ノエルの百年前 上
しばらく回想が続きます。
百年前のノエルはやはり今と変わりなく優しい家族に囲まれ、平穏に暮らしていた。あの頃の彼女には優秀な兄がいたため、社交界には一切顔を出さず、家業を手伝う予定であった。
当時はまだ伯爵だったブラックウッド家が生業にしていたのは隠密である。
優れた身体能力や鋭敏な感覚を持ちながら獣人とわかりにくい外見や、地味な容姿は隠密にうってつけだったのだ。
ノエルはやや感覚が鋭敏すぎるし尻尾があったから他国に潜入するのではなく、他国から侵入した隠密の捜査や要人の警護を請け負う予定であった。
だから、顔を覚えられないためにも公の場に出ない許可を王家から得ていたのだ。
そんな彼女に第二王子との縁談が降って湧いたのだからそれは驚いた。しかし、申し訳無さそうな父が語った事情に納得した。
彼女が婚約する予定のヴィンセントは大変見目麗しく文武両道の、非の打ち所がない王子である。
だが、もう二十歳になる彼には何故か婚約者候補すらいない。原因はアッシュフィールド公爵家のミカエラだった。
彼女は王太子の婚約者候補である。選定のための茶会に出席した折に、同席していたヴィンセントに一目惚れしたそうだ。
以来、自分とヴィンセントは番だと主張して婚約者になることを望んでいるらしい。
しかし、ミカエラもヴィンセントも獣人ではない。
それにヴィンセント本人が彼女を強く拒んだために番ではないと判定され、その話はそれで終わる――はずだった。
ミカエラはヴィンセントに拒否されようとも諦めず、しつこく付き纏ったそうだ。その上、彼の婚約者候補に名前が上がった令嬢に対し、暗躍して社交界から追い出したりもしたらしい。
そのため、ヴィンセントの婚約者に名乗り出るような令嬢がミカエラ以外に居なくなってしまった。
最近は特に付き纏いが激しくなり、ヴィンセントは倒れるほど疲弊している。
国王がアッシュフィールド家に抗議をしているが、のらりくらりと躱される。
元々少しばかり不穏な動きが見られることもある家だった。しかし、ここ最近の増長ぶりは酷く、ヴィンセントを取り込んで王位を掠め取ろうという野心を隠しもしない。
これ以上ミカエラとアッシュフィールド家を野放しにはできないと、国王はブラックウッド家を呼び出した。
隠密を大量に抱えるブラックウッド家ならアッシュフィールド家からヴィンセントを守れるし、何よりもノエルがいる。
ノエルはヴィンセントと年も近く、身分も悪くない。身体能力は獣人の中では普通の方だが、隠密になるための訓練を受けており、自分の身を守れる。
何より一番重要なのは鋭敏な感覚を備えていることだ。
アッシュフィールド公爵家は建国からずっと暗殺を担って来た一族である。
特に毒の扱いに優れ、近年はズメイ王国に攻め入ろうとしていたミルメコレオ国の王族をほとんど暗殺したという功績を上げていた。
証拠も残さず、気づかれないまま人を殺す彼らに対抗するには、それに気づける能力のある者を用意するしかない。
ヴィンセントの婚約者にノエルほどの適任はいなかった。
国王に頭を下げて頼まれ、父は断れなかったようだ。ノエルもそれは仕方がないと理解して婚約を受け入れた。
正直婚約に関してはミカエラのことが片付き次第解消されるだろうと真に受けてなかったので、仕事の延長くらいの気持ちで顔合わせに臨んだのだ。
だから、ヴィンセントが番であるとわかった時は、思わぬ贈り物を貰ったようで嬉しかった。
「ぼんやりしているけれど大丈夫? ぼくの顔に何かついているかな?」
「えっ!? い、いいえ! 申し訳ありません! 殿下がとても素敵なので見惚れておりました!」
ただ、完全に不意打ちで、恥ずかしいくらい動揺していた。正直すぎるほど思っていることを暴露してしまって真っ赤になる。
対するヴィンセントは余裕があり、なんでもない顔で「ありがとう」と彼女の言葉を受け流していた。言われ慣れているのだろう。
今ノエルが感じているような衝動をヴィンセントが感じることはない。
それも仕方のないこと。番の衝動は獣人だけのものだ。
