第3章 ⑤
……何を焦っているのだろう?
セイルは自分自身の不可解な行動に苛立っていた。
サファライド公国がどうなろうが、エアリアがどうなろうが知ったことではない。
アリザスだって、セイルにしてみれば、ただの知り合いだ。
彼がイルミアに留学していた頃、少し顔見知りになった程度だ。
今回、彼が偶然、セイルの家出を知り、自領であるルピス領への滞在を勧めてきたから、セイルはそれに乗っただけのことだ。
嘗めてかかったのがいけないのだと、重々自覚しているが、こんなに深く関与する羽目になるとは思ってもいなかった。
(姉さんの素性を、バラすことになるなんて……)
話すつもりなんてなかった。姉夫婦を巻き込む気もなかった。
だけど、ずるずるとエアリアと共に過ごし、彼女を見ていたら、セイルだって出来ることがあるのだと知らしめたくなった。
大体、昔、下心で近づいてきた男と二人きりで会うという無防備な姿勢に苛立っていた。
――アリザスは、多分エアリアのことを諦めていない。
もしかしたら、アリザスは死んだことになっているエアリアと、領主の自分とでは身分がつり合わないから、彼女を女王に就けようとしているだけなのかもしれない。
――だとすれば、領主としては最低だが、命懸けだということは伝わってくる。
エアリアはどう思うだろう?
口では嫌だと言うが、そのうちアリザスの一途な姿勢に惹かれるかもしれない。
そう考えたら、益々頼りにされない自分が情けなくなった。
もし、あのままアリザスを死なせていたら?
それでも、セイルに困ることなど何もない。別にどうだって良かったのだ。
……でも、もし、アリザスが死ねば、益々エアリアは自分の殻に閉じこもってしまうだろう。もうセイルの声も届かなくなるかもしれない。
……それでは意味がないのだ。
この感情がただの男の体面なのかどうか自分でも分からなかった。
セイルは、一目惚れなんて存在しないと思っていたのだ。
実際、そう言って、リュファと姉の仲を裂こうとした。
(結局失敗したが……)
こんな短期間で、あんなぼろ雑巾のような格好をした小娘に惹かれているなんて、絶対に自覚したくなかった。
「セイル殿。有難うございます。おかげで、アリザスは助かります」
何処からか来たのか、エアリアが外で見張りをしていたセイルに声をかけてきた。
セイルは振り返らなかった。そのまま庭の朽ちた東屋の階段に腰かけている。
いつの間にか昇っていた朝日が眩しかった。
(きっと、礼なんか言いたくもないんだろうな……)
エアリアの気持ちが分かっていたから、セイルはあえて無視をした。
彼女自身どうして、セイルに自分が礼を言わなければならないのか、困惑していることだろう。
――きっとすぐに部屋に戻る。
セイルは予想していたのに、しかし、なぜかエアリアはその場から離れなかった。
「あっ。今、駆け付けてくれたネイさんとオージスさんがアリザスに付き添ってくれています。何種類もの毒が混合していて、すぐには解毒剤が作れないみたいです。とりあえず仮死状態にしたとのことですが。まあ、でも助けられるって、リュファ君は言ってくれたんで、良かったです」
「良かった……ですか?」
「ええ。凄いもんでしたからね。リュファ君が傷口に触れた瞬間、部屋の中が光ったりして。ネイさんと二人で魔法の存在を実感したんですから。リュファ君は、セイル殿のお姉様の弟子なんですか?」
「いいえ。リュファは、魔法使いでも何でもありませんよ。多分、姉が遠隔で……」
「えっ。そうなんですか? でも、遠隔って?」
遠隔とは、離れた地にいる姉がリュファの体を介して、治療をしているということなのだが……。
現実的ではない話を長々説明するのも面倒だった。
「……まあ、別に、リュファのことなんてどうだって良いじゃないですか。あの人自身には何も力なんてないんですから」
「えっ。でも……」
エアリアは、珍しく反駁した。
「リュファ君、さっき馬小屋に行って、レグリスと話してましたよ。普通の人間で、レグリスと話せたりするもんなんですか?」
「レ……、レグリスとリュファが……ですか?」
「はい」
「ちょっと待って下さいよ……」
エアリアの飼い猫(獅子)レグリス。
先日は、エアリアといるところを、突然襲ってきた。あの時は動物なりに、嫉妬があるのだろうと思っていたが……。もしや、あれは?
