最終話
吉田浩には忘れられない客がいた。
まだ二十代に入ったばかりの時、一年だけほぼ毎日通ってくれていた客。彼は同い年くらいだった。
ある春の嵐の日を境に、彼はパタリと来なくなってしまった。
引っ越しをするからもう会えない、そう言って去っていった彼。
同じ高校の同級生だったはず。
それなのに、卒業アルバムの写真も、その下に印字された井戸田佳史という名前も、全く記憶に残っていないのだ。
追いかければよかったのか、嵐の中に出て行く前の、井戸田の寂しそうな笑顔は忘れられない。
彼が引っ越してから、パン屋に不思議なことがひとつだけ起こった。
パン屋の中がよく見える窓がひとつある。
その外には吉田の母が生前、美しく保っていた花壇があった。彼女が亡くなってから、そこには何も植えていなかったはずなのに。
気がつくと、樹木の苗木がひっそりと植わっていた。
それはどんどん成長して、やがて春と初夏を繋ぐ時期に、花を咲かせるようになった。
握った手のひらが優しく開くように開花する、白い部分はがく。その中の小さな花は、井戸田を思い出させる。
ハナミズキだった。
細い幹が今日も、パン屋を見守るように窓の外にある。
目を細めてその幹を下から上に追い、吉田はパン焼き窯の前に立った。
とうに春は終わって、ハナミズキの枝には若葉が生い茂っていた。
春は死んで、もう初夏が来ている関西ですが、北の方の春には間に合っただろうか(企画には完全遅刻)
見守ってくださった主催者様、読者の方に多大な感謝を。
ここまでありがとうございました。




