第3章 ③
何やら嫌な予感がして、胸騒ぎと共に目覚めたセイルは、直ちに咽せた。
ルピス領の冷たい夜風は、セイルの渇いた喉に染みるのだ。
……だけど、獅子の傍らに転がされたままでなかったことは、幸運だった。
――またしても、エアリアが運んでくれたのか?
ちゃんとした部屋の寝台に寝かされていた。
しかも、居間とは違って、この部屋はまったく散らかっていない。埃一つなかった。
整然と文机と小さな本棚が並んでいる。寝台の毛布も、太陽の香りがしている。
エアリアの部屋も居間も、かび臭かったが、ここだけは、ちゃんと換気も行き届いている。まめにエアリアがこの部屋を掃除して、毛布一式を干していた証拠だろう。
(自分の部屋と、居間は手つかずのくせに……)
ここは、一階の奥部屋。エアリアの亡き母・イリアの私室だ。
大掃除の際、セイルとリュファはあえて、この部屋には手をつけなかった。
故人の思い出のつまった部屋に部外者が土足で入るわけにはいかないと思ったからだ。
だから、まさか、エアリアがこの部屋にセイルを寝かせるとは思ってもいなかった。
「おや、やっと目覚めたのか? まっ、ここのところ、匂いに敏感な君が悪臭の残る居間で寝起きしていたんだし、倒れるのも無理はないと思うけど」
「……起き抜けに貴方がいるのが気に入りませんね。リュファ」
燭台の灯りが煌々としていたから、誰かが近くにいるとは思っていたが、よりにもよつてリュファとは最悪だ。
灰色の髪に黒の上着と半ズボン。長い髪を赤のリボンで括っているのは、彼女の仕業に違いない。セイルがよく知る女性の趣味だ。
「俺はどのくらい眠っていたんでしょう?」
「三十分くらいかな。長くはないよ。日が暮れるのが早かったのさ」
「それで、どうして、貴方がまだいるんです。夜になったのなら、とっとと帰って下さいよ。あの女も心配するでしょう?」
「……彼女は君のことも心配しているよ。こんな状態の君を置いて帰ったら、それこそ私は彼女に袋叩きにされてしまう」
リュファはしれっと答える。よく言えたものだ。
……どうせ楽しんでいるくせに。
「何だか剣呑な目だね。酷いねえ。仕事はちゃんとしているのに」
「アリザス殿がここに来るなんて、貴方の情報網があれば事前に気づいていたはずですよね?」
「おやおや。君は私を買い被っているね。片田舎の一領主の個人的短絡的な行動を見張っていられるほど、私も暇なわけじゃないんだよ」
……暇でなければ、なぜここにいるのか?
喉元まで、挑発的な言葉が出かかっているのをセイルはぐっと堪えた。
確かに、アリザスが思いつきでここに来たのだったら、リュファが知らなくても当然だ。だけど、解せないことは山ほどある。
「貴方はアリザス殿に、何と自分の立場を話したのですか?」
「エアリアさんと同じだよ。君の弟という設定だけど、おかしいかな?」
「おかしいもなにも……、絶対、怪しまれますから。だって、貴方とアリザス殿は対面したことがあるでしょう?」
「彼と会ったのは夜だったし、私の顔なんて見えなかったんじゃないのかな?」
……何だ。それ?
楽観的というのではない。この男はこうなることを全部見越していたのではないかと疑いたくなる。要するに何を考えているのか、てんで分からない。
そういうところが以前から嫌いだった。……というより、苦手な人間が二倍に増えて鬱陶しいのだ。
「アリザス殿が必死になって調べあげたでしょうね。俺の身内が一人だけだということは、彼だって知っているはずなんですから」
「そう。でも、それはそれで、面白いでしょう。第一、いい歳して家出している君には言われたくないしね」
「…………家出って」
「家出でしょう? セイル君」
図星だからこそ、癇に障る。大体、リュファに追いつかれてしまった時点で、これはもう家出なんかではない。ただの散歩みたいなものだろう。
「それに、私は君にこそ祝ってもらいたいと思っててね?」
「俺は別に。歓迎していますよ。彼女が良いと言っているものをどうこうしようとは思いません。どうぞ好き勝手にやればいいじゃないですか?」
「その言い草がすでに、歓迎しているとは思えないんだけどね?」
リュファは深く長い溜息を吐いた。
文机の椅子を寝台の前に持って来て腰かける。これは居座る気満々だろう。
「……取り巻く環境は違うけれど、君とエアリアさんは、とてもよく似ているよ。特に頑固な性格とかさ」
「似ていませんって」
殴ってやろうかと思ったが、益々、自分が惨めに思えたのでやめた。
「でも、セイル君は、彼女のこと気に入ってるよね。だから、嘘までついて居座ってしまったんでしょう?」
「貴方は、俺をからかっているんですか?」
「でも、彼女、前髪を切って相応にすれば美人じゃないか? セイル君だって、そう思っているはずだ。だから、あんなことして?」
「あれは……」
どうやらリュファは、先程セイルがエアリアにしてしまったことの一部始終を盗み見していたらしい。
「君は奥手だと思ってたけど、意外に手が早いんだね。新たな一面にドキドキしたよ」
「違います。俺は」
奥手どころではなかった。
今まで、セイルが女性を口説いたことなど一度たりともなかったのだ。
むしろ、女性恐怖症と公言して回りたいくらい、周囲に強烈な女性がいるのだから。
(俺は何で、あんなことをしてしまったんだろう?)
