Chapter14 四つの秘密
同じ茶店だった。同じ奥のテーブルに、ヴァンが座っていた。
ただし、隣にもう一人いた。
四十代と見える女だった。仕立てのよい外套を端正に着こなしている。椅子の座り方に背筋が通っていて、壁を背にせず、部屋の全体が見える角度に体を向けていた。会議の多い人間の座り方だ、とグレンは思った。
ヴァンが立ち上がり、小さく手で示した。「エスト。組合の技術標準部門に所属している」
本名かどうかは分からなかった。グレンも確かめなかった。
エストはグレンをひととおり見た。観察というよりも、記録を照合するときの目だった。テーブルの上に、先週と同じ革フォルダが置かれているのに気づいて、視線が一瞬そこに止まった。
「ヴァンから聞いている。ウィセルで端末を見ている人間が、記録を持っていると」
「そうだ」
「非公式な会合であることは承知している」エストの声には抑揚が少なかった。事実を述べるときの声だ。「あなたも、われわれも、今日ここで話したことは、公式のいかなる記録にも残らない。それでよいか」
「構わない」
グレンが席についた。茶が運ばれてきた。三人ぶん。ヴァンがそれぞれの前に置くのを手伝い、給仕が奥に引いた。テーブルの上には革フォルダと、三つの茶碗と、それ以外には何もなかった。
***
グレンは革フォルダから第一束を取り出して、テーブルの上に広げた。先週ヴァンに見せたものと同じ資料だが、並べ方を少し直してある。今日はエストに向けて話す。
「西の塔と東の塔へのリクエストで、応答フォーマットのズレの発生率に五倍以上の差がある。東の塔に集中している」
指でグラフの軸を示した。横軸が日付、縦軸が件数。二本の線が明確に乖離している。
「主要都市で読み替えレイヤーが稼働しているなら、同じものがウィセルの東の塔にも入っていれば——この差は説明がつく」
エストはグラフに目を落としたまま、短く言った。「そこは一致する」
認めた。読み替えレイヤーの存在はすでに公表されていたから、ここを否定する意味はない。グレンもそれを分かっていた。入り口だ。
「だが、問題はここから先だ」
第二束を開いた。
「威力値フィールドの揺れ。そして、応答が入力より先行している痕跡。これは東の塔へのリクエストに集中しているが——読み替えレイヤーを通らない、新型術式書を使ったリクエストでも出ている。変換の揺れでは説明がつかない」
エストの視線がグラフから離れ、グレンの顔に移った。
「新型の演算装置そのものの動作に、あるべきでない処理が入っている可能性がある。入力を受け取る前に出力を予測して先行送信している痕跡だ。予測が正しければ問題は出ない。外れたとき、術の威力が数値と違う値になる」
沈黙が落ちた。ヴァンが静かに手元の茶碗の位置を直した。動作そのものに意味はない。間を埋める仕草だった。
「組合の側には、同様の記録があるか」
エストは口を閉じたまま、数秒を数えた。呼吸が一つ分だけ長くなった。
「……これは、技術課の内部では『先読み補完』と呼ばれている処理です」
声が低くなっていた。「入力前に出力を予測して先行送信する——その名称で、設計仕様として存在している。機構師連盟が新型装置に効率化のために組み込んだもので、通常の動作条件では処理速度を大幅に向上させる」
「通常の条件では」
「……ええ。通常の条件では」
エストは一呼吸おいた。
「同様の記録があるかという問いに対しては——ある。件数は少ないが。原因の特定が難しく、個別案件として処理されていた」
個別案件として処理されていた。その言葉の意味を、グレンは正確に受け取った。サイロだ。件数が少なく、各地で別々に処理され、横断して見る人間がいない。アルカが言っていたのと同じ構造が、ここにもあった。
***
グレンは第三束を開いた。
「換装時期が早い地域ほど、問題の発生件数が多い。これは組合の内部にもデータがあるはずだ——各地のサポートが個別案件として処理しているものを束ねれば見えてくる」
