終章 ②
「どうして、セディウスは無罪放免なんです?」
晴天の下、シスの都を、人にぶつかりながら歩いているエアリアをひょいと自分の後ろに隠したセイルは、不機嫌を隠さずに問うた。
「無罪……て。大体私に、父を裁く権利なんてありませんよ。それに、イルミアへの配慮のつもりで妃を甘やかしてきたから、こんなことになったっていうのもあると思うんで。それがまったく通用しないということを、今回、リュファ……イルミア国王陛下が示してくれたわけですし、一度くらい、父には頑張る機会があっても良いと思ったんです」
「それだけですか? エアリア様」
「……えっ?」
石畳の道を慌ただしく行き交う人達を見送って、エアリアは立ち止まる。
――と、セイルが悠然と振り返った。
「大公を試したと言ってましたね。貴方は大公が自分のことを覚えているのか、知りたかったのではないですか? そして、大公は貴方を覚えていた。貴方はその時点であの人を許していたんでしょ?」
さすがに正確に言い当てられると、エアリアも二の句が継げない。
――そう。
不可解だったのは、刺客の徹底のなさだった。
もしや、父はエアリアのことを、積極的に殺す気がなかったのではないか?
そう思ったら、どうしてもエアリアは父を試したくなった。エアリアと似てないラーナを自分の身代わりに立てたのは、無意味なことだったかもしれないが……。
「まっ。何にしても、あの応接の間の小さな窓から貴方とレグリスを連れて侵入するのは、大変だったんですからね。貸しは高いですよ」
「嫌ですね。別に私はセイル殿に頼んだわけではないですよ。貴方が自分にやれることはないかと、私に聞いてきたんじゃないですか?」
「ええ。それはもちろん。こちらから聞いてあげないと、貴方は人には頼めない厄介な性分ですからね」
セイルの美貌がエアリアの視界一杯に広がる。
短い前髪も考えものだ。しょっちゅう、これではエアリアの心臓が持たない。
「……で。一方的に無罪放免を言い渡して、王宮から抜け出して来たってことは、一応はノーヴィエ公子を更生させることで手を打つつもりなんでしょう。エアリア様、これから貴方どうするんです?」
「さあ。どうしましょうかね。一応、先にルピス領に戻ってもらったネイさんとオージスさんに礼を言って……。後は思うまま。流されてみようと思いますが?」
曖昧にぼやかすと、セイルが長身を屈めてエアリアを覗き込んだ。
「ふーん。何だか俺が隣にいたら、困るって顔をしていますね?」
「そういうわけじゃ……」
セイルを嫌っているわけではなかった。むしろ、その逆である。
血を吸われる甘い感覚が忘れられない。彼なしではいられなくなるのではないかという恐怖。エアリアは己の欲望が怖かったのだ。
「だけど、その……。セイル殿とは出会ってから、そんなに月日も経ってませんし、一緒にずっといるというのも不自然でしょう?」
「不自然でも何でも、俺は貴方とは離れられないのだから無理です」
「へっ?」
エアリアの素っ頓狂な声を受けて、セイルはもう一回宣言した。
「……だから、もう俺は死ぬまで貴方から離れられないのですよ」
「なんで?」
「一度吸血行為をすると、人外の力を発揮することが出来ますが、同時にその血の味も覚えてしまうんです。他の血を受け付けることができない。ラファール家の吸血鬼は、生涯たった一人の血しか飲めないのです。だから、伴侶選びは慎重になる必要があるんですよ」
「でも、今まで吸血したことがなかったってことは、私と離れても平気なのでは? もう吸わなければ良いってことでしょう?」
「言ったでしょう。その血の味を一度覚えてしまえば、もう駄目なんです。欲望が止まらなくなる。これからは定期的に貴方から血を分けてもらわなければならない。何のために俺が貴方に地道に貸しを作っていると思っているんですか?」
まさか、そういうこととは思ってもいなかった。いや、思うはずがないではないか。
(セイル殿が私の「血」のために、貸しを作っているなんて……)
「何で、こんな短時間に人生の大決断をしてしまったんですか?」
「さあ、何ででしょうね? 俺にも分かりません。当然、迷いましたよ。今まで生きてきた中で一番、頭も使いました。大体、貴方の血を貰うのに何のためらいもなかったら、あそこまで追い詰められたり、犠牲者だって出なかったでしょう」
