の隅では未だ薄らと煙を吐く臭いの元が焚かれている。人間だったら「わあ、いい匂い!」と思えたかもしれないけど、今の私の鼻には苦痛以外の何物でもなかった。
人がばたばた行き来する。彼らがちょっと近づいてきただけでも、私は反射的にうーうー唸ってしまう。
お医者様にだけは唸らないでおこうと思っていたのに、いつまで経っても現れない。
やっと来たと思ったら、狸みたいなおじさんだった。しかも寝間着だ。
「おお、おお! これが聖獣か!」
伸ばされてきた里芋みたいな指に歯を剥くと、周りの人が必死に里芋を引き下げた。
男はこれが鼻の下を伸ばすという事かと実感できる顔で笑っている。里芋みたいな指を器用に重ねて、まるで祈るみたいな体勢になった。
「聖獣よ。どうかわたしの願いを叶えてくれ。わたしを王にしてくれ。誰もわたしの行く手を阻むことなく、わたしの言うがままに、わたしの願いのままに世界を動かしておくれ」
その手が再び近づいて生きたので、私は右端だけ吊り上げて牙を剥く。うーうーと唸るだけでは警告にならなかったようなので、グルルルルルルルと喉の奥から音を出すと男ははようやく私が怒っていることに気付いたようだった。
そして、ちらりと面倒そうな視線をレオンに向ける。
「ああ、そうか。まだ始めの主人がいるからか。そやつが死んだ後は、わたしの聖獣になってくだされ」
そこまでが限界だった。
私は身体全部使った大声で吠えたてる。こんな声が腹の底から出るのだと自分でも驚くほど大きな音だった。ウオンウオンと吼えたてる私に驚いた男は、男が死んだら知らせろと言い捨てて逃げるように去っていく。
死なないよ、死なせないよ、何言ってるの、馬鹿じゃないの。
馬鹿じゃないの、馬鹿じゃないの、馬鹿じゃないの!
いつの間にか溢れだした涙を止める術も知らないまま、私はレオンにしがみついて目を伏せた。
どれだけ寄り添っても、レオンの目は開かない。それどころか呼吸はどんどん弱く細くなり、心音さえも小さくなっていく。
どうして、どうして、どうして!
必死に身体を擦りつけても、やっぱりレオンは目覚めなかった。
きぃっと木が軋む音がして、私は閉じていた瞳を開いた。耳も一緒に動かして手足に力を込める。いつの間にか窓から差し込む光は赤くなっていた。
何度か瞬かせた目を細めて音の下方向を睨む。少しだけ扉が開き、その隙間からメイドが滑り込んでくる。メイドは音を立てないようそっと扉を閉めると、背中を扉に張り付けて息を整えていた。そして、廊下から何の騒ぎも聞こえていないのを確認してベッドに走り寄ってくる。
思わず吠えたてようとした私に、メイドは慌てて人差し指を立てて口に当てた。
「吼えないでくださいませ、お願いします、聖獣様。わたくし、レオンの従姉妹でフレイと申します」
教えてもらった名前に私の目はぱちりと大きく瞬いた。あのたっぷりとした金髪をいったいどうやって纏めているのか、綺麗にキャップに入っている。こんな事態だというのに、どうして彼女が此処にいるのだろうという疑問より、先にそっちが気になってしまった。
私がかぽりと口を閉じたのを確認してほっと肩の力を抜いたフレイは、すぐに顔をくしゃりと歪めた。
「レオン……ごめんなさい、わたくしの所為です。ごめんなさい、ごめんなさい、レオンっ……!」
両手で顔を覆って泣き始めたフレイに、私は慌ててその膝に手をついて顔を舐める。
しょっぱい。
「わたくしの所為なのです。レオンが、レオンが元気になったと聞いて嬉しくて、お父様に、もしかしたら、もしかしたら、せ、せい、聖獣様が、加護を、くださ、のでは、と、言ってしまっ……それ、それが、領主様の、耳に」
フレイは酷くしゃくり上げてしまい、最後の方はよく聞こえなくなっていたけれど、なんとなく分かった。彼女はレオンが嫌いなのかなと思っていたけれど、そんなことはなかったのだということも。
