Chapter16 水が火になる日
翌朝、正式な書面がシェルム出張所から届いた。
ミラが朝一番の連絡袋から封書を引き抜いて、仕分け台の上に置いた。「なんか変な話が来てます」と言ってダンに渡した。ダンが開封し、中の報告書に目を通し、一度だけ眉を動かして、それからグレンのいる方向に顔を向けた。
グレンは受付の横で掲示板の依頼票を確認していた。ダンの視線に気づいて、報告書を受け取った。
——Cランクの冒険者が依頼中に水の術式を使ったところ、火属性の出力が発生。本人に怪我はなし。術式書は最新版。再現は確認されていない。操作ミスの可能性が高い。以上、報告まで。
昨夜、記録板で見た速報と同じ内容だった。速報で見たときの衝撃は、一晩経っても薄れていなかった。むしろ朝の光の中で活字として読むと、別の重さがあった。
「……記録を確認します」
グレンは報告書をダンに返して、地下に降りた。
コンソール室のランタンをつけた。記録台を開く。ウィセルの東の塔への直近一週間のリクエストログ。威力値フィールドの揺れは、先週の記録より増えていた。先読み補完が走った痕跡が二件。うち一件は、術式の属性情報が一瞬だけ書き換わった形跡を残していた。
水で火が出る。属性が入れ替わる。
シェルムの報告と直接つながる証拠は手元にない。シェルムの塔とウィセルの塔は別だ。だが先読み補完という同じ仕組みが、大陸中の新型演算装置に入っている。方向は一致している。
グレンは記録台に両手をついたまま、しばらく動かなかった。
「慣らしで直る問題じゃない」
昨夜と同じ言葉を、もう一度口にした。
***
それから数週間で、似たような話がぽつぽつと入ってきた。
ギルドの正式な報告ではなく、旅商人や行商人が持ち込む噂としてだった。「術具が誤発動した」「威力が上振れして術具にヒビが入った」「炎術を撃ったら想定の三倍出て、仲間への誤爆になりかけた——怪我はなかったが」。
どれも一回きりの事象で、再現していない。操作ミスかもしれない。術式書のバージョンが古かったのかもしれない。そういう話として流れていた。組合への正式な問い合わせに繋がっているものもいくつかあったが、戻ってくる回答はどれも同じだった。個別案件として確認中。
夕方の酒場で、ガロがグレンの向かいに座った。
ガロは最初の一杯を半分ほど空けてから、杯を置いた。
「最近、妙な話をよく聞く」
「ああ」
「術具が一発だけ変な動き方をしたって話。パル市方面でも出てるらしい」
「噂は聞いてる」
「組合は何か言ってるか」
「現状は個別案件扱いだ」
ガロが杯の縁を指先で撫でた。酒場の喧騒が二人の間を流れた。隣の卓では若い冒険者たちが声を上げて笑っていた。
「……そうか」ガロが言った。「まあ、お前が言うなら、そういうことなんだろうな」
グレンは何も返さなかった。返せなかった。魔法契約が喉元にあるわけではない。先読み補完という言葉も、エストとの会合の存在も、今の会話には関係ない。ただ「組合が個別案件扱いにしている」という事実と、「それだけでは済まないだろう」という自分の感触の間に、言葉にできる道がなかった。
ガロはそれ以上聞かなかった。グレンが黙ったことを、了解の意味に取った。ガロはそういう受け取り方をする人間だった。
***
ある夜、定宿の小さな卓でアルカと向かい合っていた。
いつものように夕飯の材料を抱えて現れ、いつものように台所を占領し、いつものように皿を並べて座った。ウィセルに越してきてからもう一年以上が経つのに、アルカの料理はまだ量が多すぎた。
「件数、増えてる」
アルカが箸を止めずに言った。
術式書の出力異常に関するサポート部門への問い合わせ件数の話だ。アルカは守秘義務の範囲で、数字そのものではなく傾向だけをグレンに伝えることがあった。
「以前の傾向と同じ。新型換装が先行した地域ほど件数が多い。組合内では『慣らし期間』として処理されてるけど」
「慣らしで減るはずの件数が減っていない」
アルカが小さく頷いた。「減ってない。増えてる。単調に」
グレンは湯気の立つ椀を卓に置いた。「使えば使うほど、先読み補完が処理するパターンが増える。パターンが増えるほど、未定義の入力に対して誤った先読みが走る頻度が上がる。これは慣らしと逆だ」
アルカの箸が止まった。
「……止まる前に大きくなる、ってこと」
「ああ」
二人とも、しばらく黙った。窓の外で秋虫が鳴いていた。アルカが最初に動いた。椀を手に取り、汁を一口飲んで、それからグレンの顔を見た。
「私の側からできることは、今のところ限られてる。件数の傾向を上に上げても、個別案件の積み重ねとしか扱われない」
「分かってる」