エストの表情が変わった。変わった、というより——固まった。「知っていた」のではないが、「示されれば否定できない」という認識が来た顔だ。
「……これを整理したのは、あなた一人か」
「情報を照合する手伝いをしてもらった人間がいる。名前は言わない」
エストがヴァンを見た。ヴァンは何も言わなかった。
「なぜこれを正式に組合に持ち込まなかった」エストが言った。責めているのではない。確認だった。
「窓口がなかった」グレンは淡々と答えた。「正式な問い合わせを出しても、フォーマットの問題として個別処理されて終わると判断した。事実、西の街道沿いの小さなギルドは、同様の問い合わせを出して『術式書のバージョンを更新してください』と突き返されている」
エストが短く息を吐いた。否定しなかった。
沈黙が落ちた。茶碗の湯気が、三つとも消えかけていた。
「……読み替えレイヤーへのパッチは出せます」エストが言った。声は静かだったが、語尾が確かだった。「変換の揺れを抑える修正は技術的に可能で、展開の準備はできている。あなたが問題を整理していなければ、もう少し時間がかかったかもしれないが——準備自体はあった」
グレンはその言葉を受け取って、少し考えた。準備はあった。だが展開していなかった。「影響なし」という建前を崩すことへの組織的なためらいが、パッチの展開を止めていた。グレンが証拠を持ち込んだことで、「出す理由」ができた。そういう構造だ。
「つまり、読み替えレイヤーの不具合は実在し、修正は可能だと」
「認めている」
グレンは言葉を選んだ。「読み替えレイヤーの不具合が東の塔にだけ出ている。主要都市の公式換装とは別の何かが、ウィセルの東の塔で動いている——そういう理解でいいか」
エストの口元がわずかに引きつった。ヴァンが目を逸らした。
「……実証試験環境として」エストが低く言った。「ウィセル市の東の塔は、読み替えレイヤーの事前検証のために、新型に換装されている。これは公式に発表された換装計画には含まれていない」
部屋が静かになった。奥の厨房から皿が触れ合う音が遠く聞こえた。
グレンは息を吐いた。「……ああ、やっぱり」
「やっぱり、とは」
「ずっとそうじゃないかと思ってた。東の塔で工事があったって噂があったし、応答の記法が変わっていたのも、テストなら辻褄が合う」少しだけ間を置いて、「実証試験か」と繰り返した。
エストの表情にかすかな驚きが走った。「……いつから」
「推測としては、だいぶ前から。確信はなかった。今まではな」
***
「先読み補完と威力値の揺れ」グレンが続けた。「あちらの対処は」
エストが少し目を伏せた。
「……そちらは時間がかかる」
「どれくらい」
「装置の設計に関わる問題であれば——機構師連盟への問い合わせと対応になる。組合の側だけで完結しない」
「つまり、今は動けない」
「動けない、ではなく——今すぐ動ける段階ではない、というのが正確です」
エストの言葉は正確だった。誤魔化しではなく、組織の中で誠実に言えることの限界がそこにあった。グレンはそれを感じ取った。
次の質問に移った。「西の塔の問題だ。今はまだ旧型で動いているが——新しい術式書が普及すれば、書式第二式でリクエストが来る。旧型の西の塔では処理できない」
エストが頷いた。「分かっている。だから——」
少し間があった。
「旧型の西の塔にも、書式第二式から第一式への逆読み替えレイヤーを実装する方向で調整している。新しい術式書が第二式で命令を送っても、西の塔の側で第一式に変換して処理する。これで新旧どちらの術式書でも西の塔を利用できるようになる」
グレンは腕を組んだ。「逆読み替え、か。……読み替えレイヤーをもう一層増やすわけだ」
「許してもらいたい」エストが言った。率直な声だった。「完全な解決は機構師連盟との調整が終わるまで待ってほしい。逆読み替えレイヤーは——暫定対処だ」
「暫定が永久になることもある」
「……否定はできない」
短い沈黙があった。茶碗はもう冷え切っていた。
