ヴィンセントの百年前 下
ちょっと残酷な描写があります。
新年の夜会の当日。ヴィンセントは終始父の近くに控えていた。
国王の隣にいれば自然と諸侯に会えるし、女避けになる。
本来なら令嬢たちと踊るのも王子の義務だが、婚約者を亡くしたばかりのヴィンセントを気遣い、父は無理強いすることはなかった。
それに、本来国王の隣に立つべき王妃がいないこともヴィンセントがここにいる違和感を無くしていた。
王妃は半年ほど前から病に倒れて寝台の住人になったとされている。
実際は健康この上なく、あることが原因で離宮に幽閉されただけだった。
王妃はアッシュフィールド家から賄賂を受け取っていた。
ヴィンセントの周辺に彼を守る者が誰もいないのも、ミカエラが何の障害もなくヴィンセントに会いにこれたのも、すべてこの賄賂があったからこそ。
勿論王太子のお気に入りであることも彼女の行動範囲を広げたが、王妃が便宜を図ったことのほうが影響は大きい。
有力な公爵家に逆らう真似をしたくなかったとか、ミカエラは本当にヴィンセントを愛していたからなどと、王妃は数多の言い訳をしたそうだが、許されなかった。
そもそも国王は王子とアッシュフィールド家の令嬢を結婚させるつもりはなかったし、その意向を側近だけではなく王妃にも伝えていた。
つまり、王の意志に叛いていたのだ。言い逃れなどできなかった。
どこか腑抜けたこの一年で、ミカエラの処刑より強く、王妃の幽閉がヴィンセントの心を揺さぶった。
彼女は生まれてこの方一度もヴィンセントの母親ではなかった。
彼女の中で子供は兄だけで、ヴィンセントはおまけ以下の存在だ。
兄と違い父に似た容姿が気に入らなかったのか、それとも母に忠実な兄が殊更好きだったのか。
何が原因かはわからない。
ただ王妃はミカエラが嫌いで、有力な公爵家の生まれである彼女を兄の婚約者にしたくないがためにヴィンセントに押しつけたことは知っている。
兄の婚約者候補の中で、一番家格が高いのがミカエラと、その姉だった。
勿論、国王はアッシュフィールド家との縁談など考えていなかったのだが、アッシュフィールド家側からしたら別だ。
王子たちと年齢の釣り合う、一番家格の高い令嬢である姉妹が、どちらも王子と婚約出来ないなど、抗議してくるに決まっている。
王妃はその折衝を面倒臭がって、ミカエラがヴィンセントを気に入ったことに乗っかったのだ。
愛された記憶どころか、利用された経験しかない母親の幽閉はどこか複雑な気持ちを彼にもたらした。
こんな時、ノエルが隣にいてくれたらどんな言葉をかけてくれただろうか。
そんな益体もないことを考えながら視線を彷徨わせると、兄の姿が目に入った。
兄は真面目に役目を果たしている。愛人を連れてくるのではと危惧していたが、隣にいるのはちゃんと婚約者だ。
機嫌良く貴族の相手をしていて、またしても違和感を覚える。
兄は、母の言いなりだった。
彼が母に反抗したのはミカエラのことだけだ。
どちらかというと二人の気は合っており、母の愛情を独占する兄はよく優越感に浸っていたものだった。
ミカエラに、母。兄の人生にかけがえのない二人の女性が欠けたというのに、有体に言って兄は浮かれている。
兄への不信感を深めていると、目当ての人物が彼らの前へ進み出た。
ノエルと同じ、灰色と榛色の色彩を纏う男二人と、銀髪に碧の瞳の玲瓏たる貴婦人。亜麻色の髪にオレンジ色の瞳の愛嬌のある令嬢。
ブラックウッド伯爵とその妻に息子のサディアス。そして、ヴィンセントの知らない令嬢だった。
「国王陛下並びに第二王子殿下に新年のご挨拶を申し上げます」
ゆったりと人好きする笑顔を浮かべ、ブラックウッド伯爵が礼をする。それに夫人とサディアス、令嬢も従った。
「大儀である。……先年はそなたらの過分な働きに助けられた。感謝する。今後もよろしく頼むぞ」
「はっ! 今年も一族郎党、陛下とズメイ王国に変わらぬ忠誠を捧げます」
堅苦しい挨拶が終わる。ヴィンセントは大人しく父の背後に控えていたが、心臓は早鐘を打っていた。
「……して、そちらの令嬢は」