「でも、記録は続ける。傾向だけでも、いつか根拠になるかもしれないから」
グレンは頷いた。アルカが食器を片付けて、台所で水音を立てている間に、グレンは宿を出てギルドに向かい、地下に降りた。
記録台を開いた。今週の威力値の揺れの件数。先読み痕跡の件数。月ごとの推移を記録板に書き足す。折れ線は右肩上がりだった。急ではない。緩やかに、だが確実に。止まる兆候が見えない。
単調増加。
慣らしの逆。
***
翌日の昼過ぎ、コンソール室の隅でハースが術式書の保守作業をしていた。
グレンが記録台に向かって通りかかると、ハースが顔を上げた。
「グレン。少しいいか」
「何です」
「最近、術式書の動きが妙だと思わないか。同じ術式を実行したときに、ごくわずかに出力が違うことがある」
グレンは足を止めた。
「感覚的な話だから証明はできない」ハースが続けた。手元の保守用の記録板を閉じて、椅子の背にもたれた。「一回だけなら誤差だ。だが……ここ二週間で三、四回ある気がしている。同じ火の術式を同じ条件で走らせて、出力値がほんの少しだけ違う。高い方にずれるときと低い方にずれるときがある。揺れの幅も毎回違う」
「確認できているか」
「できていない。記録に残る数値としては正常値の範囲内だ。だが——」ハースが指先で自分のこめかみを叩いた。「ここがな。同じ術式を毎日何十回と走らせていると、手触りが違うのは分かる」
グレンはハースの顔をしばらく見ていた。この人は術式書の保守担当として、十年以上同じ作業を繰り返してきた人間だ。測定器が拾えない差を、指先の感覚で拾える。
「使った術式書の種別と時間帯を記録してもらえますか。俺の方で照合します」
ハースが少し目を細めた。
「……例の件、まだ続いてるのか」
グレンは黙った。
「まあ、お前に頼んでおけばいい、という感じか」ハースが苦笑した。皺の深い目元がわずかに和らいだ。「了解した。記録する。書式は任せてくれ」
「助かります」
グレンは廊下に出た。石壁に背を預けて、天井を見上げた。
ハースが「感覚的に」気づいている。統計的に確認できる段階ではない。だが感覚は正しい方向を向いている。先読み補完の誤動作が、記録板の数値としてではなく、現場の人間の手触りとして検知可能になってきた。
日常の業務頻度で出始めている。
それはつまり——もう「レアケース」ではなくなりつつあるということだ。
***
その夜、コンソール室に一人だった。
記録台に向かいながら、ここ数週間の状況を整理した。
シェルムからの報告。水で火が出た。旅商人が持ち込んだ噂。威力の上振れ、誤発動。アルカの言葉。件数は単調に増えている。ハースの感覚。出力が揺れている。
それらに自分の記録を重ねた。東の塔の先読み痕跡は月を追うごとに増加している。読み替えレイヤーの問題が消えた二年前から、グラフの形が変わった。第一層の問題が消えたことで、第二層の問題が見えるようになった——のではない。第二層の問題そのものが、大きくなっている。
散発的な小事故が、着実に数を増やしながら進行している。
「これは止まらない」
声に出した。
今まで「かもしれない」「可能性がある」と言ってきた。記録を続ければいつか答えが出ると思っていた。だが今夜、初めて「止まらない」という確言が口をついた。
慣らしで解決しない。使い続ける限り件数は増える。組合の個別処理では全体像が見えない。アルカが内部で動いても、上に上げた情報は個別案件の積み重ねとしか扱われない。エストに伝えたとして、機構師連盟の設計に関わる問題だ。組合だけでは動かせない。
道が詰まっている。どこに持っていっても、どこかで壁に当たる。
グレンはランタンの芯を絞った。炎が小さくなって、コンソール室が暗くなった。記録板の文字が読めなくなるぎりぎりの明るさで、天井の石壁を見上げた。
「……もっと大きく何かが起きたとき、初めて動ける構図になっている」
冒険者として長く働いていると、「もっと大きく」が何を意味するか、ある程度の見当はつく。大規模な術式暴走。都市の魔法インフラが連鎖的に止まる。人が死ぬ。
問題の存在を知っていて、証拠も傾向も手元にあって、それでも止める手段がない。止められるのは、取り返しのつかない事故が起きて、組合が動かざるを得なくなったときだけだ。
それは——証拠の問題ではなく、時間の問題だった。
「……厄介だな、本当に」
独り言が石壁に吸い込まれた。返事はなかった。ランタンの小さな炎だけが、記録台の上で揺れていた。
その翌月。別の都市で、一夜にして魔法に依存していた都市機能が麻痺する事態が起きた。
【作者メモ】
ここからどんどんややこしくなって大変でした。