「……お姉さんの結婚が決まって、自棄になったとか?」
「疑り深い人ですね。貴方ではあるまいし、自棄で決めるほど俺は堕ちてはいません」
「じゃあ、どうして?」
無言のセイルは有無をも言わさない迫力で、エアリアの腕を引っ張ると、煉瓦造りの店の奥に連れ込んだ。人通りのない路地裏で、壁際に追い詰められたエアリアは未知の経験に戸惑うしかない。
「いたっ」
まだエアリアの血の力が活きているのか、その腕の力はもがいても振り解けないほどに強かった。
「貴方と一緒に生きたくなったんです。それじゃあ、駄目ですか?」
急き立てられたように告白したセイルの顔に赤みがさしていた。
「………なっ?」
「これでも疑うんですか?」
セイルが顔を近づける。太陽のようなきらきらした金髪と、優しげな外見からは、とても本人が言うような「人の血を吸う化け物」とは思えない。
けれど、薄らと細めた蠱惑的な金色の瞳は、狙った獲物は逃さないと言わんばかりの強欲な色を放っていた。
やはり、百歳年上は違うようだ。見事にエアリアを翻弄してくれる。
「最近、顔色が良いですよね。貧血は治りましたか?」
「もしかして、いつもセイル殿が食事を作ってくれるのって?」
屋敷にいた頃から、エアリアの食事はセイルが作っている。まさかとは思うが……。
「貴方には、俺の栄養分まで食べて健康になってもらわないと……」
――案の定だった。
セイルは、荒々しくエアリアの首筋を覆うドレスの生地を引っ張った。
ラーナがエアリアの趣味を聞いて、用立ててくれた青のドレスは、街を歩けるほど質素な装飾で、喉元から足首まですっぽり隠してくれるが、欲に急ぐセイルには、歯痒い代物のようだった。
「ちょ、ちょっと、待って下さい」
前回は、腕の傷口で済んだが、今回は首筋である。さすがにエアリアにも抵抗があった。
「セイル殿……。まっ……」
何だろう。いつも無駄に紳士的なセイルからは想像もつかないほど、過激だ。
――そう、まるで……。
飼い猫のレグリスのような……。
「…………えっ?」
――かぷり。
まさに、期待通りの登場の仕方だった。
エアリアに覆いかぶさるセイルの頭を、レグリスが口の中に含んでいる。
数瞬経ってから、セイルがレグリスを地面に放り投げた。
「痛いなあ。もう。普通、獅子に食われたら死にますからね?」
呼吸を乱しながら、血が滲んだ頭を押さえるセイルは、大通りの方に目を凝らした。
「姉さんも、リュファも一体、何の真似ですか。これは?」
「あら、私は邪魔したつもりないわよ。これはレグリスの意志よ?」
高い踵の靴音を石畳に刻んで、ラーナと、等身大のリュファがやって来る。ついでに一歩遅れてアリザスもいるから驚きだった。
「どうやって、ここの場所が分かったんですか?」
「レグリスが貴方の匂いを追ってくれたのよ」
あっけらかんとラーナに告げられて、エアリアは面食らう。
「俺とエアリア様のことは、邪魔しないでくださいね。元々煽ったのは、貴方たちなんですから」
「でも、セイルさん。エアリアは、嫌がっていましたよ?」
アリザスが呆けているエアリアを、自分の背中に回して吠えた。
「嫌でしたか?」
「あ、別にその嫌とかそういう問題ではなくてですね……」
答えに窮したエアリアは、仕方なく、無理やり話題を変えた。
「ああ、そういえば、ラーナさんは、レグリスを操れるんですよね?」
「ええ。そうなの。レグリスは、特に交信しやすくて良い猫だわ」
――新領主と騎士団を迎え撃った時……。
レグリスの体に、意識を乗せたラーナがやって来た日には、さすがのエアリアも度肝を抜かれた。しかも、レグリスは被害を出さないよう積極的に動いてくれたらしい。今では、ルピス領の金獅子の奇跡などと祀りたてられてしまっているから、驚きだ。
エアリアも、セイルから何度も説明を受けて、ようやく納得したのだ。
「それで? 姉さんは、わざとイグリスに交信して暴れて、俺をけしかけて、エアリア様を襲いやすい状況を作って遊ぶんですよね?」
「仕方ないでしょう。優柔不断な貴方を見ていると、姉さん、とっても歯痒くて」
深刻そうな口ぶりの割に、ラーナは肩を震わせ笑っている。
さっぱり、二人の会話の意味が分からない。
「何のことです?」
「エアリアさん。私が言うのもなんだけど、世の中には知らない方が幸せなことってあると思うよ」