「こちらはこの度息子サディアスの婚約者に決まったオフィーリア・サザーランド子爵令嬢でございます」
「そうか。ついにサディアスは婚約者を決めたのか。喜ばしいことだ。私からも祝いの品を贈ろう」
「ありがとうございます。もったいないことです」
短い会話が終わり、ブラックウッド伯爵夫妻は二人を連れて、国王の前を辞した。
代わりに後ろから別の貴族が挨拶に進み出る。
ヴィンセントは素早く父に暫く離れることを耳打ちした。
人混みに消えた四人の姿を探す。もはや兄のことなど欠片も頭になかった。
人に紛れても目立つ美貌の夫人を連れたブラックウッド伯爵は、不思議と見つからなかった。
代わりに夫人によく似たサディアスが婚約者と寄り添っている姿はすぐに見つかった。
美男子な上に獣人であり、伯爵家の後継であるサディアスは令嬢に人気があった。
その彼が突然婚約者を連れて現れたのだ。同じ年頃の貴族たちから注目を集めていた。
二人はこれからダンスをするつもりのようだ。
サディアスの完璧なリードの元、オフィーリアがステップを踏む。ふわりと広がるドレスの裾に既視感を覚えた。
一年前の夜会。ヴィンセントもノエルとああして踊った。
隠密として訓練を受けた彼女の身のこなしは軽く、彼は今までで一番楽しい時間を過ごした。
あの時まで、彼は幸せだったのだ。
(ノエルが生きていれば)
今日もあの幸せな気持ちに包まれていたのだろうか。
そんな、あり得ない妄想に囚われたヴィンセントはぼんやりと二曲目を踊る二人を見つめていた。
彼に話しかけようとする令嬢の人だかりができたところでやっと気を取り直し、笑顔を貼り付けて逃げる。
鬱陶しいと思っていても、悪印象を与えないように笑顔を浮かべる。
そんな弱腰の自分がヴィンセントは嫌いだった。
でもそれは彼なりの処世術だ。忙しい父に迷惑をかけずにすみ、母の庇護がなくとも王宮で生きていくためには誰からも慕われる王子になるしかなかった。
(けれど、そのせいでますます母上には嫌われてしまった)
母の言いなりなせいで目立たない兄と比べるとヴィンセントは才気煥発に見えたらしい。
王太子にヴィンセントを推す貴族がちらほらいた。
特に王位を望んでいなかったヴィンセントはその件で王妃から余計な不興を買っていい迷惑だった。
ヴィンセントが望んでいるのは平穏な生活だ。
ミカエラに脅かされず、父を助ける仕事ができ、隣には心許せる伴侶がいる。
(その相手は、レスリーだと信じていた)
彼女と出会った時、ヴィンセントはかなり追い込まれていた。
その時は知らなかったが、王妃が本格的にヴィンセントへミカエラを押しつけようと、様々な手に打って出ていたのだ。
ミカエラを焚き付け、使用人は信用ならない者に代わった。
ノエルに指摘されるまで気づかなかったが、盛られた薬のせいで常に体調が悪く、深く物事を考える力が失われていた。
だから、レスリーがミカエラから逃してくれることに感謝していたのだ。
それが燃えるような恋心に変化するのに、時間はさほどかからなかった。
(でも、あれは本当に恋、だったんだろうか)
ミカエラによって与えられた怪しい薬の数々。
思えば薬を盛った使用人たちが捕まったあと、再会したレスリーに対しても駆り立てられるような激情を覚えることはなかった。
これは恋だと確かめるために逢瀬を重ねたが、会うたびに手から恋情がすり抜けていくようにすら感じた。
(ぼくは、薬のせいで間違ってしまったのかもしれない)
そんなことを今さら自覚しても、すべては終わっている。
レスリーに対する恋心は未だに復活していないが、ヴィンセントは彼女と結婚する。
それがノエルが命懸けで守ったヴィンセントの『幸せ』であるはずだった。
相変わらずブラックウッド伯爵は見つからない。
人混みを縫って歩き回っていると、ダンスを終えたサディアスとオフィーリアが戻ってきたところだった。
この際彼でもいいと近寄る。サディアスはすぐ彼に気づき、きつく睨みつけてきた。
気迫に押されるが、なんとしてでも引く訳にはいかなかった。
「やぁ、サディアス。婚約おめでとう。少し話したいんだが、構わないかな?」