(……まさか!?)
「―――くそっ。やられた!」
思い至って立ち上がると、エアリアが一歩近づいた気配がした。
「やられたって、何にですか?」
「いえ」
セイルは慌てて、平生を装う。
とてもじゃないが、本当のことなんて格好悪くて口にできなかった。
「何でもないです……。俺にはお構いなく」
そして、頭を抱えて身悶えた。
(そういうことですか……。姉さん)
「あの……。大丈夫ですか。セイル殿はお疲れなんじゃないですか?」
「ええ。そうですね。とても大丈夫じゃないので、俺のことは放っておいてください」
「そうしたいのは、山々なんですが、その、放っておくわけにはいかなくてですね」
「えっ?」
謎の言葉に、反射的に後ろを振り返ると、しかし、そこには更に衝撃的な光景が待っていた。
「…………なっ!?」
セイルは、驚愕のあまり倒れそうになった。
今、自分が見ているものは幻ではないのだろうか?
「……エアリア様、一体どうしたんですか?」
「はい?」
「びしょ濡れじゃないですか?」
エアリアの長髪とワンピースの先端から、水が滴っている。
「ああ。ちょっと、井戸で水浴びをしてまして……」
当然のように、エアリアが言ったので、セイルは目を剥いた。
(嘘だろ?)
彼女の屈折した本音は、すぐに想像がつく。けれど、その行動はさっぱり理解できない。
「服を着たまま、水浴びする馬鹿が何処にいるんですか?」
「井戸端で服を脱ぐのも変じゃないですか。いつもやっていたことですから、平気ですよ」
「俺が平気じゃありません」
「……それは、困りましたね」
困ったのは、この野性的すぎる公女様だ。一歩間違えれば、ただの痛い人だろう。
「あの……。私、お礼と一緒に貴方に頼みたいことがあって」
だから、沈黙にも耐えてセイルの背後に突っ立っていたのか。
「はあ、一体何でしょうか?」
「実は……」
「わっ!?」
おもむろに、ハサミを差しだされて、セイルは面食らった。
「何を?」
「前髪を切って欲しいんです」
「はっ?」
エアリアは恥ずかしそうに、うつむきながら言った。
「本当はネイさんに切ってもらおうと思ったんですが、ネイさんも疲れて寝てるし、自分で切ろうと思ったら、鏡もなくて。セイルさんしか頼めなかったんです。おこがましいこと言って、すいません」
「究極の選択ってやつですか……」
「駄目ですか?」
「いや。そんなことでお役に立てるのなら。ほら。貸して下さい」
セイルはエアリアの手からハサミを取ると、東屋にエアリアを導き、降り積もった枯葉や土を払って、彼女を長椅子に座らせた。
向き合うと、髪の隙間からエアリアの紫色のくっきりした瞳が覗いていた。
どうしようもなく、緊張するのは彼女に見つめられているからではない。
多分、女性の髪を切る行為が生まれて初めて経験するものだからだ。
「えーっと。エアリア様は、櫛を持っていないんですか?」
「あっ、はい」
即答だった。
(おいおい)
彼女の年齢は、十八歳だったはずだ。
十八歳で櫛一つ持っていないなんて、世間的に見てもどうなのだろう?
「売れるものはすべて売ってしまいましたから。櫛なんてなくても人間生きていけますし」
「……つまり。貴方は近年、髪に櫛を入れたことがないと?」
「ああ、そういうことになりますね。すいません。つい無精が板についてしまって。手櫛で過ごしてしまいました」
「謝る問題でもなく「つい」で済む問題でもなく……ですね」
セイルは仕方なく、びしょ濡れのエアリアの髪を手ですくって梳かした。
次第に髪も自然の力で乾いていった。
「あの……。切るのは、前髪だけで良いんですけど?」
「全体像が見えなきゃ、髪なんて切れませんよ」
「そうですか。確かに、そうですよね」
そういうところはやけに素直で、セイルは拍子抜けしてしまう。
(それにしたって……)
あまりの無精のせいか所々髪が固まっていて、セイルは細心の注意を払いながら、エアリアの髪の解けないところをハサミで切り落としていった。
(愛玩動物に対する気持ちって、こういうことなのだろうか?)