「もう一つ聞いていいか」とグレンが言った。「西の塔の換装スケジュールはどうなっている」
エストの口が一瞬閉じた。それから、低く言った。
「……もう一つ、お伝えしなければならないことがある。これは——公式に発表していない内容になる」
「聞く」
「西の塔の換装について。機構師連盟の部品調達の問題で、換装スケジュールが大幅に遅れる見込みがある。十年単位になる可能性が高い」
十年。
グレンは何も言わなかった。
「つまり——ウィセルの西の塔は、当面のあいだ旧型のままで動き続けることになる。逆読み替えレイヤーが入り、新しい術式書からのリクエストにも対応できるようにはなる。だが根本は旧型です」
旧型が残る。十年。逆読み替えレイヤーで新型術式書にも対応する。だが根本は旧型——つまり先読み補完の問題は発生しない。この先何かが起きたとき、西の塔に振り向けられれば、新型の演算問題を回避できる。
グレンはその構造を、言葉にはせず、頭の中に置いた。
「……了解した」とだけ言った。
***
エストが姿勢を正した。
「今日の話のうち、口外を禁じたい内容がある」
グレンは黙って待った。
「一。ウィセル市の東の塔が読み替えレイヤーの実証試験環境として新型に換装されている事実」
エストは指を折りながら続けた。
「二。西の塔の換装が十年単位で遅延する見込みである事実。三。西の塔に逆読み替えレイヤーを実装する計画。四。演算装置に先読み補完の問題が存在する可能性について、組合が認識している事実」
グレンは少し目を細めた。四つの項目を頭の中で並べ直した。
「……読み替えレイヤーの修正以外、全部じゃないか」
「そういうことになる」
エストの声に感情はなかった。ないのではなく、抑えていた。進退窮まった人間が、自分の職務の範囲で最善を尽くそうとしている声だった。グレンにはそれが分かった。
ヴァンが静かにこちらを見ていた。何も言わなかった。表情にも言葉にも何も出していなかったが、この場を繋いだ人間として、結果を見届けている目だった。
グレンはため息をついた。長い、静かなため息だった。
「……まあ、俺が黙ってるだけで済むなら……仕方ないな」
それだけだった。
エストがかすかに頭を下げた。深く下げたわけではない。組織人として、約束を受け取ったことへの確認の動作だった。
グレンが立ち上がった。革フォルダを手元にまとめた。三つの束を紐で括り直して、鞄に戻す。エストもヴァンも立ち上がった。
三人が店を出た。通りには夕方の光が差していた。旅商人の荷車が一台、石畳の上をゆっくり通り過ぎた。
エストが一礼して、別の方向へ歩いていった。背筋の通った歩き方が人混みに消えるまで、グレンはなんとなく見送っていた。悪い人間ではない。組織の中で、自分にできることをやろうとしている人間だ。そういう人間に秘密を預けられるのは、面倒だが、最悪ではない。
「グレン」
ヴァンが残っていた。
「パッチの展開は早い。一週間以内に全塔に行き渡る見込みだ」
「ありがたい」
ヴァンが少し間を置いて、言った。「アルカには、俺から経過を伝えておく。パッチの件だけ——それ以外は、あなたの判断で」
「ああ。頼む」
ヴァンが頷いて、エストとは反対の方向に歩いていった。
グレンは一人になった。
馬を繋いだ場所まで歩きながら、今日起きたことをゆっくり反芻した。
読み替えレイヤーには、パッチが来る。それだけが公開情報だ。それ以外——東の塔の実態も、西の塔の遅延も、逆読み替えレイヤーも、先読み補完も——全部、俺の中にしまっておけということか。
口外できない。だが——行動で伝えることは、また別の話だ。
まだその言葉は頭に浮かぶだけで、何も決めていない。
馬の手綱を解いて、鞍に手をかけた。夕陽が街道の先を赤く染めていた。ウィセルまで三時間。暗くなる前には着く。
「……覚えておく」
宙に向かって言った。馬が耳だけ動かした。
数日後、グレンはアルカに「次があるなら、正式に形にしてもらいたい」と言われた。
【作者メモ】
この秘密を知ってしまったからにはただでは帰さない回