「ありがとうございます。嫌だと言ってもしつこく追い回すでしょうから、いいですよ。バルコニーに出ましょう」
王子相手でも物怖じせずにちくりとひとつ嫌味を刺し、サディアスはオフィーリアを連れてバルコニーへ歩き出した。
「いや、出来れば二人きりで……」
「オフィーリアはノエルの親友です。事情はすべて知っていますよ」
話題がノエルのことだと予想がついていたようだ。
オフィーリアを見ると一瞬目が合った。彼女は何も言わず、ただ冷ややかな目をしていた。何故だかどっと冷や汗が出る。
サディアスはそんな彼に関心がないようで、通りがかった給仕から果実水を受け取っていた。
さりげなく鼻の前に翳し、匂いを確認してからオフィーリアに渡す。
一年前、ノエルもダンスのあとに毒がないか確認して、ヴィンセントへ飲み物を渡してくれた。
そうやってヴィンセントのことにばかり気を取られていたから、彼女自身の守りが疎かになったのだ。
ノエルは強く、ヴィンセントはいつも彼女に守られていた。
しかし、彼女だって敵なしと言えるほどの強さは持っていない。
ノエルが彼を守ってくれたように、彼もまた彼女を守らなければいけなかった。
「それで、話とはなんですか」
なんの感情も乗らないサディアスの声がヴィンセントを現実に戻す。
寄り添う二人の表情は冷たく、ヴィンセントは声を喉で詰まらせた。
サディアスはきっとヴィンセントの望みを切って捨てるだろう。それでも望まずにはいられなかった。
「頼みたいことがあるんだが……」
「ヴィンセント様!」
酷く緊張して震えた声は高い少女のものに遮られた。
反射的に三人ともそちらへ振り返る。
そこにいたのはレスリーだった。彼が贈った淡いピンク色のドレスを揺らし、足早にヴィンセントに駆け寄ってくる。
彼は思わず舌打ちしたくなった。最悪のタイミングだ。
「ここにいらっしゃったんですね! あの、わたしとダンス、を……」
真っ直ぐヴィンセントを見ていたレスリーの視線が何かに惹きつけられるように動き、そのまま固まった。
視線の先にいるのはサディアスだ。
「あ、あなたは……」
ヴィンセントに向かって伸びていた手が下される。動揺からか、震えていた。
レスリーもサディアスが何者か知っているのかと思ったら、その表情は彼の予想とはまったく違う変化を見せる。
白い頬がぱっと色づく。大きく見開かれた瞳は潤み、飴のように蕩けた。
それは、かつて番を見つめるゼパイルの眼差しに似ていた。
「ああ……!! あなた……。あなたは!!」
興奮した様子のレスリーは進路を変えて突進する勢いでサディアスの側へ駆け寄る。サディアスは冷静にオフィーリアを背に庇った。
「初め、まして……。わたし、レスリーと申します! どうか、お名前を。あなたのお名前を教えていただけませんか……?」
レスリーは胸の前で手を組み、他には何も見えていないといった様子でサディアスに話しかけた。
懇願しながらも受け入れて貰うのが当たり前だと思っているのか、一歩近づき、手を伸ばす。
サディアスは、その手をはたき落とした。
「触れるな。穢らわしい」
「えっ……」
冷徹なまでの拒絶にレスリーは固まった。
サディアスはハンカチを取り出すとこれ見よがしに手を拭う。その所作はレスリーに対する嫌悪が滲んでいた。
呆然としていたヴィンセントは、不穏なものを感じてレスリーの手首を掴み、それ以上近づけないようにした。
「レスリー。席を外してくれないか」
そう言ったが、レスリーがサディアスから視線を逸らすことはなかった。
「レスリー? 今から大事な話をするところなんだ。君の紹介はあとにさせてくれ」
「……うるさい! 邪魔しないでください! この方に大事な話があるのはわたしです!」
そして、急に激昂すると、ヴィンセントの手を払いのけようとする。
明らかに様子のおかしいレスリーにヴィンセントはもう片方の手首も掴んでサディアスから引き離そうとする。しかし、レスリーはその場を動こうとしない。
「離してください!」
「君がもう少し冷静になったら離してもいい」
「わたしは冷静です!