リュファのしみじみした物言いに、エアリアは頬を膨らませた。
――姉に、遊ばれている。
セイルが言っていたことがエアリアにも分かるような気がした。
「それより、エアリアさん。私は君に用があって追って来たんだ。黙って宮殿から出て行ったから焦ったんだよ」
「用……ですか?」
リュファがエアリアの肩にがしっと手を置いた。
きらきらと切れ長の青灰色の瞳を輝かせている。
「君に、どうしても一つ頼みたいことがあるんだ。君じゃなきゃ出来ないことなんだ」
リュファの神妙な表情に、エアリアも真剣になった。
「実は、セイル君が私とラーナの結婚式に参列したくないと言い張ってね。でも、彼は弟だ。何としてでも参列してもらいたいんだよ」
「どうして、またそれをエアリア様に言うのです?」
エアリアより早く、セイルが噛みついた。
「陛下、お疲れなのでは?」
アリザスまでが加わり、エアリアの肩にかけたリュファの手を払おうとするが、リュファは折れなかった。
「そこで、エアリアさん。どうせ、セイル君には君しかいないんだし、いっそのこと、君たちも式を挙げたらどうかと思ったんだよ」
「ねっ? 姉弟で結婚式なんて、とても素敵な提案でしょう」
「姉さん、笑顔がとても毒々しいですよ」
「……式?」
つい最近まで、自分の葬式が近いと思っていたエアリアが、突然、結婚式など挙げられるはずがない。
「陛下。冗談は良くありませんよ。エアリアが怯えているではないですか。ただでさえ、吸血生物が近くにいるせいで落ち着かないだろうに……。僕がもう少しちゃんと調べていれば、こんなことには」
「貴方だって下心だらけの獣の分際で、清廉なふりしないで下さい」
「あらあら。男二人が貴方を巡って血湧き肉躍る決闘を繰り広げてくれるみたいよ。エアリアちゃん」
そんなこと誰も頼んでいないし、どうだって良かった。
自分を変えてみようとは思ったが、それは厄介事に巻き込まれたいということではない。
そろそろと後ろ向きに足を踏み出す。
そんなエアリアの手を首尾よく、セイルが掴んだ。
「行きましょう。エアリア様」
乾いた風を全身に受けながら、人ごみを縫うように二人並んで疾走する。
繋いだ手が強く絡まった。
(温かい……)
セイルの手は冷たかったのに、エアリアと手を繋いでいると、次第に温かくなっていく。
まるで、熱が伝染するかのようだった。
長く独りでいたエアリアには、それが不思議で仕方なくて、……こそばゆかった。
ふと、セイルが消え入りそうな声でぽつりと言った。
「もっと、貴方に早く出会えていたら……。そうしたら、もっと……」
「えっ?」
「いえ……」
先を急ぐ、セイルの後ろ姿を見守りながら、エアリアは微笑する。
「…………ありがとう」
「エアリア様?」
自分に凭れかかるよう走るエアリアに、セイルが表情を綻ばせる。
「もう死にたいなんて、思いませんよね?」
「私が死んだら、セイル殿はどうなるんです?」
「当然、俺も死ぬでしょう。貴方が吸血鬼になるなら別ですが?」
「…………そんなことって」
エアリアはセイルの命も背負ってしまったということだ。
うかつに死ぬことも出来ない。
「だから、エアリア様」
セイルは、とても艶めいた愛の告白のように囁いた。
「……俺のためにも、長生きしてくださいね」
【了】
ここまでお付き合い頂いた方、本当にありがとうございました。
実は、今回、投稿していた話のほとんどを再びこちらに上げようと思ったのは、この話がきっかけでした。
とても思い入れのあるものです。
確かに全体的には地味だと思いますし、色々と難はありますが、、
でも、拙いながらも、人間どんな状況でも、生きていて良いんだという希望をこめたつもりではありました。
主人公の抱えている背景が暗いからこそ、人の優しさが分かるのだと。
新人賞にはやっぱり向かないようなので、……かといって、自分のUSBメモリの中にだけ置いておくのも……と思った次第です。
多分、続きがあるとするのなら、セイルの実家などが関わってくるのではないかと思います。
一応、バケモノの王様のような家系にするつもりだったので。
お姫様とバケモノの王子様というカップリングになるのでしょうか??
多々問題はあるかと思いますが、ここまで読んでいただいた方がいらっしゃいましたら、今回もこのような愚作に目を通して頂き、本当に有難うございました。