「さすがに、あんな少量の血で俺は倒れたことなんてありません」
「あれは、今回のは多分、君の理性が歯止めをかけたんでしょう。もし歯止めが壊れていたら? ……彼女は血の匂いに興奮した君に貪り食われていたかもね。ああ、怖い怖い」
「人を獣のように言うのはやめて下さい」
「じゃあ、理性的な対処を望みましょう。セイル君。一体、君はこの先どうするの?」
「えっ?」
「アリザス殿も愚かではない。元々嘘が下手な君を送り込んだ時点で、ただの時間延ばしのつもりだったんだろうからね。迷いなど端から彼にはなかったんだろうよ。彼はひたすら、その時が訪れるのを待っていたに過ぎない。そんな彼が今日何を差し置いてもと急いで現れたということは、どういうことなのか?」
「やはり、成人の儀の前に動くということですか。それで、エアリア様を説得しに?」
「さあ、どうだろう。その辺りは直接本人に訊いてみたらどう?」
……ああ、嫌になる。いっそ、帰るか……?
どうせ、あの女性には、セイルのことなどお見通しなのだろう。
やっぱり来るんじゃなかった。セイルがここに来る来ないに関わらず、お膳立てはすべて整っていたのだ。ただセイルは厄介ごとに首を突っ込んだだけに過ぎない。
……もしも。エアリアが、傲慢で愚かな小娘であれば、セイルは彼女を見殺しにすることも出来ただろう。アリザスの思惑に翻弄されることもなく、より良い未来のため彼女を葬ることも出来たかもしれない。
……だけど。己が生きることを恥じているエアリアを目の当たりにして、セイルの気持ちにさざ波が起こった。
(俺は……。エアリアを憐れむことで、自分を慰めているのか?)
いや違う。―――このままじゃ、帰れない。
「迷ってるんだね。彼女に力を貸すか、このまま去るか? でも、それがどういう結末を迎えることなのか、さすがに君にも分かっているのでしょう?」
「俺は、アリザス殿の企みに、むざむざ乗る気はないんです」
「そう。だけど、たまには相手の思惑にのってみるのも面白いことだと思うんだけどね。君が乗ると言うのなら、私もついでに乗ってもいいかなって思うし」
「……リュファ。貴方が乗ってどうするんです、もしも、俺が厄介事に巻き込まれても、貴方だけは知らないふりをしなければならないでしょう?」
「……馬鹿なことを言わないでよ。そんなことしたら、婚約破棄されちゃうよ。君の方こそつくづく自覚がないよね。セイル君」
リュファは、幼い容姿にありえない妖艶な笑みを浮かべた。
「君は、私の家族でしょうが?」
「……すごく嫌な感じです」
満面の笑みで一言されて、セイルは目頭を押さえた。
この男だけは、何としても義兄とは言いたくないのに……。
貸しなんて、作りたくない。
…………絶対に作りたくないのに。
「それで、アリザス殿はネイさんの自宅にいるんでしょうか?」
「会いに行くの? 君にしては素早い行動だね。でも、その必要はないみたいだよ」
「えっ?」
セイルはあどけない少年に化けているリュファを一瞥した。
「アリザス殿とエアリアさんは、君をここに運んでから、庭で逢引きをしてるよ」
セイルはがばっと起き上がり、リュファに毛布を放り投げた。
「何で、それを早く言わないんですかっ!!」




