アシェルの書 第1節 そして世界は滅びゆく
数ある作品の中から本作をご覧いただきありがとうございます。
この物語は、「神が交代する世界」を舞台にした終末ファンタジーです。
世界観や用語は少しずつ物語の中で明かしていきますので、まずはアシェルとアゼリアの出会いを楽しんでいただければ幸いです。
――世界は、あと二年で滅びる。
その神託が世界へ告げられた日から、人々は未来を失った。
唯一の真神クレシア。
その口から語られた終末は、誰も覆せない絶対の未来とされた。
終末に備え祈る者。略奪に走る者。新たな神を求める者。
そして、この日――。
クレシア教では二千を超える信徒が異端として粛清され、世界はさらなる混乱へと沈んでいく。
静かな白夜の下を、一人の少女が駆ける。
月明かりを溶かしたような銀灰色の髪は肩口で乱れ、その隙間から覗く紅い瞳だけが鋭く光っていた。
白銀の法衣は所々が裂け、乾いた血が黒く染みついている。かつて粛清者であったことを示す聖印だけが胸元に残されていた。
華奢な体つきとは裏腹に、その足取りには長年鍛えられた剣士の無駄のない重心があった。
誰もが振り返るほど整った顔立ちだった。しかし今、その端正な表情には疲労と諦めしか浮かんでいない。
――白夜は嫌いだ。
空は白く濁り、世界から色が失われる。
昼には万物が鮮やかな色を放つというのに、夜になるとすべてが色褪せ、空だけが世界を染める。
とりわけ白夜は気味が悪い。
静まり返った街道を、一人の少女が駆けていた。
アシェル。
半日前まで彼女は、真神クレシアに仕える粛清者だった。
異端を裁き、逃げる者を追い続けた。
だからこそ思う。
――逃げる側とは、こんなにも心細いものなのか。
「粛清者が神に見捨てられるとは、世も末だ。」
自嘲するように呟く。
泣こうとは思わなかった。
泣いても許してくれる者など、もうどこにもいない。
彼女は何人もの罪人が涙を流す姿を見てきた。
そのたび理解できなかった。
――泣くくらいなら抗えばいい。
だが今は違う。
自分もまた追われる者となった。
夜が明けるまでに街へ辿り着かなければ。
そう思った、その時だった。
街道の先に、一つの色があった。
夜だというのに、その存在だけは少しも色褪せていない。
強い色を纏った人影。
アシェルは息を呑んだ。
「……神?」
いや、違う。
教会で幾度も聞かされた存在。
「……外神。」
近づくべきではない。
そう思いながらも足は止まらなかった。
どうせ神に見捨てられた身だ。
今さら恐れるものなど何もない。
少女は静かにこちらを振り返った。
桃色の髪を三つ編みにし、小麦色の肌に青い瞳。
十代前半ほどにしか見えない幼い容姿とは裏腹に、その身に宿る神威だけが圧倒的だった。
「きれいな夜ですね。」
穏やかな笑みだった。
アシェルは空を見上げる。
白い。
ただ、それだけだった。
「何もない空の、どこがきれいなんだ。」
「何もないからこそ、美しい夜もあります。」
不思議な神だ、とアシェルは思った。
外神といえば信徒を惑わし、真神から神室を奪おうとする邪神。
そう教えられてきた。
だが目の前の少女は、そのどれにも見えなかった。
「あなたのお名前は?」
「……アシェル。」
「はじめまして、預言者アシェル。」
少女は柔らかく頭を下げた。
「わたくしは仮神アゼリアです。」
アシェルは眉をひそめる。
「預言者?」
「はい。」
「私はあなたと共に神室へ至り、新たな真神になります。」
あまりにも当然のように言う。
「断る。」
即答だった。
「私はクレシア様に仕える身だ。」
「でした、ではありませんか?」
その一言に胸が痛んだ。
「神に見捨てられたのでしょう?」
返す言葉がない。
アゼリアは一歩近づく。
「あなたは、人を救いたくて神に仕えたのではありませんか。」
「ならば、世界の終末を受け入れるだけで、本当にいいのですか。」
その言葉だけは、不思議と胸に刺さった。
しばらく沈黙したあと、アシェルは問い返す。
「……一つだけ聞く。」
「はい。」
「なぜ私なんだ。」
アゼリアは少し困ったように笑った。
「神室を知っている人が預言者であった方が、あとで助かりますから。」
「……それだけか?」
「はい。」
「もっとこう……神託とか運命とか。」
「特にありません。」
思わず吹き出した。
「はは……。」
初めてだった。
終末の神託以来、心から笑ったのは。
アゼリアは首を傾げる。
「何かおかしかったですか?」
「いや。」
アシェルは笑いながら首を振る。
「預言者なんて、もっと大層な理由で選ばれるものだと思っていた。」
アゼリアもつられて笑った。
「それでは、参りましょう。」
「どこへ?」
「世界を救いに。」
その言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。
アシェルは空を見上げる。
白夜は、相変わらず嫌いだった。
けれど、その白さは先ほどより少しだけ明るく見えた。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
この世界は、色から生まれた。
神も、人も。
世界には唯一の真神と、数え切れない仮神(外神)が存在する。
真神の神性が揺らげば、仮神は預言者と使徒、そして信徒を率いて神室オルテミアを目指す。
神を倒し、その座を奪った者こそが、新たな真神となるのだ。
そして同じ頃。
ヴァルセニア東端、魔族の国ネルシオン。
その王――人々が魔王と呼ぶレイヴァルのもとにも、一柱の仮神が姿を現していた。
終末の世界で初めて、魔王が預言者となる、その瞬間であった。
第1話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品では、「神」「信仰」「終末」を軸に、それぞれ異なる思惑を持つ預言者や使徒たちの物語を描いていきます。
次話では、本章のもう一人の主人公である魔王レイヴァルが登場します。
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