人間も、人によっては番の自覚が芽生えることもあるそうだが、個人差がある。勿論一生自覚しない方が圧倒的に多い。
ノエルはその時、ヴィンセントに番であることを秘密にすることに決めた。
彼女の一方的な感覚であるし、彼は長いこと番だからという理由でミカエラに執着されている。きっとノエルまで同じことを言い出したら怖いだろう。
ただ、体の反応は抑えられない。番に会えた喜びからドレスの下では尻尾がパタパタ動いているし、発作かと思うほど動悸は激しいし、話しかけられるだけで舞い上がってしまう。
「すごく顔が赤いけれど、熱でもある?」
「ぴえっ!」
相当赤面しているのか、心配したヴィンセントが顔を覗き込んでくる。あまりの近さにノエルは飛び退いた。
「だだだだいじょうぶですので!」
「そう? 無理は良くないよ」
むしろこれ以上近づかれたらノエルは気絶する。
そんな調子で、終始落ち着きのないまま初顔合わせは終了した。
ノエルは不甲斐ない自分に落ち込んだ。何事も第一印象が大切なのに、番に挙動不審な態度をとってしまった。
二人の婚約は、意外なことに正式なものだった。国王はこれでミカエラやアッシュフィールドが引き下がるとは思っておらず、継続的な保護を求めていた。
二人の相性に問題がなければこのまま結婚できる。こんなに都合の良いことがあっていいのかと震えた。
ノエルは家族にだけはヴィンセントが番であることを伝えておいた。
同席していた両親は「やっぱりね」みたいな顔をして祝福し、まだ番が見つかってない兄のサディアスはとても喜んだ。
「婚約者が番なんてノエルは運がいいな」
「本当だよね。みんな色んなところに仕事に行って見つけてくるのに」
ブラックウッド家に番の夫婦が多い理由は仕事で様々な場所に派遣されるついでに番を探すからだ。
国内であっさり見つける者がいる一方、様々な国を渡り歩いてもまったく見つからず、番を諦める者もいる。
だいだいみな苦労して番を見つける中、探すことなく番と出会えたノエルは幸運だった。
「お兄様も早く番が見つかるといいね」
「……そうだな。いっそのこと見つかった方がいいのかもしれない」
サディアスが憂いを帯びた表情でどこか遠くを見つめた。
色彩だけはノエルと同じで、母に似た白皙の美貌を曇らせる。そんな顔をして想っているのが誰か、ノエルには簡単に想像できた。
兄の番は見つかっていないが、代わりに熱心な求婚者がいる。オフィーリアという子爵令嬢だ。
子供の頃に茶会で出会い、オフィーリアがサディアスに一目惚れした、という一見ヴィンセントとミカエラに似た経緯でふたりは知り合った。
しかし、ヴィンセントたちと違って兄とオフィーリアは仲がいい。真っ直ぐサディアスに想いを伝えるオフィーリアを兄は憎からず思っている。
だが兄は、もし結ばれたあとに番と出会ってオフィーリアを傷つけるようなことをしてはいけないと、彼女の想いに応えていない。
ノエルはサディアスが内心オフィーリアが番であれば良かったのにと残念に思っているのを知っていた。
ノエルも数少ない友人のオフィーリアが兄の番であって欲しかったが、ままならないものだ。
「ノエルは恋をする前に出会えてよかったな」
「……うん」
サディアスはほろ苦い笑顔を浮かべた。
婚約者が番で、ヴィンセントとノエルの間にはなんの障害もない。
これからノエルが努力してヴィンセントに好きになってもらえれば、両親と同じように幸せな家庭を築けると、その時のノエルは心の底から信じていた。
◇◇◇
初顔合わせからノエルは時々王宮に通うようになった。ヴィンセントと交流を深めるためという名目の二人っきりの茶会があるからだ。
それは、何回目のことだったか。なんとかヴィンセントを前にしても挙動不審にならない程度に落ち着いた頃のことだった。
もの慣れないノエルに対してヴィンセントはいつも優しく紳士的で、にこやかだ。その日はどういう話の流れか忘れたが、茶菓子の話をしていた。
「ノエルはいつもあまり菓子を食べないが、口に合わなかったかな?」
「いえ、いつも美味しくいただいています!