「わた、わたくし、素直に、言えなくて、レオン、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……レオン、好きなのに、ごめんなさい、わたくし、ずっと、あなたのこと、なのに、こんな、こんなっ……!」
眠っているはずなのにひやりと冷たいレオンの手を取って、フレイは泣きじゃくった。
どうしたらいいのか分からず、握ったレオンの手に額をつけて泣きじゃくるフレイの横に寄り添って座る。
少しの間そうしていたら、フレイはぎゅっと唇を噛み締めて私を向き直った。そして、地面に額をつけた。
驚いてその手を必死に舐めたけれど、彼女は顔を上げない。
「今からわたくしが申し上げることは、レオンの意思に反するでしょう。だってレオンは、自分の意思で聖獣様との絆を断ったのですから。だから、聖獣様の守護が届かず、命耐えようとしているのです。……レオンは一生、わたくしを許すことはないでしょう。ですが、それでもわたくしは…………アリア達は、レオンの意思を尊重するでしょう。レオンの意思を叶え、守ってやりたいと願うでしょう。その結果自分達がレオンを失うと分かっていても、そうして泣いても、レオンの意思を守るでしょう。そういう、人達ですから…………ですが、わたくしは、我儘で、どうしようもなく自分勝手な人間なのです。ですから、お願いします、お願いします、聖獣様。どうか、どうかレオンをお救いください」
私はきょとんとしたはずだ。だって、彼女は、レオンを救う術があると言ったのだ。
誰も教えてくれなかった私の願いが叶う方法があると、目の前の人がするりと言った。
「聖獣様は世界にお戻りになる御力全てを使えば、何も叶わぬものはないと、言い伝えられております。我らが始祖王も、聖獣様の御力でその命を繋ぎ、今のこの国を築かれたのだと…………どうか、お願い致します。レオンをお救いください、聖獣様。御力を失った聖獣様は、もう二度とその力を得ることはない。だから、領主様も、きっと諦めてくださいます」
告げられた内容は、結構、残酷だったけれど。
帰れない。そうか、帰れないのか。
ぐるぐるといろんなものが回る。それらは私を形作った大切な者達だ。家族が、友が、文化が、季節が、空気が、いろんなものが今の私を作った。
大切だ。恩も縁も全てがあちらにある。大切なものは全部、あの世界にあった。
はずだった。
「お願いします、お願いしますっ……! 勝手なお願いとは重々承知しております! お怒りは全てわたくしに! お願い致します! わたくしはこの先、修道院に入り、一生を神と貴女様に捧げます。罰もお怒りも、どうかわたくしだけに頂きたく! お願い致します、お願い、レオンを、助けてっ……!」
額を擦りつけてフレイが乞う。
泣きながら必死に、私と同じ人を救いたいと願っている。
同じ人が恋しいと、彼に生きていてほしいと、泣いている。
ぐるぐる回っていた大切なものは、すとんっと私の胸に納まった。人の命を繋ぎとめる代償が、私を形作った全てで支払われるというのは、ある意味妥当だと思えた。それほどに大事なのだ。
ゆっくりと窓を見上げれば、赤紫だった空を藍色が覆い、遠くに真白い月が浮かんでいる。
真ん丸い満月が、二つ。
「分かった」
フレイが弾かれたように顔を上げる。
私は身体が震えるのに気付いていたけれど、あえて無視した。白い毛のちょこんとした前足が、五本指の人間の手に変わる。自慢だった白い胸毛も消えてささやかな膨らみになった。頭の上でぴこぴこ動いていた自慢の尖った耳も、自慢のくりくり動く尻尾も消える。
「でも、私が、決めた事だから、責任なんか、取らなくって、いいです。……教えてくれて、ありがとうございます」
「聖獣、様……?」
顔の横に落ちてきた黒髪を見て、ぎゅっと目を閉じる。
「神様」
「なんじゃ」
即座に返る返事には、驚かない。
「お願い、します」
助けてください。