ねぇっ! ねぇっ!! 聞いて下さい! わたし、あなたを見た瞬間運命を感じたんです! あなたもそうでしょう? きっとわたしたち、番なんです! だから、そんな目で見ないでください!」
熱に浮かされてサディアスに縋りつこうとするレスリーに恐怖を覚える。その目の奥に、ミカエラと同じ狂気が見えた気がした。
冷え冷えとした眼差しでそんなレスリーを見下していたサディアスが不意に口を開く。
「ノエル・ブラックウッド」
「?」
「この名を知らないとは言わせないぞ。お前がミカエラ怖さに自分の身代わりにした、俺の大切な妹だ」
そう言われてやっとサディアスの正体を知ったのか、興奮状態だったレスリーの顔色がみるみるうちに青褪める。
サディアスは無表情だったが、その目は憎悪を孕んでギラギラと光っていた。
「ちが、違う! わたしのせいじゃないです! あれは、ヴィンセント様からの提案で……」
「男のせいにするのか。最低だな。提案に乗ったのはお前だろう」
「それは……! だって、ミカエラ様が怖くて……。仕方なかったんです……」
弱々しく弁明をしたレスリーはポロポロと大粒の涙を零す。見かねてヴィンセントは会話に割り込んだ。
「サディアス、それは本当にレスリーは関係ない。ノエルのことはすべてぼくのせいだ」
「庇うんですね。責任をなすりつけられたのに」
「庇うも何も真実だ。レスリーを隠すため仮の婚約者を用意すると決めたのはぼくだ」
「本当は、妹を巻き込むつもりはなかったんでしょう?
陛下があなたとノエルの婚約を提案したのは、ゼパイル閣下が亡くなってすぐのこと。あなたは一度その話を断った。
でも、その女がしつこいから。あなたが恋を諦め、せっかく王妃の侍女にして逃してやったのに、その女がしつこく付き纏うから。守るためにそうするしかなくなった」
そこまで知られていたのかとヴィンセントは言葉を失った。
レスリーが異動したのは王妃の嫌がらせではなく、彼が狙ってやったことだ。
レスリーのおかげでミカエラとの接触は避けられるようになったが、そんなことが続けば不審に思われる。
もしミカエラにレスリーとの特別な関係を知られたら何をされるかわからないと、ヴィンセントは一度レスリーを遠ざけた。
それでも仕事の合間を縫って会いにくる彼女を守りたくて、以前父に打診された「ミカエラに対抗できる婚約者」を身代わりを立てるしかないと思ったのだ。
彼の身を心配していた父はそんな思惑には気づかず、純粋に喜んだ。
そんな父と巻き込んでしまう未来の婚約者にヴィンセントは罪悪感を覚えたものだった。
レスリーはボロボロ涙を零しながら力なく首を振り続けている。
「ちが、ちがう、わたし、そんなつもりじゃなくて……」
「お前がどんなつもりであったかなんて、興味ない。お前と俺は相容れないと理解しただろう。もう二度と近寄るな」
「いや、いやっ! そんなこと言わないで!」
癇癪を起こした子供のように叫び、縋りつくようなレスリーの眼差しを、サディアスは鬱陶しそうに睨み返す。
このままでは騒ぎになってしまうと、掴んだままだったレスリーの手首を引いた。
「レスリー、もう止めるんだ!」
「離して! 離してよ!」
興奮しているせいなのか力が強く、動きを止めるのが精一杯だった。
駄々を捏ねるレスリーを呆れたように見守っていたオフィーリアが口を開いた。
「これでは埒が明かないわ。お話はまた後日にしてはいかが?」
「……そうだな。殿下、また今度互いの都合のいい日に話しませんか」
「すまない、そうしてくれるか?」