私は獣人ですから、あまりたくさん食べ過ぎないように気をつけているのです。気に障ったなら申し訳ありません」
「ああ、そうか。獣人は食べられないものがあったね。もしや食べられないものばかり出してしまったのかな」
「大丈夫です! 体調を崩さないように気をつけているだけなので!」
眉を下げるヴィンセントに申し訳なくなって力強く否定した。
もてなしはいつも十分すぎるほど受けている。そもそも、ノエルは彼と一緒にいるだけで胸がいっぱいになってあまりものが喉を通らない。
「そう? 好きなものがあったら教えてほしい。用意するから」
「あ、ありがとうございます……」
「そう言えばお茶はこれで大丈夫だろうか」
「はい、大丈夫です」
「良かった。ああ、でも冷めてしまったから淹れ直して貰おうか」
茶会の席で用意されるのはいつもハーブティーだ。ヴィンセントの好みなのか、毎回同じ、香りの強いものが出された。
ヴィンセントに頼まれた侍女がふたりのカップを下げて新しく淹れ直しているうちに話題が変わる。
「ノエルは獣人なんだよね? ちょっと見た目にはわからないけれど……」
「はい。私だけじゃなくて父と兄もそうです。うちの一族は外見に特徴が現れにくくて……。父と兄は歯が少し尖っているので機会があったら見せて貰ってください」
「そうなんだ。ところで君は?」
「私も牙がありますよ。ほら」
「本当だ。八重歯みたいでかわいいね」
少々はしたないが、口を開いて牙を見せると、褒められた。思わず照れてしまう。
「あ、あと尻尾があります! 服の下なので見せられませんが」
「尻尾?」
照れ隠しに尻尾の存在を教えると、ヴィンセントの視線が尻尾のある方へ動き、途中で止まった。
生えている場所が場所なので見る訳にはいかないのだろう。
「ふうん、そうなんだ。君はどんな尻尾をしているの?」
「えっ?」
「尻尾にも色々種類があるから。君の尻尾はどんな動物のものだろう。どれくらいの長さでどんな色をしているのかな? 毛は長いのか短いのか、どっちだろうか?」
「えっ、ええっ!? えっと……」
見る代わりに始まった質問攻めに、ノエルは混乱した。尻尾についてそんなに細かく訊かれるなんて初めての経験である。
「その、秘密です! 結婚するまで秘密です!!」
混乱するあまり訳のわからないことを言ってしまって慌てた。
尻尾のことなんて重大な秘密でもなんでもない。そんな些細なことを秘密にされたヴィンセントはきょとんとしている。
ノエルはどうしたらいいかわからずにあわあわしていた。
「ふ、ふふふっ! ふふっ! そうか……。そうだね。結婚したらのお楽しみにしようか」
ヴィンセントはクスクスと軽やかに声を上げて笑った。番の心の機微に獣人は敏感だ。だから今のヴィンセントが本当に面白がっていると感じた。
そんなちっぽけなことで番が喜んでくれたのが嬉しくてノエルも自然と微笑んでいた。
「じゃあ、あなたの夫になった時には尻尾を見せてくれる? ついでに触らせてくれると嬉しいな」
「はい、勿論です。楽しみにしていて下さいね」
雰囲気が和んだところで淹れ直された茶が二人の前に置かれた。
馥郁とした香りが鼻をくすぐり、気分が解れる。しかし、ふと、違和感を覚えた。
強く爽やかなハーブの香りに混じって甘い匂いがするのだ。すぐに自分のカップを手に取って確かめるが、そこからはハーブの香りしかしなかった。
でも確かに先程までとは違う甘い匂いがする。
「殿下、申し訳ございませんが、私のお茶と交換して頂いても?」
「お茶を? ……構わないが」
ノエルの申し出にヴィンセントは一瞬不思議そうな顔をするが、彼女の雰囲気が変わったことに気づき、すぐに言われた通りに交換した。
ノエルは受け取ったヴィンセントの茶の香りを確認した。
やはり甘い匂いの元はヴィンセントのものからしている。
その匂いは本来あまり飲食物から香るものではない。こんな怪しいものを仕込める人物はひとりしかいなかった。
「そこのあなた。これはどういうつもりです」
「なんでしょうか?」
ノエルが冷たく問いただすと、侍女は不思議そうな顔をした。なんの心当たりもなさそうな様子に、演技ならたいしたものだと思う。
