第11話 “ォレ”
開いた扉の向こうに立っていたのは看護服の女性だった。落ち着いた口調で話すその胸元には、『簪』と書かれた名札が揺れている。
どう見ても、この病院のナースだ。
僕は反射的に深く頭を下げた。
「僕、先輩と同じバイト先の後輩で。その……今日はお見舞いに来て」
「ああ、うさぎくんだっけ?」
「う、うさぎ……?」
思わず首を傾げる。いや、苗字に『兎』の字が入っているのは、その通りなんだけれど――そんなにストレートに呼ばれるとは思わなかった。
「余計なこと言わないでよ、母さん。ほら、もう仕事戻って戻って」
先輩の声だ。柱の影からひょいと姿を現し、松葉杖をついたまま入口まで歩いてきた。
「あらそう。それじゃ、また様子見にくるわね。うさぎくん。こんなやつだけど、どうぞよろしくね」
先ほどの看護師さん――先輩の母だというその人は、少し狐目の顔に柔らかい笑みを浮かべて、軽く頭を下げてきた。僕は慌てて会釈を返す。
彼女が廊下の角に消えるまで見送ってから、ようやく先輩へと向き直る。先輩は一瞬だけ、バツの悪そうな顔をした後――母親と同じ形の笑みに落ち着いた。
「……久しぶりだね」
その声を聞いた瞬間、緊張がふっとほどける。怪我で倒れたあの日からずっと、頭の片隅を占めて離れなかった姿が、こうして目の前に戻ってきたのだ。
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「その……ダメだって分かってるんすけど、思ったより量ができちゃって」
入院して五日目。こいつ――いや、後輩くんこと“うさぎ”が病室に現れた。
僕が家で勝手にそう呼んでいただけで、本人には一度も言ってない。苗字の一文字を取っただけなのに、妙に気に入ってしまっていた。まさか、よりによって母親の不用意なひと言でバレるとは思わなかったが。
「うわ、すご……これ全部?」
紙袋からタッパーが次々と姿を現すたび、思わず声が漏れた。どれもぎっしりと料理が詰まっていて、ベッド横の小さなテーブルがすぐにいっぱいになる。さっき昼食を食べたばかりなのに、胃がきゅうっと反応し、唾液がわずかに滲む。
それも無理はない。
あの日、車に吹っ飛ばされてから二日ほど昏い眠りについて――気づけば肋骨が何本か折れ、右足は見事に骨折。脳震盪もあったらしい。でも今では、なんだか信じられないほど食欲が戻ってきている。
この僕が、食欲旺盛?
はい、そこ拍手。
そんな僕の前で、後輩くんは紙袋を丁寧に折り畳んでいた。大きくて、やたら綺麗な手つきで。
「……あの、秘密にしてくれますよね?」
「もちろん。てか、もう食べていい? 腹減ってんだ」
「いっぱい食べてください」
僕は手前のタッパーをひとつ開けた。ふわっと立ち上る香りとともに、鮮やかな料理が目に飛び込んでくる。
「これは?」
「にんじんのナムルっす。ちょっとビネガーと塩で和えてあって……それから――」
うさぎくんは料理の説明を、まるで大切な秘密を教えるみたいに丁寧にしてくれた。どう見ても美味しそうだし、何より僕の大好物の匂いがぷんぷんしている。
「あ、そういえば」
口ににんじんを運んだ瞬間、頬がじんわり緩む。ああ、これ好きな味だ。
「僕が助けた子、どうなった? 元気そう?」
「ああ、その子なら、先輩と同じタイミングで搬送されて……今はすっかり元気ですよ。怪我も軽かったみたいで」
「そっか。よかった、よかった」
これで「実は亡くなりました」なんて話だったら、僕は一族にどんな顔して会えばいいんだ。心の底からホッと肩が落ちた。
気づけば箸が止まらない。ナムルはもう半分ほど消えていた。味の余韻に浸りつつ、僕は次のタッパーをどれにするか迷う。煮物か、炒め物か、それともあの色鮮やかなやつか……。
そんな僕の優柔不断をよそに、うさぎくんがふいに口を開いた。
「先輩が元気そうで……ほんと、よかったっす」
聞き慣れない声色に、僕は思わず彼を見た。
いつもの淡々とした調子じゃない。どこか、ためらうような、自信を少しだけ下げたトーンだった。
「元気だよ? 元気じゃないわけないじゃん」
思わず軽く笑って言うと、彼は首を横に振った。
「でも……病院って、そういうところでしょ」
「そういうところ?」
「病院って、俺たちがどうしようもできない病気や怪我を抱えた人が来る場所で。元気だって願ってても、実際そうはいかないこと、いっぱいあるじゃないすか。だから……」
その言葉は思った以上に静かで、真剣だった。僕は箸を置き、しっかり彼の目を見る。続きを促すように黙っていると、うさぎくんはひとつ深い息を吐き、視線を少しだけ落とした。
「……すみません。俺、どうしても病院って苦手で」
「なんで謝るんだよ。来てくれてありがとう、うさぎ」
「いや、うさぎって……俺、一応名前あるんすけど」
むくれたような言い方が妙に可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「そういやさ、君、自分のこと“俺”って言うんだな」
「あ、すみません。昔の癖でつい。俺の“俺”……発音変じゃないすか?」
たしかに、ほんの少しだけ違う。
“俺”じゃなくて、“ォレ”みたいな、どこか柔らかい音。
だけど、それもまた新しい一面だ。気になるどころか、むしろ――ちょっとだけ、嬉しいかった。
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