神様、お願いします。助けて。
レオンを、助けて。
私はさっきのフレイのように床に額をつけて泣いた。その横で、フレイも慌てて頭を下げる。しかしフレイは何かに気付いて耳を澄まし、ざっと青褪めて部屋を飛び出していった。
私は、そんな彼女に意識を向ける余裕がない。
失う。全部、失う。
分かっている。両親にも友達にも土地にも制度にも、今まで育てて育んでくれた全てに申し訳ない。分かっているけれど、失えない。この決断を後悔しない日はないかもしれない。悔恨に塗れ、郷愁の念は胸を引き裂くだろう。
けれど、どうしても、この決断をしない自分を許すことも、出来ないのだ。
「分かったじゃて」
神様は何も言わなかった。いいのかとも、よすんだとも、何も。
神様は神様だから、私がどういう覚悟の上で選んだ選択か、たぶん分かっているのだろう。私は弱いから、それがとてもありがたかった。
「では、今からおぬしはわしの手を離れる。どの神の守護も受けない故に何者の干渉も受けない。魂の変換を遂げる際に発せられる力で、お前の願いを叶えるがよい」
「ありがとう、ございます」
さよなら、さよなら、皆。
ごめん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。
今までありがとうと伝えることすらできなかった想いは、一生持っていく。一生持って生きるから。
愛してる。仮令みんなが私のことを知らなくても、私がいなくなっても、私は一生皆を愛している。
私の勝手で、私を失わせて本当にごめん。
いつまでだって愛してる。いつも、皆の幸せを願ってる。
だから、どうか、許してください。
丸い球体は、ふわりと闇に溶けていく。
「じゃから、これからはこの世界の人間に守ってもらうんじゃぞ」
「え?」
水の中に絵具が溶けるように、周囲に滲んで消えていく球体に、何故だか頭を撫でられたような気がした。
「どこにいようが、どうなろうが、わしの世界に生まれた子は、わしの愛し子じゃて」
宙に溶け込んでいった球体の残滓がレオンに降り注ぐ。きらきらとしたダイヤモンドダストみたいな欠片だ。
それをぼんやりと見つめる。心の中には虚無感が溢れていた。ああ、私は一人なのだと思うと、その残滓に縋りつきたくなる。待って、置いていかないでと、泣き叫びたくなるのだ。この決断を悔やんではいない。けれど、けれど、あの世界で得た全てを置いてきたことは、もう既にこんなにも。
「…………アンナ?」
名を呼ばれて顔を上げる。上半身だけ起こしたレオンが私を見ていた。
ああ、目が覚めたんだね。顔色も土気色から命が廻った色に戻っている。よかった。本当に良かった。心からそう思えて、私は微笑んだ。頬を涙が滑り落ちていく。後悔は未だこの胸を満たす。けれど、この喜びだって嘘じゃない。
毎日朝から起き上がれて、食事を美味しく食べられて、今日は何をしようかと悩んで。ちょっと動いたら熱を出して寝込み夕飯を逃したりしなくて、しっかり夕飯もお腹に納めてお風呂に入って身体を解し、明日の体調を心配せずにぐっすり眠れる。
そんな時間を当たり前に過ごせる。
今日死ぬか、明日死ぬか、そんな心配はもういらない。今日死んで、明日死んで、家族を泣かせるのだろうなと思いながら眠りにつく必要は、もうないのだ。
レオンは自分の両手を見て、首を押さえて、呆然と呟いた。
「これは、夢ですか?」
「現実ですよ。よかったね、レオン」
生きていてよかった。元気になってよかった。
よかった、よかったね、レオン。
私と自分の身体を呆然と見ていたレオンは、突如ベッドを飛び下りて私の肩を掴んだ。
「アンナ!? 貴女、何をしたのですか!」
「…………いいんだよ」
「いいわけが!」
レオンが声を荒げるところなんて見た事なかったのに、何だか驚くことも出来ない。ちょっと、疲れた。頭がぐらぐらしてくる。
まだ何か言おうとしていたレオンは口を開いたけれど、乱暴に開いた扉に弾かれたように振り向いた。
