第1話 兵を殺したくない王子は、無能として追放された
「兵を引くべきです」
ヴァルゼリア王国の王宮。その軍議室で、第四王子レオンがそう告げた瞬間、空気が変わった。
卓に広がるのは北方国境の地図だ。王国軍は、攻め込んだ隣国の軍勢を押し返そうとしていた。だが橋を失い、補給の荷車は魔物の棲む森を避けて大きく迂回することになっている。
長い卓の向こうで、第一王子アルヴァンが笑う。金の肩当てに、窓からの光が眩しく跳ねた。
「まだ敵と剣も交えていない。お前には、それほど戦が恐ろしいか」
「恐ろしいのは、剣を交える前に兵が倒れることです」
レオンは地図の赤い駒へ指を置いた。
「前線の糧食は、あと四日。橋を失った補給隊が迂回するには七日かかります。今なら川沿いに退いて合流できる。進軍すれば、帰りの食料まで使い切ります」
「数字を並べれば戦に勝てると?」
軍務大臣オルドレインが、勲章の並んだ胸を反らした。
「精鋭には三日で敵を破る力がある。殿下は、王国騎士の勇をお疑いか」
「三日で勝っても、負傷者を運ぶ食料がありません」
地図の端にある、小さな宿営地を示す。
「こちらまで戻れば、倉庫も治療所も使えます。兵を休ませてから、敵の補給を断てばいい」
返ってきたのは、椅子を蹴る音だった。
「撤退、撤退と。王家に臆病者はいらぬ!」
アルヴァンの声に、周囲の貴族が頷く。
レオンは自分の手を見た。細い指。魔力を込めても、灯りを長くともすことさえ難しい。
剣の才もない。兄が一度振れば斬れる魔物に、自分は傷一つつけられない。
だから、戦える者を失うのが怖かった。
「先月の北門守備隊では、撤退の許可が遅れて十九人が戻りませんでした」
「それがどうした」
「そのうちの一人は、まだ傷が塞がっていなかった。歩調に合わせられない兵を置き去りにしないために、仲間が残ったのです」
レオンは卓上の記録を押し出した。
「同じ命令を出せば、同じことが起きます」
誰も、その紙を取らなかった。
「兵の死を盾に、兄を非難するか」
アルヴァンが立ち上がった。
「低魔力。剣も使えず、授かったのは何の役にも立たない誓約のスキル。お前に軍務を任せたのが間違いだった」
第四王子レオン・ヴァルゼリア。
王族の子供たちが力を測られる日、彼の前だけ測定石はほとんど光らなかった。代わりに浮かんだのは、誰も読めない古い法文だった。
人を縛るだけで、魔物一匹倒せない。
それが、王宮の下した評価だ。
「本日をもって、軍務に関わる一切の権限を剥奪する。グレイヴェルへ行け。お前にふさわしい、王国の端だ」
辺境の無法都市。
税も兵も、まともに届かなくなった街である。
「承知しました」
レオンは頭を下げた。
「ただ、この撤退路の写しは前線へ送ってください。兵が帰る時に使えます」
「まだ言うか!」
記録が払われ、床へ散った。
拾い上げると、十九人の名が記された紙に、靴の跡がついていた。
レオンはそこを指で拭い、折り畳んだ。
*
六日後、馬車は辺境の街道で止まった。
ここから先は護衛料を払っていない、と御者は言った。旅費の残りを渡せば街まで乗れたが、到着してから食料を買えなくなる。
レオンは荷物を下ろした。
地図、記録帳、着替え。王宮から持ち出せたものは、それだけだった。
「第四王子殿下ですか」
道の先から、女騎士が歩いてきた。
金色の髪を高く結び、長剣を腰に帯びている。銀の鎧は丁寧に磨かれていたが、肩には補修の跡があった。
「シルヴィア・ローゼンハルト。街への引渡しを命じられています」
「迎えの兵は君一人か」
「副官は街道の巡回中です。兵をつける余裕はありません」
彼女はレオンの荷物を見て、眉を寄せた。
「護衛まで途中で帰すとは。王宮は何を考えているんですか」
「帰したのは私だ。残りの金で街まで乗るより、着いてから食料を買う方がいい」
「……歩けますか」
「歩ける」
言ったそばから、荷の紐が肩へ食い込んだ。
シルヴィアが記録帳の束を取る。
「では、荷物は分けます」
「騎士に書類を運ばせるのは不適切か?」
「殿下。今のは、普通に『ありがとう』でいい場面です」
レオンは少し考えた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女の口元が、ほんのわずか緩んだ。
街の話を聞きながら歩いた。
修繕されない外壁。商人から金を取る荒くれ。魔物が増えても、動かない守備兵。
シルヴィアは民を助けるたび、上役と衝突していたという。
「街の人を守るために剣を取ったのに、守ろうとすると邪魔をされるんです」
疲れた声だった。
レオンは遠くの壊れた柵を見た。あそこから魔物が入れば、逃げる足の遅い者から死ぬ。
前線の記録と、同じだ。
その時、手首が冷たくなった。
見知らぬ石畳。
浅葱色の羽織を着た男たちが、狭い道を進んでいた。誰かが踏み出せば、隣の剣がその隙を覆う。顔も、言葉も知らない。
それでも、一つの集団として動いていることは分かった。
新選組。
聞いたことのない名が、胸の奥を通り過ぎた。
次いで、黒い文字が浮かぶ。
――局中法度。
「殿下?」
シルヴィアの声で、石畳は泥道へ戻った。
レオンの手首に、細い鉄鎖のような紋がある。紋からほどけた黒い法文は、今度は読めた。
誓約を結べ。
法を掲げよ。
遠い情景を見たからといって、剣が使えるようになったわけではない。荷物を持つ腕も、相変わらず頼りなかった。
だが、歩調を揃える男たちの姿は残っている。
レオンは紋に触れた。
「街には、戦える者がいると言ったな」
「います。従うかどうかは別ですが」
「なら、話してみる」
壊れた柵の向こうで、誰かの悲鳴が上がった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。剣を振るうより先に、帰れない兵のことを考えるレオンから、この物語を始めました。
次回予告:無法の街で、最初の誓いと向き合います。
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