「わかりました。では、失礼します」
「ありがとう。手間をかける」
サディアスはオフィーリアの手をとり、ヴィンセントにだけ会釈をした。
その途端、レスリーの抵抗がなくなり、不思議に思って彼女を見る。
レスリーは血走った目で真っ直ぐオフィーリアを睨んでいた。
「その女は、何?」
その瞬間、背筋に寒気が駆け上がった。
「なんで? なんでわたしの番の隣にいるの? そこはわたしの! わたしの場所よ!!」
「ぐぅっ!」
暴れ出したレスリーは手首だけでは押さえられず、はがいじめにする。
離せともがくレスリーをサディアスは一瞥した。
「俺の隣は自分のものだなどと、実に傲慢だな。先程も言ったが、俺とお前は相容れない。これから先、俺が共に生きる相手は彼女だけだ」
サディアスは壊れ物のように優しくオフィーリアの腰を抱き、その場を立ち去った。番を名乗るレスリーには欠片も興味がないようで、一瞥もくれない。
ヴィンセントはその背中を見送ることができなかった。レスリーが突然脱力したからだ。
「レスリー?」
名前を呼ぶが、返事はない。
レスリーは床に座り込み、焦点の合わない目で虚空を見つめている。ヴィンセントはしゃがみ込んだ。
「……レスリー、大丈夫か?」
「……」
レスリーからの返事はない。そもそも彼の声が聞こえているかも怪しかった。
恐ろしいほどの執着を見せた相手から完全に拒絶されたのだ。強いショックを受けたのだろう。
流石にこのまま放置するのは気が引けて、ヴィンセントはなるべく優しく声をかけた。
「……こんなところにいては身体が冷える。さあ、立つんだ。サディアスのことがショックなのはわかるが、ずっとここにいても仕方がない。中へ戻ろ」
「あなたに、何がわかるの」
とす
レスリーの身体に腕を回し、立たせようとしたその一瞬。
妙に軽い音がした。そんな些細な音と僅かな衝撃を感じただけだったのに、彼の胸に短剣が突き刺さっていた。
それはかつてレスリーへ護身用に使えと、渡したものだ。
レスリーはすぐに短剣を抜くと再び振りかぶりまた刺した。
何度も、何度も。
「あなたのせい! あなたのせいよ! あなたのせいであの方に嫌われた……!」
ヴィンセントは咄嗟に何も反応出来なかった。
レスリーの気迫に呑まれ、大伯父から教わった護身術のひとつも浮かばなかった。
(こんな男では、どの道ノエルを守れなかったな)
妙に冷静に、そんなことを思う。
レスリーはあなたのせいだと彼を詰りながら、まだ彼を突き刺している。痛みはどこか遠い。
身体が傾いで大した衝撃もなく、仰向けに倒れこんだ。
窓の向こうに広がる明るい会場が目に飛び込んできた。まだ誰もこの凶行に気づいてはいないようだ。
人々の足元をぼんやりと眺めながら、ヴィンセントが思ったのはノエルのことだった。
(ノエルにもっと贈り物したかったな。あと、特製のクッキー、食べたかったよ)
果たされなかったいくつかの約束が泡のように浮かぶ。
暗くなる視界に浮かんだのは幸いにして、笑顔のノエルだった。
(ノエルの尻尾、見てみたかった)
結婚したら教えると言っていた彼女の秘密。
彼女の家系が狼の獣人だと、とうに彼は知っていた。だから尻尾だって狼のものであるとわかってはいたが、知らないふりをした。
自分が何故そんなことをしたのか、その意味に今更気づく。
家族以上の彼女の特別。ヴィンセントは多分、それになりたかった。
(ノエル、ぼくは君に――)
それを最後に彼の思考は途切れた。
回想はここまでですが、ヴィンセントの視点はもう少し続きます。