「やめてください! お願いします!」
金切声をあげているのはフレイだ。
「聖獣様は既にその御力を失われました! もう、もう、レオン達には何もっ、お願いします! お願いですから!」
たくさんの怒声が聞こえる。たくさん、たくさん、声が。
私は何かふわりとした物に包まれながら意識を失った。
ふんわりと口の中に広がるお茶の風味を楽しむ。上品なふりをしているけれど、実は、おいしいなぁという事しか分かっていない。
「おいしいねぇ」
「当然ですわ。わたくしが淹れて差し上げたのですから!」
光栄に思いなさいと胸を張ったフレイの頭に扇が落ちる。しかも持ち手。
「何をなさいますの!」
「最初は飲めたものではなかったものを、一体誰がそこまでにして差し上げたのかしら?」
「…………マーサよ!」
「と、わたくしでしょう!」
アリアとフレイはきゃんきゃんと喧嘩を始めた。
仲良しである。
あの晩、私が聖獣としての全てを失ったと知った領主は怒り狂って部屋に飛び込んできた。そのまま私達を殺そうとしていたが、すぐにそんな余裕はなくなった。
王都まで馬を飛ばしたアレックスとジョフは、なんと王軍を連れて戻ってきたのである。レオンの薬を求めて放浪していたアレックスの顔の広さが功を奏した。
領主はそのまま取り押さえられ、今は別の人が領主様になっている。前領主は、まあ、他にもいろいろやっていたらしい。いろいろは、いろいろだ。詳しくは教えてもらえなかったし、別に聞きたくなかったのでまあいいや。
二人はがばりと私を振り向いた。
「アンナ! アリアが苛めますわ!」
「寧ろ、突如劇薬を持ってこられた上に、それがお茶だと言われたわたくしが苛められていますわ!」
「なんですってぇ!?」
「なんですのぉ!」
一瞬だけ私に振られたような気がしたけれど、気がしただけだったようだ。
フレイは、あの後すぐに修道院に入ろうとしたのを慌てて止めた。何も彼女の所為ではないのだ。彼女が責任を感じて、これから先の人生を神に仕えて生きる必要はない。心からそうしたいのならともかく、罪悪感からの行動ならやめてほしいと必死に止めた。
代わりに、フレイさえよければ友達になってほしいと言ったら涙でぐちゃぐちゃになって頷いてくれた。
フレイは、レオンに告白もしたそうだ。フラれてしまったわと笑って戻ってきた彼女は、予想に反して泣いておらず、清々しい笑顔だったので驚いたものだ。ちなみに、死人の先頭とレオンに対して散々言っていたのは、彼女なりの褒め言葉だったらしい。死んだ後にはなるだろうけど、元気に人を束ねられる力量の持ち主だという事を遠回しに照れながら言っていたという。
なんというよく分からないツンデレ。
二人が仲良く喧嘩しているのを見ながら絞り出しクッキーを頂いていると、今日は早く戻れたレオンが片手でちょいちょいと私を呼んでいるのに気が付いた。二人に声をかけようと思ったけれど、白熱していたのでそっと席を外した。
アレックスさんが花束を肩に引っ掛けるように近づいていく。その隣にはアレックスさんの友達の男の人がいる。フレイに一目惚れしたのだそうで、ちょくちょくフレイがいるときに訪ねてくるようになった。
二人の元に歩いていくアレックスさん達の後ろでは、ジョフとジョフリーが門の掃除を始めた。
「おかえりなさい、レオン」
「ただいま、アンナ」
レオンは新しい領主様の補佐をしている。身体が元気になったら、なんとちょっと背が伸びたと嬉しそうにしていた。いろんなことが初めてで、ちょっとの無理も楽しいのだそうだ。仕事で徹夜したのでさえも楽しいとうきうきしている。熱が高くて眠れない夜ならいつも過ごしていたけれど、役に立つ徹夜は楽しいですねと言われて、思わず目頭が熱くなったものだ。
「今日は早いね、レオン」
「ええ、大分慣れてきましたので時間も取れるようになってきました」