「殿下のお茶にだけ、薬を盛りましたね。匂いでわかります」
ノエルの言葉にヴィンセントが咄嗟に彼女の手にあるカップを見る。ノエルはそれを差し出した。
「殿下も確認してみてください。私のお茶と違って甘い匂いがするはずです」
「わかった」
素直にヴィンセントはそれぞれのカップを嗅ぎ比べる。侍女の表情に初めて焦りが浮かぶ。
「確かに僅かだが、香りが違う気がするね」
「わ、わたくし、何もしておりませんわ!」
「右のポケット。それから左手の指先からも微かに同じ匂いがしますね」
ノエルの指摘に侍女は震え出した。無意識にかふるふると首を振っている。ヴィンセントが外で待機していた騎士を呼んだ。
「最初のお茶に、薬を入れなかったのは油断させるためですか? 一度安全なものを出せばすんなり飲んでくれると思いましたか?」
「知り、知りません。わたくし、本当に何も……」
「そうですか。まあ、確たる証拠がありますので、言い逃れなどできませんよ」
「この女を拘束して牢へ。ぼくになんらかの薬物を盛ろうとした。証拠は右ポケットに入っているそうだ」
入ってきた騎士にヴィンセントが指示を出す。
侍女を取り押さえた騎士がポケットを探ると少量の液体が入った小瓶が見つかった。
「うそっ……! こ、これは何かの間違いです!」
「では何でそんなものを持っている」
「そ、そ、そそ、そ、それ、それ、それ、は……」
ヴィンセントに問いかけられた侍女の様子が一変する。
表情が抜け落ち、呂律が回らず、脱力してへたり込む。
騎士が彼女を支えたが、失神したかのように体に力が入っていない。目も虚ろだ。
ひたすら「それは」を繰り返す姿はあまりにも異様で、熟練の騎士たちもたじろいでいる。
ノエルとヴィンセントも思わず立ち上がり、後退っていた。
「これは、一体……。いや、そんな場合ではないな。牢ではなく医務室へ運んでくれ。死なれたら証言が取れない」
誰よりも早く冷静さを取り戻したヴィンセントはノエルへ見せた柔和な表情を消し去って、きびきびと指示を出す。
気を取り直した騎士たちは薬の瓶だけではなく、カップも回収し、慌ただしく部屋を出て行った。
ノエルはそれを難しい顔のまま見送った。
「ノエル、本当にありがとう。おそらくあの侍女はミカエラの手の者に違いない。あの様子……。ミカエラに何をされたのか……」
「それは、まだわかりません。ただ……」
「何か気になることでも?」
「アッシュフィールド嬢は何を企んでいるのだろうかと不思議に思いました」
「何か不審な点でも?」
ヴィンセントの問いかけにノエルは自分の考えを話し始める。
ヴィンセントに盛られた薬は特徴的な匂いからイランイランという外国の花を原料に使ったものだとノエルは断定した。
「そこまでわかるのか」
「イランイランは名前が知られてないだけで化粧品の香り付けによく使われているのです。特徴的な香りなので、すぐわかりました」
「そんな身近に? 害はないのかな?」
「毒がある植物ではないので問題ありません。
あの、イランイランは、その、原産の国では新婚夫婦の寝台に撒かれたりする花、なので、さささ、さい、催、淫作用がある、とか……」
説明のためとはいえ令嬢が話すにははしたない内容に異常に吃ってしまった。ヴィンセントも気まずそうに身動ぎした。
「……そ、そうなんだ? 実際のところはどうなんだろう?」
「気分を昂揚させるというよりは沈静させる効果があるそうですが……。一般に出回っている殿方を、そ、その気にする香水の材料のひとつではあります……」
ヴィンセントを見られずに俯いて指先を意味もなくもじもじと絡める。
沈黙が続き、恐る恐る視線を上げると、居心地が悪そうだったヴィンセントの表情がびっくりするほどの凶相に変わっていた。
「で、殿下……」
「ああ、すまない。君に怒っているんじゃないんだ。つくづくあの女は最悪だと思ってね」
恐ろしい表情は一瞬にして消え、柔和な笑顔が浮かぶ。
自分に盛られた薬の効果を知って益々ミカエラへの嫌悪を深めたようだ。
優しいヴィンセントしか知らなかったノエルは意外な一面に動悸が止まらない。
「えっ、えーっと。イランイランですが!
