幼馴染の手紙
『神託の儀』から約三ヶ月。ハルトは日課のように村長の家へと赴き、古びた書物を見つけては読み更けていた。
この村に学校などない為、文字の読み書きができる人間は限られているのだが、幼少より村長に教わっていたハルトは並大抵の書物なら問題なく読めるようになっていた。
無論、ただ本を読んでいるだけではなく昼間は村の畑仕事に勤しんでいる。成人している身でもあるし、不本意ながらも農民の職業を与えられたため、何もせずに村に居座るつもりはなかった。
しばらく本を読んでいると、村長が湯呑みを片手にハルトの正面に座り込んだ。
「ハルト。またレティから手紙が来たのか?」
「…ああ、来たよ」
村長の言葉にハルトは服のポケットから一通の手紙を取り出した。見るからに豪華な便箋で、裕福な環境で書いていることがよく分かる。
「そうか…あの子も頑張ってはいるのだろうが、あれから一度も会えてないから少し心配ではあるな」
ハルトもあの日神殿で別れた時から一度も会っていない。
レティはあの後すぐに王都に向かい国王に謁見し、正式に聖騎士として大々的に発表された。北の大陸に遠征していた勇者一行も王都に戻り、彼女に会いに行ったという。
現在は勇者一行や王都の精鋭の元で、鍛錬や勉学、礼儀作法に日々追われているようだ。何しろ小さな村の娘が聖騎士に選ばれるなど前代未聞であるため、剣以外に何の教養もなかったレティには覚えるべき事は山のようにあった。
先日届いた手紙にもその日の愚痴が書かれていた。剣術の稽古は楽しいが勉強は嫌い–––そこには自分がよく知る彼女の性格が文字に表れており、手紙とは言え遠く離れた彼女を身近に感じていた。
送られてくる度にハルトも手紙を書く。村で頑張っている事、今日はこんな本を見つけて読んだこと、取り留めない事でも彼女に読んで貰えるのが何よりも嬉しかった。
「ま、その内ひょっこり戻ってくるだろうさ。お前という婚約者もいるわけだしな」
「…うん」
「どうした?」
婚約者、という単語に反応したのを村長はすかさず指摘した。
いつしかレティから送られてくる手紙は勇者の事に関する内容が大半を占めるようになった。勇者の人柄、容姿、実力などまるで彼を褒め称えるかの如く記述されている。
仮にも人類の希望であり誰もが憧れる夢の存在なのだから語りたい気持ちも分かる。しかし、彼女の婚約者であるハルトからしてみればあまり気分の良いものではない。傍から見たら友人に恋人の惚気話をしているようなものだ。
レティは自分との関係など忘れているように勇者の話を書いていた。そしてそれを見る度にハルトは胸が張り裂けそうで辛かった。
その事を村長に言おうか決めかねていると、日暮れを報せる鐘が大きく鳴るのが聞こえた。
「まあお前にも色々考えたい事があるだろうからな。今日はもう帰れ。相談とかあるならいつでも乗るからよ」
彼の言葉にハルトは感謝し、その日は暗い表情で帰宅したのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
–––それから更に三ヶ月後。
週に二度は来ていたレティからの手紙は、全く来なくなっていた。それに当てられたのか、ハルトも彼女に手紙を送らないようにした。
何故かは分からない。きっと彼女も覚える事が多く、自分に手紙を書く暇もないのだろう。決して自分に興味を無くした訳ではなく、時間の余裕が取れないだけだと心に言い聞かせていた。
悶々とした日々を過ごす中、突如としてハルトに手紙が送られてきた。便箋を見てすぐにレティからだと分かった。
ハルトは手紙が来た喜びよりも不安の念に駆られた。
レティの安否などではなく、ただ純粋に何が書かれているのかが怖くて仕方なかった。
震える手で封を切ると、そこに書かれてある内容を一字一句丁寧に読み上げた。
『久しぶり、ハルト。
急に手紙を送れなくなってごめんなさい。実は勇者様に誘われて、世界各地を回っていたの。
私もそれなりに実力がついて、勇者様のパーティとして更に自分を磨きたいと思い、紛争や災害が起こっている場所や魔族との戦いがある場所に行っていたの。
世界はとても広くて私の知らないものや、村では見た事ないものだらけで毎日楽しくて仕方がないよ。
聖女様や剣聖様も良い人だし、何より勇者様はいつも私の事を気に掛けてくれる。
ハルトも優しかったけど、勇者様の優しさは貴方とは別のものだと私分かってしまったの。
もう暫くしたら勇者様と一緒に村に帰るつもり。
ハルトの話をしたら是非とも一目見たいと聞かなくて。
…そこでちゃんと言うつもりだけど、ハルト。
私の事はどうか、忘れて欲しい。
貴方が私を大切にしてくれたのは知ってる。きっと、今も想ってくれてるんだよね?
だけど、今私の胸には貴方を想う気持ちは…ない。
私にとって大事なのは勇者様だけなの。この人が私の運命の人だと気付いたの。既に勇者様との婚姻も結んであるの。
こんな形で傷付けて申し訳ないけど、どうか許して欲しい––––』
そこまで読んだハルトは膝から崩れて落ちた。
握っていた手紙は空を舞い、やがて床に落ちた。ハルトは無意識に拳を固め、それを叩きつける。
最愛の人は自分の元を離れ。
そこで最愛の人物と将来を誓い合った。
突き付けられる現実。思考はまともに働く事はできず、言い難い感情が涙となって頬を滑り落ちる。
ずっと一緒だと思った。自分が彼女を幸せにできると信じた。困難続きの毎日でも、側に居てくれればそれで満足だった。
けれど、そうはならなかった。
レティは勇者という選ばれし人間に恋し、生涯の伴侶として寄り添うことを決めたのだ。何も不思議に思う必要はない。戦士の象徴たる存在に憧れを抱き、好意を持つのは当たり前だろう。
裏切りに怒ることはない。裏切られたのは自分には不足していて、勇者には十分なものがあったからだ。悔やみはしても、彼女に憎しみを向けることはない。
何よりも、何よりも悲しいのは––––––––
もう、彼女の隣に自分の居場所はないのだ。
そう感じたハルトは、心に亀裂が入ったような感覚を抱いた。
徐々ににそれは広がっていき、大きな音を立てて砕けた。全身の力が抜け落ち、けれども涙は止まらず、その場に座り込むだけだった。
まだ昼間だというのにやけに薄暗く感じ、遠くにいる幼馴染のことを考えるとまた涙を流す。悲しい、悔しい、そんな激情ではなく、薄雲のように曖昧な寂しさが胸に渦巻く。
後にはただ、嗚咽だけが響いた。