にこにこしているレオンにつられて、私もにこにこしてしまう。
みんな毎日嬉しそうだ。にこにこしていて、幸せいっぱいといった顔をしている。
そして、その中に私も入っていた。
「アンナ、少しいいですか?」
「うん?」
「こちらに」
自然な動作でレオンに手を取られて、ひょこひょこついていく。柴犬だった時はあんなに広く思えた庭だけど、人間に戻った今は…………充分広かった。
日差しを遮るように生えた木の下に設置されたベンチに二人で座る。
レオンは私の手を握ったまま黙っている。どうしたのだろう。犬だった頃は彼の膝上に飛び乗ってお腹に額を押しつけてぐりぐりできたのに、今そんなことしたら変人にも程がある。
「アンナ」
「うん?」
ようやく口を開いたレオンは、両手で私の手を握り直した。
「貴女の名前を、教えて頂けませんか」
何を言われているのか分からず首を傾げた私に、レオンは苦笑した。
「アンナは、僕達がつけた名前ですから。貴女には……本当の名前があるのでしょう? 僕の為に、貴女に捨てさせてしまった故郷の名前が」
「レオン……」
レオンはまっすぐに私を見つめている。この瞳に恥じない人間でいたいと思わせるほどまっすぐで、美しい瞳だ。
「僕は貴女に貰った生を、貴女に恥じないように生きます。貴女が僕にくれたものは何を以ってしても返しきれないものです。けれど、けれどせめて、貴女にも幸せになってほしい。どうか、その権利を僕に頂けませんか」
「…………権利?」
「貴女の人生を狂わせた責任、という意味ではありませんよ。……順番がおかしいとは思いますが」
鼻水が出てきそうになって必死に吸い込む。涙だけ出てきてくれたらいいのに、生きている以上綺麗なだけでは生きられない。犬の時ははらはら泣けたのは、やっぱり私が聖獣で普通の生き物じゃなかったからだろうか。
そんな関係ないことに思考が飛びそうになった私を、レオンが抱きしめた。犬になっていた時は毎日のようにされていたのに、人間になってから初めてだ。
私は顔が真っ赤になるのを感じた。
「レ、レオン!?」
「貴女を、愛しています。どうか、僕と一緒に生きてください」
気が付いたらレオンの身体にしがみついて大泣きしていた。
全部置いてきた。それは自分の決断だ。自分で決めて、自分で覚悟した。
けれど、どうしようもなく寂しかった。どうしようもなく不安で、どうしようもなく恐ろしかった。
みんな親切にしてくれる。みんな優しい。みんな大好き。
なのに、足元が覚束なかった。
これが違う世界を選んだ代償だと思っていた。血縁が一人もいない、知っている場所も一つもない。知らない歴史を紡いできた、知らない人達が溢れる、知らない場所。
だけど、レオンは一緒に生きてくれると言った。一緒に生きてほしいと、言ってくれた。義務感からではないと、赤くなった首筋と触れあっている胸から鼓動が教えてくれる。
しがみついて泣く私を深く抱きしめて、レオンはよかったとほっとしたように笑った。
そうしてしばらく経ったある日、私は一つだけ疑問だったことを聞いてみた。
「そういえば、どうしてあの時私がアンナだって分かったの? いきなり人型で現れても誰だか分らなかったんじゃないの?」
レオンのことだから、至極真面目な顔で『愛の力です』と返してくるのかなとくすくす笑ってしまう。
笑う私に首を傾げたレオンは、至極真面目な顔で言った。
「見たことがありましたから」
「………………ん?」
「正体を知られたと知れば、サユリがいなくなってしまうと思って言えずにいましたが、異界の神と話す貴女の姿は、いつも、とても神々しかったですよ」
にこりと微笑まれた言葉を吟味すること五分。球体様と話していた時の自分の状況を思い出して血の気が引き、また上がってきて顔で爆発した瞬間、私は彼の顔に枕を叩きつけた。
それから三日間、夫婦の寝室は別になったのだけど、私はちっとも申し訳なく思わなかったのである。