香水に使われていることからわかるように香りが強く、密かに飲食物に盛るには向きません。そもそも魅惑的な香りがするというだけで、そ、そういう効果があると証明はされていませんし」
「惚れ薬のような効果は期待できないということか。香りに関しては、その通りだね。ぼくでもわかるくらいだ」
「そうなんです。普通の人でも気をつけていればわかる、効果が確かでない薬をどうして盛ったんだろうと不思議で」
「ミカエラは君ほどの知識は持っていないのだろう」
「彼女はアッシュフィールド家の人間ですから、植物の効能なら私よりも詳しいはずですが……」
アッシュフィールド家の暗殺は主に毒物を用いたものだ。
邸には様々な国から取り寄せた毒草を育てる植物園があり、彼らはそこから独自の毒を調合する。
ノエルがブラックウッド家の技能を習得しているように、ミカエラもまた毒の調合ができるほど植物に詳しいはずだ。
それなのに効能の怪しい薬を盛ろうとしたのなら、何か特別な意図があるのかもしれない。
「彼女は他家に嫁ぐ人間だし、そういったことは教わらないんじゃないかな」
「あ……。それもそうですね……」
何気なくヴィンセントが放った一言にノエルはハッとした。
さっぱり失念していたが、暗殺の技術など跡取りでもない限り教わるはずがない。
直系の令嬢であるノエルを隠密に育てたブラックウッド家がちょっと特殊なのだ。
ただ、ミカエラに毒の知識はなくとも彼女の家にはそれらに関する資料が溢れている。そこから独学で学んだとしたら――。
「殿下、我が家の者を何人か、お側においてもよろしいですか?」
「ブラックウッド家の隠密を? ぼくは構わないが」
「ありがとうございます。あと、お医者様に一度しっかり診察して貰って下さい」
「他にも何か薬が盛られていたと疑っている?」
「はい。イランイランからわかるように彼女の薬の知識は中途半端なようです。効果のあると思ったものを闇雲に殿下へ盛っているのかもしれません」
ヴィンセントは眉を顰めてからわかったと頷いた。
ミカエラが望む効果があるとされる植物はいくつか存在する。中には摂取する量によっては中毒を起こすものもあるのだ。
効果があるらしいというあやふやな知識を頼りに薬を飲まされ、不調をきたすのはヴィンセントである。
先程の侍女のような者が彼の周囲に複数いるとは思いたくないが、一度しっかり調べておかないとヴィンセントの命が脅かされる。
「殿下に長年仕えた方々まで疑いたくはありませんが、念のために出された飲食物はすべて我が家の者に確認してから召し上がってください。特におひとりの時に出された物にはご注意を」
「わかった。色々とありがとう」
「いえ、当然のことをしたまでです」
そう答えて、いつの間にか随分近い距離で話していることに気づいた。今さら恥ずかしくなって、そっと距離を取る。
しかし、その距離を埋めるようにヴィンセントがぐっと身を乗り出してきた。
「ひぇ」
「……ぼくは名前で呼んでいるのに、君はずっと敬称だね。そろそろ名前で呼んでほしいな。それとも君に守られてばかりの情け無い男の名前は呼びたくない?」
至近距離で顔を覗き込まれた。近づいた分だけヴィンセントの匂いが強くなり、頭がふわふわする。
急に体温が上がり、心臓が激しく打って頭が真っ白になった。
「そ、そんなことはありません! その……ヴィンセント様は立派な方です!」
離れて欲しい一心で名前を叫ぶように呼んでいた。ヴィンセントに慣れたばかりのノエルにこれは刺激が強すぎる。
ヴィンセントは「ありがとう」と言って、はにかむ。その隙にズササッと後退った。
「ち、父と相談せねばなりませんので! 本日は失礼させて頂きます!」
「送ってくよ」
「大丈夫です! ありがとうございます!」
これ以上は身が持たないとまた近寄ってくるヴィンセントから逃げるように身を翻して部屋を出る。はしたなくないギリギリの早足で馬車へ向かった。
(帰ったらまずお父様に相談して、早めに誰か派遣して貰わなきゃ! それから……)
何か考えていないとどうにかなってしまいそうで、これからやるべきことに没頭する。
ヴィンセントから離れたのに心臓は早鐘を打っているし、顔は熱いままだ。もう何度か会って大丈夫だと思ったのに、結局挙動不審な自分に泣きそうになる。
もっと落ち着いてヴィンセントと交流したかったが、このままでは好意を伝えることすらままならない。
いつも通り反省しながら馬車に駆け込んだ。慣れた家の匂いがする馬車で深呼吸を繰り返すと次第に気分は鎮まっていく。
ただ、連れて来ていた侍女のことをすっかり忘れて置き去りにしてしまったので、あとで本人からしこたま怒られた。