「すいません。畏れ多いことだと思いますが……」
「いや、そんなことはないですけど。理髪店は高いですからね。むしろお手数をおかけして申し訳ないというか」
ようやく全体的に髪を整えたセイルは、エアリアの要望である前髪に手を出した。
彼女と目が合ったら、手元が狂うのではないかと用心していたら、幸い、エアリアは目をつむっていた。有難いと思ったが、目をつむっているエアリアも刺激的だったので、結局緊張は解けなかった。黙っていられなくなったセイルは、あえて声を出す。
「結構、手馴れているでしょう?」
「ええ。すごい慣れていますね」
「ほら。旅が長いと、自分で髪を切ったりすることがありますからね。こういうことは慣れているんですよ」
「セイル殿は旅をしていたのですか。私は貴方のことを騎士と思っていましたが、イルミア出身ということは、自由騎士? 戦争騎士などの類でしょうか?」
いつもなら、二言目には出て行けと言わんばかりのエアリアがセイルに興味を示してくれる。面白くなってセイルは正直に答えた。
「本当は……。俺は騎士じゃないんですよ。嘘ばかり言って申し訳ない。でも、貴方だけではなく、旅の間、俺は騎士で通していますから……。実は、騎士の形をしていた方が旅をするには良いんですよ。下手に賊なんかに狙われずに済みますからね」
きょとんと目を丸くしているエアリアの顔を、セイルは両手で包み込んで固定した。
「セイル殿。痛いです」
「貴方が動いたからでしょう」
ようやく眉毛の上で前髪を切りそろえて、セイルは仕上げとして、エアリアの切り落とした髪をさっと払った。
「あっ」
不意うちで、エアリアの頬にセイルの指が触れる。
「セイル殿?」
「すいません」
我に返って、セイルが慌てて詫びた。しかし、エアリアは怪訝に首を傾げるだけだ。
「別にかまいませんよ。減るもんじゃないんですから」
「その言い方は、とても語弊がありますから気を付けた方が良いですよ。そんなことを簡単に言ってしまうから、男は誤解するんです」
そう言って、誤解しそうなのは自分の方だとセイルは反省した。
やはり、セイルの目に狂いはなかった。
前髪を切ったエアリアは、満開の花が咲き誇るように美しかった。
長い睫に、艶やかな紫の瞳。可憐な唇に高い鼻梁。十四歳のアリザスが魅了されても仕方ないほどの端麗な容姿。
きっと、この娘の姿を見たら、大公も悔しがるのではないか?
「…………俺は、貴方は、ただもったいないと思うんです」
「……はあ」
エアリアは顔や肩に落ちた髪を自分で払っていた。
彼女に言葉が通じないのは、エアリア自身、自分に対して過小評価しているからだ。
分からせてやりたいと思うが、嫌われたくはない。
「視界が良くなって見えるものはありませんか。エアリア様?」
「とりあえず、セイル殿の顔が良く見えますね」
にっこりと微笑されると、セイルもどうして良いか分からなくなる。何でもっと早く、前髪を切らなかったのだろうか?
いや、こんなエアリアを目の当たりにしたら、益々アリザスが調子に乗るかもしれない。自分は早まってしまったのだろうか?
「貴方から髪を切りたいなんて、意外でしたよ。あれだけ切れと言っても切らなかったのに。一体、どうしたんです?」
衝動を堪えようと何とか理性を総動員して質問をすると、エアリアは、何てないことのように答えた。
「私、アリザスの屋敷に行こうと思うんです」
「…………へっ?」
それはさながら、明日の天気の話でもするような気安さだった。




